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1990年代半ばから2000年代初頭のいわゆる「就職氷河期」に学卒期が当たった、1970年代から80年代初頭生まれの世代を何と呼ぶか、今も呼称は一定していない。ある人は「氷河期世代」と呼び、ある人は「難民世代」と呼び、ある人は「貧乏くじ世代」と呼ぶ。
そんな呼称の1つに「ロスト・ジェネレーション」というのがある。一昨年あたりから特に朝日新聞がこの「ロスト・ジェネレーション」という言葉を多用しはじめ、「ロスジェネ」という略称もしばしば用いられるようになっている。 この「ロスト・ジェネレーション」に、メディア研究者の桂敬一氏が「『ロスト・ジェネレーション』というな!ひとりよがりで無神経な朝日の言葉の使い方」というコラムでかみついている。 NPJ通信 メディアは今 何を問われているか 桂敬一 桂氏の主張の要点をまとめると次のようになる。 ①「ロスト・ジェネレーション」とは元々、第1次世界大戦により伝統的価値観が崩壊した1920年代のヨーロッパで青年期を迎えた世代による文学的潮流を指す。結論から言えば「この人は何もわかっていない」と言わざるをえない。要するに桂氏は現代日本の氷河期世代に、反体制のエネルギーに溢れていた「ロスト・ジェネレーション」の呼び名は相応しくない、「世代」で切り取るのはやめろと言っているのだが、そうした発想は我々の世代の苦しみを全く理解していないから出てくるのである。 桂氏が「本来の『ロスト・ジェネレーション』には、もっと大きな歴史の混沌のなかに進んで身を投じていくエネルギーや、そこで不正に立ち向かっていく勇気」があったと強調する時、明らかに今の氷河期世代にはそれがないという非難を含んでいる。「お前らは本当の『ロスト・ジェネレーション』じゃない、なぜなら不正と闘う勇気がないからだ!」という意味を含んでいる。 彼のような恵まれたインテリゲンチャ(「左翼」をやっていても生活できる職業知識人)には、なぜ氷河期世代の、それも社会的弱者の多くが「自己責任」論を受容させられ、堀江貴文を「革命家」とみなし、郵政選挙でコイズミを支持したかは全く理解できないのだろう。「エネルギー」も「勇気」もないのは、そんなものを持てばますます社会から排除されるからだということが全くわかっていない。 学生運動の闘士が大蔵官僚や商社の経営者になれる時代はとっくに過ぎ去った。日本社会をそんな息の詰まったものにしてしまったのは誰か。少なくとも我々の世代ではない。 桂氏は「ロスト」には「迷子」「行き場がない」という含意もあると指摘するが、それならばまさに今の氷河期世代にぴったりの表現である。 終身雇用でない非正社員には中高年になる時に仕事に就いている保障は全くない。正社員は正社員で過労のために生きているかどうかの保障がない。「ニート」や「引きこもり」(いずれも差別用語だと私は考えているので「」つきで用いる)はなおさらだ。いつ社会との関係を断ち切られるか皆が不安を抱えている。まさに私たちの世代はよほどの特権的エリートでもない限り「迷子」なのである。 後期高齢者医療保険制度は高齢の年金生活者に保険料を負担させるというとんでもない制度だが、75歳まで生きられただけ氷河期世代よりはましである。我々の世代の非正規労働者は大半が社会保障制度から排除されている。国民年金や国民健康保険は低賃金のため払えず、雇用保険も機能していない。今のままでは75歳どころか、パラサイトしている親世代が死ねば氷河期世代もジ・エンドである。 旧来の左翼は「階級内階級」が存在する事実を認めたくないのか「世代」で区切るのを嫌う。中高年の雇用を守るために氷河期世代が犠牲になったと言われるのを避けるためもあろう。しかし、そんな机上の理論とは別に、現実に「安定」や「希望」や「生きがい」を「ロスト」させられ「迷子」であるのを余儀なくされている「世代」が存在するのである。まずはそれを認めて欲しい。 昔から貧困はあった、辛いのは氷河期世代だけでないというかもしれない。近代日本には一貫して貧困が存在したのは事実である。