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「追悼の場」と「自己顕示の場」

 昨日のエントリで、8月15日に靖国神社を参拝する人々の相当数が死者の追悼よりも、靖国を参拝するという行為を通して自分が「日本人」であるという帰属意識を確認することに意味を見出しているのではないか、ということを指摘したが、昨日の靖国神社の様子を映した動画を見てその思いをより強くした。

 YouTube - 平成20年8月15日 靖国神社
 http://jp.youtube.com/watch?v=JHZyrt0ph94
 まず「普通の」情景。0:30あたりで、「○○議員の○○先生」と延々と紹介しているのに失笑。靖国は選挙の票集めの道具なのが実態なのだ。途中でどう見ても「珍走団」にしか見えない人たちが・・・。最後の方で「パンダに国民の税金を使うなどもってのほかです」とかアジっていたのにも笑った。パンダなんかよりもっと重大なことがあるだろう。

 YouTube – 2008/8/15 靖国神社にて
 http://jp.youtube.com/watch?v=MGIdFGgIOlY
 YouTube – ドキュメント靖国神社01
 http://jp.youtube.com/watch?v=GsSCOtvyBoc
 まるで同窓会のノリで軍歌を熱唱するじいさんたち。上の動画では軍歌熱唱の輪の中になぜか若い女性が1人。

 YouTube - ドキュメント靖国神社02
 http://jp.youtube.com/watch?v=vFM0nEYQSXI&feature=related
 YouTube - ドキュメント靖国神社03
 http://jp.youtube.com/watch?v=3yn_LPFzDD0&feature=related
 YouTube - ドキュメント靖国神社04
 http://jp.youtube.com/watch?v=3msLcZvFRIM&feature=related
 軍装コスプレの皆さん。「軍隊ごっこ」にしか見えない。聴くに堪えない下手なラッパに涙目。こういう人たちに私はナルシズムしか感じないのだが・・・。

 YouTube - ドキュメント靖国神社05
 http://jp.youtube.com/watch?v=TqKIXQLToS8&feature=related
 「お約束」の機動隊と右翼街宣の対峙。街宣の諸兄は自分たちのやっていることが死者をかえって冒涜しているという自覚がないのだろうか。

 リアル中国へ帰れ中国へ!:WHAT’S NEW PUSSYCAT!?
 http://pussycat.blog.so-net.ne.jp/2008-08-15-23
 やはりあったトラブル。仲裁に入った人を中国人と決めつける。リアリティのない「他者の消えた楽園」を望む滑稽さ。

 戦争再生産装置としての靖国神社における戦没者追悼の在り方はますます歪みを見せている。追悼の場というよりも自己顕示の場とする人々。「軍隊ごっこ」を見ると、もともと日本の宗教の中では歴史の浅い靖国神社はある意味カルト化しているのでは?とさえ感じる。戦争への批判も反省もない好戦的ナショナリストに荒らされる場としての靖国。こんなものに公的性格を与えようとする気がしれない。

 ちなみに産経新聞(2008/08/15 21:07)によれば、靖国の参拝者は一昨年が25万8000人、昨年が16万5000人、今年が15万2000人と減少を続けているらしい。靖国神社はだんだん見放されつつある。

【関連記事】
「8月15日」
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by mahounofuefuki | 2008-08-16 13:00

「8月15日」

 今日8月15日は敗戦記念日である。内外の戦没者を追悼し、不戦を誓い、平和実現を祈願する、というのが模範的な行為なのだが、親世代でさえ戦争体験がなく、親族に戦没者がいないこともあって、個人的には「特別な1日」という実感はどんどん薄れていることを告白しなければならない。「8月15日」をめぐるさまざまな綻びを近年感じるようになったこともその一因である。

 今日の視点から歴史を顧みるならば、本来政治史的な意味での「敗戦」のメモリアルとなる日は、日本政府がポツダム宣言の受諾を最終的に決定した8月14日か、降伏文書に調印した9月2日なのだが、戦争体験者の実感に即せば、やはり「終戦の詔書」が公表された8月15日は特別な意味を持つのだろうから、それを軽視するつもりはない(旧植民地でもこの日は「解放の日」である)。この日に改めて「不戦」を誓うことの社会的な意味も認識している。しかし、「8月15日」が次第に儀式化・形式化する中で、形ばかりの「戦没者追悼」や口先だけの「平和の祈願」に距離感を覚えるのを否定できないのである。

 「8月15日」に対する違和感は、政府主催の戦没者追悼式をはじめ「正午」に黙祷を行う慣習に最も現れる。なぜ正午なのか。昭和天皇の「玉音放送」に重ね合わせていることは承知しているが、この「正午の黙祷」という行為が昭和天皇の「聖断」に特権的意味を付与し、「敗戦」を「終戦」と読み替えた欺瞞を公認しているように思える。そこからは天皇制の戦争責任を問う契機は生じない。
 戦没者の追悼に際しても、相変わらず戦没者の死に「平和のための礎になった」式の意味を与えようとする向きが強い。実際には戦争での死に意味などない。戦没者は国家によって犬死させられたという厳然たる事実を受け入れない限り、本当の意味で戦争を克服したことにはならない。国家の「せいで」死んだ人々を、国家の「ために」死んだと読み替え、あまつさえその死を「顕彰」する「靖国史観」などもってのほかである。

