残したパンを持ち帰らない子ども

学校を卒業して大人になってしまうと、学校教育に関係した職業に就いているか、学齢期の子どもでもいない限り、最近の学校内の事情などわからない。
最近の子どもは、残した給食のパンを持って帰らないのが普通だという。
全然知らなかった。私たちの世代には考えられないことだ。

「衛生上よろしくない」という理由が不可解だ。
学校給食のパンは当日製造である。常温で保管していても、数日以内なら問題なく食べられる。こう言っては何だが、偽装表示が横行し、添加物だらけの市販の製品よりは、よっぽど信用できる。まったくもったいない話だ。

おそらく次のような経過をたどっているのではないか。
高級なパンしか食べない富裕層の子どもが、給食のパンなど食べられないと残す。帰宅しても食べないのだから持って帰らない。もしかすると親は庶民の食べる安物など「衛生上よろしくない」と言っているかもしれない。教室内でステータスの高い子どもがパンを持って帰らないことで、「パンを持って帰らない」という行為そのものが「イケてる」行為となる。それが「パンを持って帰る」ことが恰好の悪いものとなり、さらには「汚い」ものになったのではないか(卑屈者の考えすぎかもしれないが)。

学校側が保護者からの訴訟を恐れているのも情けない。
正しいことは堂々と主張するべきなのだ。委縮すればするほど、学校や教員を、バッシングしても反撃できない「公認の敵」とみなす大衆がつけあがるだけだ。
実際に訴訟を起こせるのは、一般にカネのある階層だけなのだから、ここでも富裕層の傲慢が影を落としているのがわかる。

余ったパンを処分せず、私に分けてほしいくらいだ。
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# by mahounofuefuki | 2007-09-10 16:12

「国民」より「アメリカ」

主権者の審判にも、どこ吹く風で、政権に居座るアベ首相が、なんと海自によるインド洋での米軍等への給油支援を継続できなければ、退陣するという。

「国民の意思」は無視するが、「アメリカとの約束」は職を賭す。この国の「主人」が誰なのか、如実にわかる発言だ。

言質は取った。野党は今国会でテロ特措法の延長に絶対反対し、給油活動を可能にするあらゆる立法を葬ることだ。
もうこの「祖父コンプレックス」のバカボンの顔など見たくもない。
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# by mahounofuefuki | 2007-09-09 21:32

日本共産党の方針転換

日本共産党が、次の衆院選で小選挙区での候補擁立を大幅に絞り込む方針を固めた。
これまではほとんどの選挙区で、勝敗にかかわらず、政策を訴える機会を得るために、候補を擁立してきたが、ついに方針転換に追い込まれた。

現行の公職選挙法では、衆院選の場合、有効投票数の10%と割ると、供託金を没収される。これが党財政を圧迫していたのだろう。もともと供託金没収制度自体が、共産党を含む小党潰しのために作られたようなものなので、新手の弾圧に後退を余儀なくされたとも言える。

共産党が候補を擁立するせいで、反与党票が分散し、結果として自民党を利しているという批判は、これまでずいぶんあった。
先の参院選のさなかにも、北海道大学教授の山口二郎さんが、「共産党は左の公明党になれ」と、選挙区での候補擁立をやめて民主党と連携するよう唱え、物議をかもしたことがあった。個々の党員や支持者の中にも、実際の投票行動では民主党の候補に投票する人々がいた。

正直なところ、私は2大政党制を絶対不変の所与の条件とするこうした議論を不快に思っていた。

民主党と共産党の政策にはあまりにも隔たりが大きい。
前記の山口さんは、当面は「戦争をしない」「新自由主義反対」でまとまればいいと主張していたが、私はそんな口先の公約よりも、その党がどの階級・階層・社会集団に立脚しているかを無視できないと考えている。

民主党は企業からの政治献金を受けている。民主党を支持する連合は、公務員や大企業の正社員が中心の労働組合である。つまり基本的に「中産階級」以上の支持を当て込んでいる政党なのだ。民主党には自民党以上の市場原理主義者も軍国主義者もいる。
企業献金も政党助成金も受けず、市場原理主義どころか、本質的には資本主義を否定している共産党とは決定的に異なる。

いつになるかわからない次の衆院選で自公両党が過半数を割らない限り、少なくとも後3年は、衆参のねじれ状態が続く。
今後の経済状況や国際情勢によっては、政局の安定を求めて、財界が自民・民主の「大連立」に向けて圧力をかける可能性すらある。すでに読売新聞は「大連立」を盛んに高唱している。日和見の大衆世論が支持することもありえよう。
そうなった時、共産党が民主党のコバンザメになっていたら、完全な翼賛体制になってしまう。そうならないためにも、共産党にはあくまで独自の路線を貫いてほしい。

共産党が特に若い世代に敬遠されぎみなのは事実だ。
「難民世代」である私も、正直その主張は「きれいごと」すぎ、またある種の「楽天性」「前向き姿勢」に距離感を感じることもしばしばある。
「弱肉強食」を無自覚に受け入れ、権力に用意された「公認の敵」をバッシングすることで欝憤を晴らしているような大衆に、そんな「きれいごと」は通じない。彼らを「主権者」としての自覚を持った人間に変えられるかどうかが、今後共産党が生き残れるかどうかの分かれ目だろう。

今回の方針転換が、単なる戦術的後退に終わってはならない。
そのためには、私も少しはお手伝いします(笑)
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# by mahounofuefuki | 2007-09-09 11:38