しかし貧困がミニマムであった時代と、現在のように大学を出てもまともな職に就けなかったり、「家族」「親族」「地域」「会社」のような社会的紐帯(さまざまな矛盾を抱えてはいても)が崩壊した時代とでは、やはり大きく異なる。我々は無防備にジャングルに投げ出されたようなものなのだ。 確かに我々の世代にはヘミングウェイやスタインベックがいない(さすがに佐藤友哉や乙一を彼らと同列にはできん)。そこで問われるべきは「なぜヘミングウェイがいないか」であって、「ヘミングウェイに比べてお前らは甘い」ということではない。 ヘミングウェイやフィッツジェラルドにはガートルード・スタインという庇護者がいた。しかし、今の氷河期世代にはスタインがいない。スタインたるべき人たちは、一介のコンビニ店員が「こんなみじめな人生を強要させられるくらいなら戦争でも起きないかな」と言っただけで袋たたき。これでは我々は本当に「行き場」がない。民衆の「分裂」を避け「統一」を目指すならば、氷河期世代の悲鳴を真摯に聞かねばならない。 私は「ロスト・ジェネレーション」という呼称自体は、好き嫌いは別として悪くはないと思っている。「プレカリアート」という造語も巧いが、これだと終身雇用を得られた層は含まれない。元の意味はどうあれ、桂氏のように忌み嫌う必要を全く感じない。 むしろ朝日新聞が批判されるべきは、そんな言葉の使い方ではなく、当の朝日新聞社が非正規労働を用い、不当な処遇を与えていることだろう。朝日に限らず新聞社は非正規労働の不安定性を問題にするのならば、まずは足元の問題に誠実に対応してもらいたいものだ。特に販売店の労働環境は相当ひどい状態にあるのは周知の事実である。 なお揚げ足とりになるが、雨宮さんを「貧乏人たちのジャンヌ・ダルク」と呼ぶ方がよほど無神経に感じる。ジャンヌ・ダルクはフランスの「救国のヒロイン」と目され、いわば「体制」を救ったということを讃美される人である。国家の犠牲者の側に立つ彼女に、国家側の象徴の名を与えるのはおかしい。朝日を批判する前に自分の言葉の使い方を反省して欲しい。 ▲
by mahounofuefuki
| 2008-03-13 21:21
私たちは「主権者」であって、「臣民」ではない。故に国家に対してさまざまな権利を行使するし、国家からは納税の見返りにさまざまなサービスを受ける。国家の存在価値は主権者が生存できるよう保障することにあり、「民」のために国家があるのであって、その逆ではない。
イラク人質事件の際に、人質たちが「国家に迷惑をかけた」と非難した輩がたくさんいたが、そもそも国家とは主権者が「迷惑をかける」ものであり、その「迷惑」を快く受け入れない国家は責任を果たしていないのである。 こんなことを書くのは、次のニュースを目にしたからである。毎日新聞(2008/03/12朝刊)より(太字強調は引用者による)。 離婚後300日規定で「前夫の子」となるのを避け、無戸籍となった男児への児童手当などの支給に当たり、三重県亀山市が母親(37)に対し「前夫または現夫から異議が出た場合は市に迷惑をかけない」などとする「念書」を提出させていたことが分かった。無戸籍でも手当などを支給できると自治体に通知している厚生労働省は「書面を出さないから支給しないというなら問題」としている。「書面を出さないから支給しないというのなら問題」なのではなく、こんな念書を出させたことこそ問題である。市民が困っている時に何とかするのが行政の役割であり、それを「迷惑」と位置づけるのは、全く筋が通らない。「児童の健康・福祉の観点」を口にするのなら、「前夫または現夫より異議」があろうとなかろうと、市は自信をもって公的給付を行うべきである。だいたいそんな念書に法的根拠があるのか。 私がこの問題に過敏になるのは、この国ではあまりにも「お上」に対する「臣民」意識(奴隷根性とも言ってよい)が強く、行政に負担をかけることをあたかも「罪悪」と感じる人が多いからだ。生活保護を受けると財政難の自治体に迷惑だとか、沈没した漁船の捜索に自衛隊を使うと「お国」に迷惑だとか、あまりにも権利に無自覚だ。 行政は厄介をかけるために存在する。何でも「自己責任」で抱え込んで自滅するのではなく、行政の厄介になる方が正しい。 このニュースの本筋は民法の「離婚後300日規定」だが、私は「戸籍を廃止して“個人籍”にしろ」という立場なので、当然無意味な削除すべき規定だと考えている。たとえ現行の戸籍制度を前提にしても、現代ではDNA鑑定で血縁関係は明らかになる以上、特例を容認するべきである。 【関連リンク】 戸籍法-法庫 ▲