 その靖国神社では今年も多数の人々が参拝に訪れている。web上で実際に靖国に行ってきた人の報告記などを読む限りでは、8月15日の靖国はますます「祝祭空間」化が進み、のぼりを掲げた右翼集団や軍装のコスプレイヤーが目立つ。「静謐な追悼の場」を汚すような街宣も例年通り。本当に戦死者を心から追悼している人がどれほどいるのか。戦争体験のない世代や戦死者と直接のつながりのない者にとって、靖国を参拝することは追悼というより、「日本人」であることを確かめる象徴的儀式となっているのが実情なのではないか。一種のナルシズムである。
 福田康夫首相は賢明にも靖国参拝を行わなかったが、何人かの閣僚は参拝した。特にかつて集団強姦を「元気があっていい」と放言した太田誠一農水大臣が、戦争美化装置たる靖国に、それも8月15日に参拝するグロテスク。旧軍の性犯罪も「元気があっていい」と言っているようで非常に不快だ。戦没者追悼式で福田首相は過去の首相と同様、アジアへの加害責任に言及した上で「不戦の誓いを新たにする」と表明したが、いかに国家の最高首脳が公式にはそう言っても、一方で閣僚を含む多くの国会議員の矛盾する行動を放置している限り、国際社会はもとより、日本国内の良識ある人々にもその不戦の意思に疑念が生じざるをえない。

 一方、「平和の祈願」の在り方にも疑問がある。「戦後63年」という時、その「戦後」は「平和」であったという認識が前提にあるが、以前沖縄の慰霊の日に当ブログで言及したように、その「平和」の内実が厳しく問われるべきなのではないか。
 日米安保体制のもと、米軍基地や自衛隊基地のある所では必ずしも「平和」を享受できたと言えない。より大きな話としては、「戦後の平和」なるものがあまりに美化・特権化された結果、その間の社会の矛盾が忘却されている。「平和を守ろう」という掛声が、特に我々「氷河期世代」の社会的弱者にむなしく響くのは、その「平和」の恩恵を受けていないという「実感」が根強く存在するからである。

 「戦後の平和」が「虚妄」であった、とまでは言わない。少なくともこうしてささやかなブログを書く自由はまだある以上、「不正義の平和」だとか「戦争の方がまし」などとは全く思わないが、他方で毎年3万人以上が自殺に追い込まれ、貧困が拡大し続けるような状況を、とてもではないが「平和」とは言えない。むしろポスト冷戦下での「新たな戦争」なのではないかとさえ考えている。
 「既成の平和」を守るというスタンスをとる限り、現在「平和」に生活しえない人々には「平和」を守る意味を見出すことはできない。現実に世界が「核」の支配下にあり、世界各地で武力紛争が続き、また日本国家がさまざまな形態でアメリカの戦争に加担していることも含めて、「平和」が「未完の課題」であることを決して忘れてはならない。

【関連記事】
靖国神社とは何なのか
「戦争のおかげで日本は民主化された」論と「新しい戦争のカタチ」
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by mahounofuefuki | 2008-08-15 17:42

「議員特権」は問題ではない、「特権に見合った議員」を有権者が選ばないことこそ問題だ

 いつからか国会議員と言えば、利権まみれでダーティーで金持ちで胡散臭いというイメージが普遍化してしまっている。

 確かに最近も自民党幹事長の麻生太郎氏が、政治資金から年間3500万円も高級料亭などでの飲食に拠出していたことが報じられたように(しんぶん赤旗2008/08/14)、主に自民党を中心にそうしたイメージ通りの議員が相当な割合を占めているのは事実である。どうせたいした仕事もせず、大企業からの莫大な政治献金で肥えた議員なんかに、国税から歳費を支出することに反発を覚える人々が多いだろう。

 こうしたことを前提に、財政再建議論の中で国会にかかる経費を削減しようとする主張は根強いものがある。昨日の東京新聞(2008/08/13)「私説・論説室から」に掲載された「『永田町埋蔵金』もぜひ」と題する田畑豊氏の署名記事も、国会議員の文書通信交通滞在費の廃止を訴えている。
(前略) 福田政権は行政支出総点検会議を発足させるなど、「ムダ・ゼロ」を旗印にしている。何ら異論はない。ただ財宝のありかは霞が関だけではあるまい。
 ぜひ永田町埋蔵金も発掘してほしい。当然“土地勘”はあるはずだ。何がムダで、何がムダでないかの。
 まずは議員個人に毎月百万円支給される文書通信交通滞在費をやめたらどうか。実際は使途制限がない「つかみ金」(閣僚経験者)なのだから。廃止すれば、単純計算で年間約八十七億円が浮く。
 議員歳費や政党助成金のカットなども検討課題になろう。何より高給に見合った仕事をしているか-。これに答えられない議員こそムダのらく印を押されても仕方がない。
 国会議員の文書通信交通滞在費については、しばしば「第2の歳費」とか「使途不明金」としてやり玉に上がってきた。今年に入ってから新党大地の鈴木宗男衆院議員が、この文書通信交通滞在費の使用目的や使途報告義務の免除の理由などについて質問主意書を提出しており、これに対して政府は、使用目的は「公の書類を発送し及び公の性質を有する通信をなす等のため」、報告義務免除の理由は「承知していない」と答弁している。政府もわからないことに「怪しさ」を感じるのが一般的だろう。

 しかし、本来の国会の在り方や、国会と内閣の関係を考慮すれば、文書通信交通滞在費は必要不可欠なものである。

 まず、国会議員は行政官や司法官と同様、公務員なのだから、その職務にかかわる文書郵送や連絡にかかる経費は当然公費から支出されるべきである。これを私費に負担させるということは、たとえば官庁Aから官庁Bへの通達なり照会なりを個々の公務員が自腹で行うようなものである。民間企業で言えば、会社の電話代を社員に支払わせるようなものである。歳費とは別建てなのは、給料とは別の所要経費であるからにほかならない。