「ネットカフェ難民」排除の動き

日本複合カフェ協会が7日、記者会見を開き、「ネットカフェ難民」という言葉の使用を中止するよう求める声明を発表した。同協会はすでに、7月17日にも文書で同様の声明を発表していたが、一向に「改善」される気配がないため、改めて周知を図った格好だ。

日本社会では、これまで「不都合な事実」に直面すると、見て見ぬふりをするか、事実を矮小化するのが常であったが、「ネットカフェ難民」問題も同様らしい。

協会は7月17日の声明で、「そもそも、「難民」とは『戦禍・政難を避けて流浪する亡命者』(「広辞苑」より)と定義されているように、国際社会における深刻な人権問題として位置づけられています」と、「難民」の語義と「ネットカフェ難民」の実態の乖離を指摘しているが、「ネットカフェ難民」はまさしく「構造改革」「規制緩和」という「政難」によって発生したものであり、国家から見捨てられた人々、という点では「戦禍」をくぐり抜けた「難民」と同じである。「ネットカフェ難民」という語は、その実態を反映した適切な造語である。

協会は「お客様」は「難民ではない」と言いながら、他方「健全な複合カフェ市場の形成に努力」という言い方で、「ネットカフェ難民」を「不健全」とみなしてもいる。協会の詭弁は明らかであろう。

「ネットカフェ難民」に対しては、「もてる者」たちから、労働意欲が低い、能力が低いといった批判があるが、こうした批判は社会の厳しい現状に対する無知をさらけだしているようなものだ。
現在の日本では、経済的に自立でき、人間らしい社会生活を営める仕事は限られている。どうしても「狭き門」からあぶれる人々がいるのだ。資産がなく、家賃を払えるだけの収入がなく、住居を追われた人々にとって、ネットカフェしか雨露をしのげる場はないのである。

「努力が足りない」という非難もあるが、はじめから資産やコネをもっている人と、そうでない人との差は「努力」では埋められないほど大きい。まれに「成り上がる」人がいても、競争社会は「イス取りゲーム」である以上、その分、別の誰かがイスを失っているのである。

労働意欲を失くすのも、意欲がもてるような労働環境にないからだ。労働者が長時間労働と低賃金で喘ぐ一方、巨大企業家は政府の優遇政策によって、ますます儲けを増やし、それを下で支えている労働者に還元しないのでは、意欲など持てない人々が続出するのも当然だ。特に非正規雇用ではキャリアアップも昇給もない場合が多く、失業に怯えながら明日なき今日を奴隷のように生きている。意欲など持てないよう仕向けておきながら、意欲を持てと言うのは矛盾している。

一連のネットカフェ業界の動きではっきりしてきたのは、業界が「ネットカフェ難民」を排除する方向に踏み出したことである。

ネットカフェは、「自立生活サポートセンター・もやい」の湯浅誠さんが言うところの「貧困ビジネス」として、これまでさんざん「ネットカフェ難民」からの売り上げで儲けておきながら、イメージの悪化が商売に影響するようになると、手のひらを返すように「健全化」に踏み出した。身勝手な話だが、ネットカフェすら追われた「難民」はホームレス=路上生活者になるしかない。

ホームレスに待っているのは、行政による排除と大衆の冷めた視線である。現代の「弱肉強食」社会は、「弱者」を自殺か餓死に追い込もうとしている。強欲な「強者」にとってはまさにそれこそ願ってもない結末だ。自分の手を汚さずに邪魔な「弱者」を抹殺できるのだから。

当面早急に必要なのは、賃貸アパートの高すぎる敷金・礼金をどうにかすることだ。
「ネットカフェ難民」には入居したくとも、まとまったカネを用意できない。行政による援助(無利子の貸付など)を拡充する必要があろう。政府は、財政難を理由に社会保障費を出し渋っているが、こうしたことにはどんどん支出するべきだ。税金も払えないような人々が増えることは、政府にとっても得策ではないだろう。
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# by mahounofuefuki | 2007-09-08 12:18

メディアが映す皇室の姿

秋篠宮家の悠仁親王が、6日、満1歳の誕生日を迎えた。
日本では依然として皇室に対するタブーが続いており、言論の自由はまったくない。ゆえにメディアの皇室報道は翼賛一色なのだが、それでも最近の報道はある種の傾向がある。
悠仁親王の誕生以来、秋篠宮夫妻のメディアへの露出が増え、その評価もウナギ登りであるのに対し、皇太子一家に関する報道は、雅子妃の病気についてがもっぱらで、それ以外も「皇太子の孤立」やら愛子内親王の「教育問題」やら、なんとなく「暗い」話が多い。雅子妃に対する内外からのバッシングも続いている。

メディアが伝える2人の妃の姿は対照的である。
皇室典範改定による「万世一系」の危機を救い、公務と育児を両立する秋篠宮妃。
男子も産めず、病気で公務も滞りがちな皇太子妃。
こういうステロタイプが、最近の報道では確立しつつあるような気がする。
まさに俗な言い方をすれば、秋篠宮=「勝ち組」、皇太子=「負け組」という姿である。

国会で絶対安定多数を得て盤石だった小泉政権をして、皇室典範の改定に頓挫した以上、当面は典範改定の動きはなく、今後もしばらく現行法が継続するだろう。このまま行けば、将来皇位は皇太子から秋篠宮家に移る。
その時までには、単なるゴシップや「男か女か」という本質からずれた話ではなく、天皇と主権在民原則、あるいは立憲主義との関係はどうあるべきなのか、天皇制・皇室制度の賛否を含めて、真剣な議論ができる環境をつくりたいものだ。
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# by mahounofuefuki | 2007-09-07 08:24