by mahounofuefuki
| 2008-03-12 20:27
上司の暴言に耐えかねて2003年に自殺した日研化学(現・興和創薬)の30代の男性社員に労災を認定するよう妻が求めた訴訟で、東京地裁は暴言と自殺の因果関係を認め、労災給付金の不支給処分を取り消す判決を下した。
新聞各社の報道を総合すると、自殺した男性社員は日研化学名古屋支店静岡営業所で医療情報担当者として勤務し、沼津地方の病院への営業を担当していたが、2002年4月に営業成績向上のために送り込まれた係長が、同年秋頃から厳しい暴言を繰り返したため、男性社員はうつ病を発症し、2003年3月に首つり自殺した。死後、残された妻は労災を申請したが、静岡労働基準監督署は労災を認めず、給付金の不支給処分を下していた。 自殺した男性の遺書は次の通り(毎日新聞 2007/10/15 20:27)。 悩みましたが、自殺という結果を選びました。仕事の上で悩んでいました。入社して13年程になりましたが、係長に教えてもらうには手遅れで、雑談すら無くなりもうどうにもならなくなっていました。恥ずかしながら最後には「存在が目障りだ、居るだけでみんなが迷惑している、御願いだから消えてくれ!」とか「車のガソリン代ももったいない」「何処へ飛ばされようと俺が仕事しない奴だと言いふらしたる!」等、言われてしまいました。情けなくてどうしていいものかわからなくなり、元気もなくなり自分の欠点ばかり考えてしまい、そんな自分が大嫌いになってしまいました。先月からふと「死にたい」と感じ、家族の事や「このまま終わるか!」と考えると「見返してやる」思っていたのですが、突破口も無く係長とはどんどん話が出来る環境になりませんでした。しかし、自分の努力とやる気が足りないのだと、痛切に感じました。係長には「お前は会社をクイモノにしている、給料泥棒!」と言われました。このままだと本当にみんなに迷惑かけっぱなしになってしまいます。判決によれば、この係長は遺書に記された暴言のほか、「お前は会社を食い物にしている。給料泥棒だ」(朝日新聞 2007/10/15 19:57)とか「対人恐怖症やろ」(共同通信 2007/10/15 19:30)などとも発言していたという。判決はさらに「係長の態度には男性への嫌悪の感情があった」「男性の立場を配慮せずに大声で傍若無人に発言していた」とも指摘している(読売新聞 2007/10/15 22:15)。ヤクザ風の関西弁で大声で怒鳴り散らす姿が目に浮かぶ。 労働者の人間性を奪う企業社会にあって、中でも営業職は最も厳しい状況に置かれている。成果が売り上げという具体的な数字として現れるため、ノルマを課しやすく、競争を強要しやすいからだ。 この会社の場合も営業成績の悪い営業所に「敏腕」の管理職を送り込み、ノルマを徹底し、社員間の競争を煽ったのは間違いない。成果主義と競争原理が支配する職場において、成果の上がらないものを暴力的に攻撃するのは、他の社員への威嚇と見せしめのためである。さらにスケープゴートを用意することで、社員の不満をガス抜きする「効果」もある。スケープゴートにされた方はたまったものではない。 現代の企業はもはや人間らしさのかけらもない殺伐とした「ジャングル」なのだ。 成果主義・能力主義は成果や能力の上下を「自己責任」に転嫁する。 実際は単にその企業の商品に魅力がなかったり、市場の需給バランスが供給過剰だったり、営業の努力ではどうにもならない要因で成果が出なくても、個々の社員の責任にされる。 問題なのは、企業という狭い世界しか知らず、企業が与える成果主義以外の価値意識に触れる機会がない労働者は、この「自己責任」を全面的に受け入れ、うまくいかないと自分を責めてしまうことだ。 自殺した男性も遺書で、「自分の努力とやる気が足りないのだと、痛切に感じました」と自分を責め、会社を責める言葉はない。「自己責任」思想にどっぷりと洗脳されていたことがわかる。 この自殺は「自殺」ではなく、企業による「殺人」である。 そして氷山の一角にすぎない。今回の件は残された妻が泣き寝入りせず、立ち上がったからこそ明るみに出たのであって、実際は企業からのわずかな「見舞金」で口を封じられたり、遺書も何もなくて闇に葬られている事例の方が圧倒的に多い。 葬られた事件を発掘し告発するのが、残された私たちの責務なのだろう。 ▲