 次に、なぜ使途を報告する必要がないのかというと、議員の立法調査活動の独立性を担保するためである。本来、議員は歳費や立法事務費など公費のみでその活動をまかなうべきで、その場合、あまり細かく用途を決めてしまえば、それは活動の制約となる。政府が議員の活動に介入したり、あるいは政府に不都合な調査などが妨害される危険性が高まる。
 実際は議員への公費支出が高いのではなく、現実の議員の多くが公費以外の政治資金を外部から得ていることが問題なのである。特に企業・団体の政治献金は、本来「全国民」の代表者たる国会議員の地位を歪めており、これの廃止はすぐにでも行いたい課題である。

 「交通」については、すでに国会議員には列車やバスや航空機などの利用特権がある以上、二重取りではないかという疑念が生じるが、これは単に言葉上の問題で「文書通信交通滞在費」から「交通」の文字を削れば問題ではない(その分減額する可能性は認める)。いずれにせよ、本来議員が政府・行政から独立して、本気で国政の問題を調査・研究しようとすれば、当然カネがかかる。カネが不正に使われるリスクよりも、議員が資金難からたとえば政府が隠している問題を暴けないリスクの方を私は重視する。

 結局のところ、文書通信交通滞在費に限らず、議員特権があることが問題なのではなく、その特権に見合った仕事をする、真に主権者のために働く議員が選ばれていないことが問題なのである。議員が金持ちなのではなく、金持ちを議員に選ぶ有権者こそ問題なのである。前記東京新聞のコラムは、「高給に見合った仕事」をしているかと議員を批判するが、むしろ「高給に見合った仕事」をする議員を選んでいるのか有権者こそ責められるべきだろう。
 「無駄ゼロ」の掛け声で、議員の経済的基盤が弱体化させられ、貧乏な野党議員の活動が阻害されることを私は特に恐れる。議員定数の削減も議員特権の廃止も、結局は大企業の提灯持ちのような金満議員を喜ばせ、真に民衆に奉仕しうる議員の立場を弱くするという現実を忘れてはならない。

【関連記事】
「ムダ・ゼロ政府」構想は行政の責任放棄

【関連リンク】
国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律 - 法令データ提供システム
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO080.html
国会議員に渡される文書通信交通滞在費のあり方に関する質問主意書
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169019.htm
衆議院議員鈴木宗男君提出国会議員に渡される文書通信交通滞在費のあり方に関する質問に対する答弁書
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b169019.htm
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by mahounofuefuki | 2008-08-14 22:44

5.6%の憂鬱 (追記あり)

 宮崎日日新聞(2008/08/13)が、今月初頭に行った東国原英夫知事に対する宮崎県民の意識調査の結果を報じている。東国原氏に対する支持率は前回調査より4.2ポイント低下したものの、依然として89.5%の高率。一方、不支持率は5.6%だった。

 興味深いのは支持理由で、最も多いのは「メディアで宮崎をPR」で36.7%、次に多いのは「県民を元気づけている」で29.4%だった。昨年の調査では「行財政改革などの政策」が支持理由のトップだったというから、県民の多くは「行財政改革」(それがよいかどうかは別として)が進んでいないことは認めているのである。
 それにもかかわらず高支持率なのは、要するに県民のマジョリティは知事に行政上の具体的な成果ではなく、何より「セールスマン」としての役割と「元気」の付与を求めているからで、東国原氏はそういった大衆の欲求に忠実に従っていると言えよう。

 支持者の愚かさを嘲笑うのは簡単である。しかし、ある意味、地方政治に何を期待しうるかという問題に即せば、実にリアルな判断であると言えるのは否定できない。現在の都道府県はどこも財政赤字に苦しみ、地方交付税交付金の削減や地方向けの公共事業の減少などで、著しく体力が落ちている。地方自治の財政的・経済的基盤の再建には国の支援が必要不可欠だが、国は地方切り捨てを続けている。このような状況下では誰が知事でもたいしたことができない。それならばせいぜい地域のセールスマンとなって、地元の産品の販路を拡大するのに寄与してもらった方が、できもしない「改革」などよりも現実的な「成果」を受け取れる。ポピュリズムは政治に対するシニシズムと表裏一体である。

 とはいえ「元気づけている」という具体性の欠けた、受け取り手の内面に関わる要素が重視されているのは、やはり問題があると言わざるをえない。面倒な事や不愉快な事や不都合な事を隠蔽してでも、耳に心地よい話だけを提供しろと求めているに等しいからだ。何となく景気のよいイメージさえあれば、あとはどうでもよいという思考停止が読み取れる。東国原氏と双璧を為すタレント知事である橋下徹氏に至っては、明らかに住民の多くに「不利益」をもたらしているのに、やはり高支持率をキープしている。彼も口先では「大阪を元気に」と繰り返していた。奴隷根性が骨まで沁みついている人々は、もはや表面的な「元気」さえもらえれば、自己にふりかかる「不利益」も霧散してしまうのだろう。

 ちなみに、よくポピュリズムにはポピュリズムで対抗せよという見解があるが、大衆が求めるものが「元気」である以上、それに迎合すれば東国原や橋下のような姿にならざるをえない。つまり東国原氏に対抗するために同じような人材を擁して勝ったとしても、その対抗馬は東国原氏と何ら変わらず、同じような行動しかとり得ない。それでは全く意味がないことは言うまでもない。