by mahounofuefuki
| 2007-10-16 13:04
FXで得た所得1億数千万円を隠し、脱税した疑いで、四日市の医師が告発された。
先月にも、FXで4億円を稼いだ主婦が脱税した事件が話題になったが、多額な不労所得ほど納税したがらない輩は相変わらずいるらしい。 医師という高給取りのエリートでありながら、その高給にあきたらず、個人投資で所得を増やそうとするあたり、現代人の飽くなき強欲さを象徴している。 投資というのは、基本的により大きな資産をもつ者ほど得をするシステムである。 しかし、金融資本は、まるで誰でも儲かるチャンスがあるように見せかけ、お手軽にカネを増やそうという欲望をかきたてる。 人々には誰かが儲かった分、誰かが損をしている(もしかすると破産すらしている)という想像力がない。自分で稼いだカネを何で社会なんかに還元しなければならないのだと開き直る。まるで生まれた時から、世界を自分1人の力だけで生きてきたような錯覚に陥る。 市場原理主義の最大の罪は、大衆の自己肥大化欲望を高め、社会のあらゆる局面で生存競争を強要し、個々人を分断して孤立化させ、しかもそれが「自己責任」であるかのように偽装したことにある。FXのようなハイリスク・ハイリターンな投資は、まさにそんな社会の縮図である。 こういう事件が起きると、多くの人々はけしからんとは思わず、自分もそういう風に稼ぎたいと羨ましがる。 しかし、「経済成長」の踏み台にされた「難民世代」としては、少数の人々を儲けさせるために、多数の人々を貧困と不安に陥れるやり方は、絶対に許せない。 少年犯罪の容疑者をバッシングしている暇があったら、今回のような「ずるい金持ち」の方こそ徹底して攻撃して欲しいものだ。 ▲
by mahounofuefuki
| 2007-09-18 14:43
日本複合カフェ協会が7日、記者会見を開き、「ネットカフェ難民」という言葉の使用を中止するよう求める声明を発表した。同協会はすでに、7月17日にも文書で同様の声明を発表していたが、一向に「改善」される気配がないため、改めて周知を図った格好だ。
日本社会では、これまで「不都合な事実」に直面すると、見て見ぬふりをするか、事実を矮小化するのが常であったが、「ネットカフェ難民」問題も同様らしい。 協会は7月17日の声明で、「そもそも、「難民」とは『戦禍・政難を避けて流浪する亡命者』(「広辞苑」より)と定義されているように、国際社会における深刻な人権問題として位置づけられています」と、「難民」の語義と「ネットカフェ難民」の実態の乖離を指摘しているが、「ネットカフェ難民」はまさしく「構造改革」「規制緩和」という「政難」によって発生したものであり、国家から見捨てられた人々、という点では「戦禍」をくぐり抜けた「難民」と同じである。「ネットカフェ難民」という語は、その実態を反映した適切な造語である。 協会は「お客様」は「難民ではない」と言いながら、他方「健全な複合カフェ市場の形成に努力」という言い方で、「ネットカフェ難民」を「不健全」とみなしてもいる。協会の詭弁は明らかであろう。 「ネットカフェ難民」に対しては、「もてる者」たちから、労働意欲が低い、能力が低いといった批判があるが、こうした批判は社会の厳しい現状に対する無知をさらけだしているようなものだ。 現在の日本では、経済的に自立でき、人間らしい社会生活を営める仕事は限られている。どうしても「狭き門」からあぶれる人々がいるのだ。資産がなく、家賃を払えるだけの収入がなく、住居を追われた人々にとって、ネットカフェしか雨露をしのげる場はないのである。 「努力が足りない」という非難もあるが、はじめから資産やコネをもっている人と、そうでない人との差は「努力」では埋められないほど大きい。