 今回の調査でわかったことは、少なくとも宮崎県でまともな人々の割合が5.6%だという厳然たる事実である。全国の割合も同じようなものだろう。学校のクラスで1人か2人。ある意味絶望的な数字だ。この5.6%が5.6%のままで「勝つ」方法をとるか、残りの9割以上が翻意するのをじっと待ち続けるか。おそらくそのどちらも必要なのだろう。最悪なのはこの5.6%すら同調圧力に屈して、マジョリティに宗旨替えしてしまう(させられてしまう)ことである。そんな最悪の事態もないとは言えないほど、この国の政治状況は袋小路にある。


《追記 2008/08/15》

 「Gazing at the Celestial Blue」より「大阪府民は400人よりはたくさんいる」というエントリのTBをいただいた。不覚にもそのエントリは今まで見落としていて、本エントリを書くときには全く念頭になかった。
 Gazing at the Celestial Blue 大阪府民は400人よりはたくさんいる
 http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-497.html

 ご指摘のように、世論調査がどこの誰を対象に、どういう方法で行っているかを考慮しないで、結果だけをそのまま信じてしまうことは危険である。本エントリで触れた宮崎日日新聞の調査も詳細不明なので、そのままの数字を真に受けて「まともな人が5.6%しかいない」と勝手にシニカルに沈んでしまったのは、言いすぎであった。そもそも「まとも」という言い方自体にある種の差別意識が内包されている。本記事は8月13日時点での正直な感想なので撤回はしないが、現在は反省している。碧猫さまに感謝申し上げます。
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by mahounofuefuki | 2008-08-13 23:11

「日雇派遣」禁止議論に対するモリタクの警告

 厚生労働省の日雇派遣禁止方針に関しては、同省「今後の労働者派遣制度の在り方に関する研究会」の報告書が不十分な内容であることを当ブログでも批判したが、昨日、森永卓郎氏がさらに厳しい見方を示していた。
 「日雇い派遣禁止」の裏に隠された巧妙なからくり / SAFETY JAPAN [森永卓郎氏] / 日経BP社
 http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/145/index.html

 森永氏は特に2つの問題を重視している。第一は、日雇派遣禁止に伴い、日雇労働者が大量に失業する可能性があること、第二は、報告書が派遣対象業務の規制を無視していることである。氏は今回の厚労省の動きについて「結局は大手業者の利権を守りつつ、世間の批判をかわすために出てきた措置ではないか」とまで指摘している。

 結論から言えば、森永氏の心配は決して杞憂ではない。
 第一の問題に関しては、単に日雇派遣禁止だけでは短期的には失業者が増えることは、すでにグッドウィル廃業で経験済みであって、当然何らかの手当てを行わなければならない。現在、厚労省では「しごと情報ネット」を拡充して、日雇などの短期雇用の求人を派遣会社に代わって紹介する事業を検討していると伝えられるが、実効的に機能するようなシステムが必要だろう。理論的には「日雇派遣」を禁止しても、「日雇」に対する企業の需要がある限り、求人はなくならないが、禁止前に派遣の時給引き上げが必要であるという氏の指摘は正論である。

 第二の問題に関しては、当ブログでも「最低でも同一労働の均等待遇を義務づけ、不安定な登録型派遣を廃し、派遣対象業種を制限するところまでやらなければ、雇用待遇差別の解消のスタートラインにすら立てない」と指摘したが、特に派遣の製造業への解禁が貧困を拡大したことは『労働経済白書』も認めているほどで、派遣対象業種の規制は絶対必要不可欠である。
 森永氏は「証拠はないものの、製造業務への派遣労働禁止をしないのは、派遣労働を大量に利用している大手製造業と、大きな利益を得ている大手派遣会社に、政府が配慮しているからではないか」と指摘しているが、この点は製造業における「2009年問題」を考えれば、正しい見立てだろう。私は以前から直接雇用申込義務の廃止と日雇派遣禁止の「抱き合わせ」を警戒しているが、政府・財界は日雇派遣中心の新参派遣業者を切り捨ててでも、大手メーカーの利益を擁護しようとするだろう。今後の展開によっては「大手業者の利権を守りつつ、世間の批判をかわすために出てきた措置」になってしまう可能性がある。

 派遣労働問題に関しては、派遣それ自体の解消で完結するのではなく、正規雇用や他の非正規雇用(請負など)も含めた、この国の労働環境全般を視野に入れて、人間らしい働き方を確立する方向性につなげる必要性を、最近特に感じている。非正規雇用の正規化をもって雇用待遇差別是正の突破口にしたいという考えは変わっていないが、政府や財界が巧妙な罠を次々と仕掛ける中で、より戦略的な対応を求められているのも事実だろう。

【関連記事】
労働者派遣法改正問題リンク集
日雇派遣禁止は当たり前。問題はそのあと。
派遣労働見直しへのバックラッシュと「抱き合わせ」改正への警戒
厚労省「今後の労働者派遣制度の在り方に関する研究会」報告書は不十分
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by mahounofuefuki | 2008-08-12 12:34

米兵裁判権放棄に関する法務省文書の閲覧禁止について

 日本政府が1953年に、在日米軍の将兵による刑事事件に対する裁判権を放棄する密約をアメリカ政府と結んでいた、という報道を覚えているだろうか。
 同年締結の日米行政協定第17条は、米兵の「公務中」の犯罪はアメリカ側が、「公務外」の犯罪は日本側が1次裁判権を有すると定めていたが、実際の運用にあたっては「公務外」の場合でも衆目の集まる「重要」な事件を除き、日本政府は裁判権を行使していなかったことがアメリカの公文書公開で明らかになった件である(なお安保改定に際し、日米行政協定は日米地位協定に変わったが、裁判権条項は同じ17条に残っている)。
 今年5月に共同通信(2008/05/17 19:15)は次のように報じていた(太字引用は引用者による、以下同じ)。
 日本に駐留する米兵らの事件をめぐり、日米両国政府が1953年に「重要な案件以外、日本側は裁判権を放棄する」との密約に合意し、日本側がその後約5年間に起きた事件の97%の第1次裁判権を放棄していたことが、17日までに機密解除された複数の米側公文書で分かった。
 一連の米側公文書は58年から66年にかけて作成され、米国立公文書館で見つかった。
 このうち58年10月2日のダレス国務長官の在日米大使館あて秘密公電などによると、「日米安全保障条約改定に応じるに際し、日本側から裁判権放棄について意思表示を取り付けるべきだ」と秘密合意を公的にするよう提案した。
 これを受け、2日後にマッカーサー大使が岸首相と会談。大使は「53年の秘密議事録を明らかにせずに慣行として日本は裁判権を放棄してきたし将来も同様だと表明してほしい」と要請したが首相は応じなかった。
 また57年6月に国務省が作成した文書によると、53年以降、日本が1次裁判権を持つ約1万3000件の事件のうち97%の裁判権を放棄。実際に裁判が行われたのは約400件だけだった。
 安保改定に際してアメリカ側は「密約」を公にするよう要求したが、当時の岸信介首相は拒否、つまりあくまで内外に秘密にし続ける意思を示したという内容で、ここからその後も「密約」は効力を持ち続けていたことが容易に推定できよう。

 この件は他の「密約」と同様、アメリカの情報公開で明らかになったもので、文書管理と情報公開の遅れる日本側の関係文書はこの時点では一般には明らかにはなっていなかったが、先日、この裁判権放棄の「密約」の存在証明を補強する法務省の内部資料が明らかになった。
 以下、共同通信(2008/08/04 13:43)より。
 日本に駐留する米兵の事件をめぐり、1953年に法務省刑事局が「実質的に重要と認められる事件のみ裁判権を行使する」との通達を全国の地検など関係当局に送付、事実上、裁判権を放棄するよう指示していたことが、同省などが作成した複数の内部資料で分かった。
 法務省は地検に「慎重な配慮」を要請し、事件の処分を決める際は批判を受ける恐れのある裁判権不行使ではなく、起訴猶予とするよう命じていたことも判明。地検の問い合わせには日米地位協定に基づき、日本が第1次裁判権を行使できない「公務中の事件」の定義を広く解釈するよう回答していた。
 日本側の裁判権放棄については日米両政府による53年の秘密合意が明らかになっているが、合意を受けた具体的対応が分かったのは初。現在も米兵の交通事故など多くの事件が起訴されておらず、通達の効力は維持されているとみられる。
 内部資料は、法務省刑事局と警察庁刑事局が54年から72年にかけて作成した「外国軍隊等に対する刑事裁判権関係」などの実務資料。日米関係研究者の新原昭治氏や共同通信が入手した。
 しんぶん赤旗(2008/08/05)によれば、問題の通達は法務省刑事局長が1953年10月7日付で全国の検事長・検事正に宛てたもので、1972年3月に同局が作成した「合衆国軍隊構成員等に対する刑事裁判権関係実務資料」(マル秘指定)に収録されていたという。つまり、少なくとも1972年の時点でも「密約」は有効だったことがわかる。

 ところが、今日になって次のようなニュースが明らかになった。
 以下、しんぶん赤旗(2008/08/11)より(引用にあたり漢数字をアラビア数字に変換した)。
 日本に駐留する米兵の犯罪に関する日米間の密約を裏付ける法務省資料が、これまで国立国会図書館で閲覧可能でしたが、政府の圧力で6月下旬から閲覧禁止になったことが10日までに明らかになりました。
 利用禁止になったのは、1972年3月に法務省刑事局が作成した「合衆国軍隊構成員等に対する刑事裁判権関係実務資料」です。
 今年5月下旬、国会図書館に政府から、「(同資料を)非公開とする旨の発行者の公的な決定」が通知されました。同図書館は6月5日に関係部局長で構成される委員会で対応を協議し、「現時点では発行者の公的な決定と異なる判断を下す理由を見いだせなかった」として、同月23日に閲覧禁止を決定。同図書館のインターネット資料検索システム(NDL―OPAC)からも削除しました。
(中略)
 法務省資料には、米兵の犯罪に対して、第1次裁判権(日本側が優先的に裁判を行う権利)の大部分を放棄するよう指示した1953年の通達など、政府が存在を公に認めていない米兵に対する特権的事項が収録されています。同資料は「マル秘」指定になっていますが、古書店で販売されていたものを国会図書館が入手し、1990年3月に蔵書として登録しました。
 法務省資料の「発行元」である同省刑事局は本紙に対して、「本件についてコメントできない」としています。(後略)
 まず、5月の報道では不明だったマル秘資料の入手経路が明らかになった。1990年3月より以前に法務省(あるいは警察庁)もしくはその関係者から問題の資料が古書店に流出し、それを国立国会図書館が入手し、蔵書として登録したことがわかる。新原昭治氏らは国会図書館で正規の手続きを踏んで当該資料の複写を入手したのは間違いない。