まれに「成り上がる」人がいても、競争社会は「イス取りゲーム」である以上、その分、別の誰かがイスを失っているのである。 労働意欲を失くすのも、意欲がもてるような労働環境にないからだ。労働者が長時間労働と低賃金で喘ぐ一方、巨大企業家は政府の優遇政策によって、ますます儲けを増やし、それを下で支えている労働者に還元しないのでは、意欲など持てない人々が続出するのも当然だ。特に非正規雇用ではキャリアアップも昇給もない場合が多く、失業に怯えながら明日なき今日を奴隷のように生きている。意欲など持てないよう仕向けておきながら、意欲を持てと言うのは矛盾している。 一連のネットカフェ業界の動きではっきりしてきたのは、業界が「ネットカフェ難民」を排除する方向に踏み出したことである。 ネットカフェは、「自立生活サポートセンター・もやい」の湯浅誠さんが言うところの「貧困ビジネス」として、これまでさんざん「ネットカフェ難民」からの売り上げで儲けておきながら、イメージの悪化が商売に影響するようになると、手のひらを返すように「健全化」に踏み出した。身勝手な話だが、ネットカフェすら追われた「難民」はホームレス=路上生活者になるしかない。 ホームレスに待っているのは、行政による排除と大衆の冷めた視線である。現代の「弱肉強食」社会は、「弱者」を自殺か餓死に追い込もうとしている。強欲な「強者」にとってはまさにそれこそ願ってもない結末だ。自分の手を汚さずに邪魔な「弱者」を抹殺できるのだから。 当面早急に必要なのは、賃貸アパートの高すぎる敷金・礼金をどうにかすることだ。 「ネットカフェ難民」には入居したくとも、まとまったカネを用意できない。行政による援助(無利子の貸付など)を拡充する必要があろう。政府は、財政難を理由に社会保障費を出し渋っているが、こうしたことにはどんどん支出するべきだ。税金も払えないような人々が増えることは、政府にとっても得策ではないだろう。 ▲
by mahounofuefuki
| 2007-09-08 12:18
アフガニスタンでタリバンに拘束されていた韓国人人質が、ようやく全員解放された。
すでに2人の人質が殺害され、事態は長期化していただけに、ひとまず安堵した。 今回の解決は韓国政府の粘り強い交渉が功を奏した。 イラクで日本人が拘束された時、現地の宗教指導者に丸投げし、あまつさえ人質への中傷を繰り返した(香田証生さんの時に至っては見殺しにした)日本政府とは大きな相違である。 今回、韓国側は(少なくとも表向きは)最小限の譲歩で解放を勝ち得た。外交における交渉力の重要性を改めて認識させられた。 ところで、日本のイラク拘束事件の時、日本政府は人質の「自己責任」論を喧伝し、大衆もそれに乗って、人質への攻撃を加えるという事態になったが、韓国でも事情は同じらしい。 東亜日報(08/31/08:01)によれば、韓国の大統領報道官は「関係当事者たちが責任を取るべきことがあれば取るべき」と述べ、政府が使った費用の賠償請求を示唆したという。 世論も人質の「自己責任」を問う声がネットを中心に高まっているという報道もある。 志を持って社会活動をしている人々への心ない中傷は、そうした活動をやる勇気のない臆病者たちの小心さの裏返しである。 臆病者は、自分ができないことに汗を流す姿を見せられることで、自分の情けなさに否応なく気付かされる。それならそれで、沈黙していればよいのだが、「情けない自分」を認めたくない人々は、開き直って志のある人々を攻撃する。 日本だけの現象かと思っていたが、韓国でも類似の事態が起きているというのは悲しい。 今回の拘束事件ではっきりしたのは、アフガニスタンは無政府状態に逆戻りしたということだ。 その責任は言うまでもなく、アメリカ政府にある。アメリカが起こした戦争は、アフガンに安定を取り戻すどころか、ますます混迷と混乱を深めさせた。 アフガンの人々の苦境に同情を禁じ得ない。 ▲
by mahounofuefuki
| 2007-08-31 11:30
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