 一方、新たな謎もある。アメリカ側文書の存在が報じられたのは5月17日。政府が国会図書館に非公開通知を行ったのは「5月下旬」。閲覧禁止が6月23日。政府の動きがいかにも早い。18年間も放置されていたのだから、政府が法務省資料の流出を知ったのは5月17日以降だろうが、どうやって国会図書館の資料の存在に気づいたのか。新原氏と共同通信の動きを知った上で、すぐさま隠匿工作を指示したと考えられるが、その具体的経過がよくわからない。

 一連の流れから、私が注意するのは次の2点である。

 第1に、政府がすぐさま閲覧禁止措置にしたように、この日米地位協定違反の「密約」は政府にとって何としても日本の主権者の目から隠したいもので、そして現在も効力を持っているということである。実際、現在も米兵の事件は相当数が不起訴となっている。問題の刑事局長通達が指示しているように、不起訴によって事実上裁判権を放棄する方法が一般的に行われているのは間違いのないところだろう。

 第2に、「廃棄された公文書」の扱いである。今回の場合、文書を所持していた関係者から流れたか(たとえば関係者本人の死後、遺族が保有文書を売りに出すことは多い)、法務省(あるいは警察庁)自体が現用でなくなって廃棄したのが古書市場に出たのかのどちらかだろうが、いったん廃棄ないし売却された文書を、いかに発行者とはいえ「閲覧禁止」を要求することが果たして正当なのかどうか。以前、ある歴史研究者が防衛省防衛研究所の所蔵資料で論文を書いたら、それが旧軍にとって不都合な内容だったために、その資料が閲覧停止になったという話を聞いたことがあるが、今回の場合、すでに法務省の手を離れた文書なのだから、より悪質である。

 現在公文書問題については、この問題をライフワークとする福田康夫首相の肝いりで、担当の国務大臣が置かれ、「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」が設置され、現行では事実上各省庁の恣意に任されている文書管理と情報公開の改革が検討されている。ここで想定されている中心課題は公文書の管理と公開の一元化で、省庁から文書館への移管を確実にする方策が重視されているが、今回の法務省の場合のようなケースはどうなのか。福田首相は今回の件を黙って見過ごすようでは、言行不一致の誹りを免れない。
 日米関係の「闇」の深さに戦慄を覚えると同時に、日本国家の文書管理の不透明さに改めて驚きを禁じ得ない「事件」である。

【関連リンク】
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定 – 外務省*PDF
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/pdfs/fulltext.pdf
国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/
公文書管理の在り方等に関する有識者会議 - 内閣官房
http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/koubun/index.html


《追記》

 本稿執筆後、「情報流通促進計画」が別のソースを用いて、法務省文書閲覧禁止の件についてのエントリを上げておられるのを確認した。

 てえへんだ、てえへんだ・・・国会図書館が裁判権放棄を裏付ける文書を急きょ閲覧禁止に! - 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)
 http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/39e42e5f941390a2fe28e0ca6fb7a1dd

 なお、ヤメ蚊氏の記事では、国立国会図書館の資料制限措置の内規が問題になっているが、そもそも国立国会図書館法が第21条で「両議院、委員会及び議員並びに行政及び司法の各部門からの要求を妨げない限り」とその活動に制限が加えられており、法律自体に問題があると言うべきだろう。

 国立国会図書館法 - 法令データ提供システム
 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO005.html
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by mahounofuefuki | 2008-08-11 21:42

潜在する「原爆肯定論」と戦争体験の「伝え方」

 今日は長崎原爆忌だが、私が注目していたのは、昨年原爆投下を「しょうがない」と発言した久間章生衆院議員(当時は防衛大臣)の動向だった。朝日新聞(2008/08/09 13:21)によれば、久間氏は昨年欠席した長崎平和祈念式典に今年は参列したものの、相変わらず「原爆投下を肯定するつもりで言ってない」と弁明し、発言そのものを撤回しなかったという。久間氏は被爆者団体による政府への要望の場にも同席したが、長崎原爆被災者協議会の事務局長は「直接久間氏に抗議したいが、今回は被爆者の思いを政府に伝える場なので自粛する」と話しているという。地元長崎選出の国会議員としての「威力」が久間氏への批判を弱らせ、問題を霧散させようとしているのではないかという疑念を抱かざるをえない。

 ところで、久間氏の発言趣旨とは微妙に異なるが、「原爆のおかげで戦争が“早期終結”し、軍部から解放された」という見方を私は実際に何人かの戦争体験者から聞いている。これは原爆が「本土決戦」を回避し、天皇制国家を解体させる直接的契機になったという意味で、原爆投下が日本本土侵攻で想定される兵員の犠牲を救ったというアメリカの原爆正当化論とも通じるが、こうした「実感」は戦争体験者に少なからずあると思われる。

 この件については、そもそも日本政府の降伏決定に原爆がどの程度影響を与えたのか依然不明だし、ソ連の侵攻が「終戦」の決定打だったという説もあり、政治史的には根拠薄弱なのだが、何よりもどこかに「正しい目的のためには大量虐殺は仕方ない」という政治主義や、戦争犠牲者の「死」に無理に「われわれのために犠牲になった」という身勝手な「意味」の付与が読み取れて(実際は原爆の犠牲者は誰かのために「目的」をもって犠牲になったわけではない)、非常に危険なものを感じる。特に後者は戦争犯罪を行った政治主体の責任を免罪している点で、「国のせいで死んだ」戦没者を「国のために死んだ」とすり替える「靖国史観」と共通する。

 よく戦争体験が風化することへの警告や、戦争の実情を理解する必要性は指摘されるが、実際の体験者の「戦争体験」に含まれる「実感」が、結果として戦争に対する認識を歪める可能性があることは、これまであまり重視されてこなかった(久間氏の発言もいわば彼なりの「戦争体験」談である)。現在伝えられる「戦争体験」も実はほとんどが「敗戦体験」で、戦争の語りが「8月」に集中しがちな原因もそこにある。言うまでもなく「15年戦争」の全過程においては日本軍による「加害体験」も多数あり、「被害体験」も敗戦間際固有のものではない。それぞれ個別の戦争体験から今日的意義を読み取るには、やはり当時の人々が置かれていた社会状況や政治構造を学ぶことが必要であるし、場合によってはそこから戦争犯罪を正当化するような「体験」を批判しなければならないだろう。

 実際に私の周辺であった話だが、中国戦線に出征した元兵士が、新兵の時に上官命令で中国人捕虜を銃剣で殺したという体験を話したところ、ある子どもが「○○○(中国人の蔑称)を殺せるなんて羨ましいな」という感想を漏らしたことがあった。インターネットで排他主義や歴史修正主義の言説に容易に触れられるようになってしまった現代の悪弊が如実に表れているが(捕虜虐殺の事実を認めているだけ、「捏造」とか喚く改竄派よりはましなのかもしれんのが悲しいところだが)、そういう時代にあっては単に「体験」を伝えるだけでは限界があるのも確かだ。戦争体験の「伝え方」に工夫が必要になっていると言えよう。

 残念ながら文部科学省の教科書検定や一部マスメディアの反学問的な歴史改竄の動きや「受験体制」の弊害のせいで、歴史教育が歴史学から乖離しているのが現実である。歴史学界では実証的にとうてい通用しないような「否定説」(たとえば南京大虐殺)や「陰謀論」(たとえば真珠湾攻撃)が、世上では横行しているのも周知の通りである。そうした現状では、戦争体験の「伝え方」を云々する段階にはないとも言えるが(むしろ歴史教育の場では、当時書かれた文書=1次史料に触れさせる方が重要である)、一方で、「体験」ならではの「深み」と「厚さ」は決して軽んずるべきでもない。現実問題として戦争体験者の数が減り続ける中で、平和形成への力となるような「伝え方」を考えねばなるまい。
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by mahounofuefuki | 2008-08-09 22:23

「社会保障財源なら何でも賛成する」のなら、「金持ち増税」に賛成してよ、尾辻さん。

 小泉内閣が始め、安倍・福田内閣でも継続している、社会保障費自然増分から2200億円を毎年削減する政策について、先の国会でその転換を主張した自民党の尾辻秀久参院議員(元厚生労働大臣)が最近次のように語っているのを読んだ。
(前略) 個人的な意見では、消費税を上げるしかない。消費税15%や20%の国でやっている社会保障のレベルを消費税5%でやれるわけがない。
(中略)
 たばこ増税に関する超党派の議連では、私も代表世話人の1人です。「上げ潮派」の中川秀直さん(衆議院議員)とともに代表世話人なので興味深く見られていますが「黒い猫でも白い猫でもネズミをとる猫はいい猫だ」というのが私のポリシー。つまり社会保障のためのおカネならば、どこから出てきても結構だと。私は、社会保障の財源ならば何でも賛成するという立場です。(後略)  (尾辻秀久、二木立、権丈善一による座談会「医療費抑制政策の撤回は大規模な財源確保から」『週刊東洋経済』2008年8月2日号より、尾辻の発言、太字強調は引用者による)
 「社会保障のためのおカネならば何でも賛成する」ということは法人税でも所得税でもいいよね、尾辻さん。消費税とたばこ税にこだわる必要はないでしょ?

 と思わず揚げ足を取りたくなるが、社会保障削減を徹底的に批判している尾辻氏でさえ、大企業への負担増を「聖域」とする自民党の枠組みから逃れられないという見本のような発言である。ましてやこの座談会では、日本の社会保険料の企業負担が低すぎるという話が出ているにもかかわらず、消費税かたばこ税しかないように刷り込まれているのである。

 しつこいようだが、消費税もたばこ税も税の応能原則(能力に合わせて税を負担する)に反し、再分配効果がない。いまや貧富の差が大きく、税や社会保障の再分配効果が低下しているこの国に必要なのは、これまでさんざん「聖域」として甘やかされていきた大企業と富裕層への負担増である。貧困を拡大する逆進税の増税など少なくとも現時点ではもってのほかである。

【関連記事】
消費税増税問題リンク集
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by mahounofuefuki | 2008-08-07 20:31

原爆忌にあたって

 今日は63回目の広島原爆忌ということで、各新聞が社説や特集で原爆体験の継承や核廃絶・核軍縮に関するオピニオンを掲載している。「戦争を語り継ごうブログ」がそれらの代表的なものをまとめていて便利なのでリンクする。

 戦争を語り継ごうブログ 「ヒロシマ原爆の日」の新聞社説・コラム
 http://nishiha.blog43.fc2.com/blog-entry-1152.html

 「ほとんどの新聞が『核廃絶は世界の動向となりつつある』しかし『北朝鮮・イランなどの核拡散の危険性も高い』といった論調のようですが、前者に希望を持つ新聞と後者への警戒を強める新聞とに分かれる」と同ブログが指摘しているように、各紙の間には温度差がかなりあるのは例年どおりである。

 注目すべきは、昨年、アメリカの共和・民主両党の国務・国防長官経験者らが「核兵器のない世界へ」と題する論文を発表し、大幅な核軍縮や核実験の禁止などを提起したことに注意を促す論説が複数見られることである。かつて核大国アメリカ政府の中枢で核抑止論を前提とした国家戦略を推進してきた人々が、政治的リアリズムの立場から核廃絶への道筋の必要性を表明したことは、核抑止論の限界を象徴しており、確かに重要な意味を持つ。また、今日の広島市の平和宣言では、今年平和市長会議が発表した核廃絶までのロードマップといえる「ヒロシマ・ナガサキ議定書」に言及していたが、国際社会における核廃絶を目指した動きが確固たる位置を占めつつあると言えよう。

 一方で、今年に限ったことではないが、昨今の日本社会における「核」の「語り」にはある種の危惧を抱いている。言うまでもなく、世界で最も核兵器を多数保有しているのはアメリカ合衆国であり、日本国家は日米安保体制のもと「核の傘」に置かれている。核軍縮・核廃絶について語るならば、何と言っても日米安保体制をどう転換していくのかを問わないことには始まらない。しかし、実際は安保支持者はもちろん、そうでない場合でも「アメリカの核」に対する批判意識・問題意識が弱まっているのではないか。日米安保体制が長期化する中で、「核の傘」が「空気」になってしまい、「核の支配下」に置かれているということに無自覚になってはいないだろうか。この点は自戒を込めて強調したい。また現在北東アジアにおける最大の懸案となっている朝鮮の核開発問題も、日本では「拉致問題」の影に隠れてしまいがちなのも問題である。

 核保有国は例外なく貧富の差が大きいという事実や、人類が自らを滅亡させるだけの力を有している現状がいかに危険かを決して失念してはならないだろう。
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by mahounofuefuki | 2008-08-06 19:17

「失言」が許されてしまう人

 自民党幹事長の麻生太郎氏が、民主党の政権交代論や国会戦術を揶揄し、ナチスの政権獲得過程を引き合いに出した「失言」の件。

 福田改造内閣発足にあたって弊ブログでは「新自由主義『漸進』路線を明示した福田改造内閣」というエントリをあげたが、実はその時意識的に触れなかった問題があって、それが「麻生太郎」の件であった。
 自民党が現在持っている「手駒」の中で相対的に最も「人気」が高い麻生氏を党幹事長に起用することで、「次の首相」は麻生氏という「期待感」を大衆に付与し、次期総選挙を何とか有利にしようとするねらいは明白だが(総選挙に「麻生総裁」で臨む可能性もある)、その流れに従えば麻生氏を「話題にする」こと自体が自民党の目論み通りになるので、基本的に天邪鬼な私はあえてスルーしたのである。しかし、早くも嫌でも話題にせざるをえない問題を起こしてくれた。自己嫌悪を抱きながら本稿を書いている。

 麻生氏はかつての田中眞紀子氏や小泉純一郎氏や橋下徹氏のような真の意味でのポピュリストではないので、黙っていれば平凡な世襲の保守政治家の1人にすぎないが、「漫画好き」とか「べらんめえ調」といったキャラクターを本人や周囲が仕立てていくことで「人気者」という虚像が形成されていく構図になっている。
 「失言癖」もそんな彼を「その他大勢」から引き立てる役割を果たしており、その失言の矛先が「世間の空気」に向かわない限り、麻生氏の「国民目線」のキャラクターはますます強化され、知名度も上がる。彼の「失言癖」は対外的には命取りになりかねないが、国内向けとしては決して不利になることはないのだ。

 しかも古来大衆扇動の要諦は、体制に順応した人々が不安や不満の責任を転嫁したがっている「醜悪で悪意に満ちた敵」を徹底的に攻撃することにある(皮肉にもそれに最も「成功」した例がナチスのアドルフ・ヒトラー)。小泉氏は大衆の公務員への嫉妬感情に乗じて「郵便局」を、橋下氏は大衆の少年犯罪への復讐感情に乗じて「光市事件弁護団」を「敵」に仕立てることで、「敵と闘うヒーロー」になりえた。麻生氏の場合、朝鮮半島の植民地支配に対する歴史修正主義発言が韓国・朝鮮人への差別意識を潜在させている人々に認知され、かえって知名度を上げた過去がある。麻生信奉者が「失言」に乗じて「民主党=ナチス」というネガティヴキャンペーンを仕掛けることさえ不可能ではない。

 残念ながらこの国のマジョリティーは、小泉氏や橋下氏やあるいは石原慎太郎氏といった攻撃的指導者の「失言」を「失言」とはとらえず、大衆と「同じ目線」の「本音」と捉える。麻生氏が「何を言っても、何をやっても許される」彼らの列に加われることができるかどうかはまだ何とも言えないが、麻生氏は今後もこうした「失言」を繰り返すことで、「左」を忌避する人々に喝采を浴び(実際の民主党は「左」ではなく「リベラル」という規定すら怪しいのだが)、その「空気」が大衆社会のメインストリームになる可能性さえあるだろう。

 当ブログではこれまで民主党に厳しいことを言ってきたし、これからもその見方は変わらないが、それ以上に私はポピュリズムが嫌いなので、麻生氏をめぐる現状ははっきり言って面白くはない。
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by mahounofuefuki | 2008-08-05 20:04