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「通年国会」は議会制民主主義を破壊する

 自民・民主両党の「若手」衆院議員7人が「真の『言論の府』を目指す」と題する国会改革案を発表したという。
 朝日新聞(2008/02/06 19:13)によれば、7人は河野太郎、柴山昌彦、水野賢一、山内康一(以上、自民党)、馬淵澄夫、細野豪志、泉健太(以上、民主党)の各氏で、次の8項目である。
◇会期不継続の原則の廃止(会期中に議決できなかった法案が自動的に廃案になる制度を是正)
◇立法審査と行政監視の分立(法案そのものの審議と政府のスキャンダル追及などを分離)
◇党議拘束の緩和(各議員の価値観で判断が分かれる法案への賛否を自由化)
◇議員立法の充実(衆院20人、参院10人の賛同者を集めれば提出権のある議員立法が、所属政党の承認が必要となっている慣例を排除)
◇外交への配慮(国会会期中の閣僚の自由な外交を容認)
◇行政府の効率化の推進(質問通告を委員会では48時間前までに早める)
◇委員会運営の改善(委員会の日程をあらかじめ決める)
◇本会議改革(党首討論など法案の議決以外にも、重要課題の討論を本会議で行う)
 詳細は不明だが、少なくとも報道された内容からは、「改革」どころか議会政治を破壊する暴論としか思えない。
 何と言っても問題なのは、会期不継続原則の廃止である。現在の国会法は「会期中に議決に至らなかった案件は、後会に継続しない」と定め、会期内に議決されなかった法律案は、継続審議の手続きを行わない限り、審議未了で廃案となる。この原則により、1つの会期に提出しうる法案数が制限され、審議を延ばすことで少数派は多数派の支持する案に抵抗しうる効果を生み出した。国会会期の延長制限(通常国会は1度、臨時・特別国会は2度まで)とともに、多数派による独裁を抑止するためには絶対に必要な制度である。
 ところが「若手」議員らはこれを廃止して、いわゆる「通年国会」を実現しようというのである。通年国会になってしまえば、会期内に議決できなくても自動的に継続審議になるから、政府・与党は会期内成立にかまわず好きなだけ法案を提出でき、一方、少数派には法案を廃案にもっていく機会は消えてしまう。国会審議の緊張はなくなり、いつでも多数決で議決できるようになる。
 戦前の明治憲法体制から続く議会運営の大原則を平然と踏みにじる彼らの見識を疑わざるをえない。

 立法審査と行政監視の分立というのも、行政への監査を切り離した法案審議など現実にはありえず、だいたいそんな制度は私の知る限りどこの国にもない。閣僚に国会出席よりも外遊を優先させる案も国会が自ら「国会軽視」する自殺行為以外の何ものでもない。党議拘束や議員立法の件はそれぞれの政党の問題であって、法令で定めるようなことではない。
 今回の提案は結局、衆参の与野党逆転状況にあって、政府・与党の法案を通りやすくするための御都合主義的な方便だろう。民主党の議員が一部とはいえこんな暴論に賛同するあたり、この党の「本音」が透けて見える。

【関連リンク】
国会法-法庫
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by mahounofuefuki | 2008-02-07 20:34

商船を追い払ってまでアメリカ軍艦を寄港させる外務省

 日米安保体制とはそもそも日本がアメリカに軍事基地を提供する代わりに、アメリカが日本の安全を保障するというシステムで(アメリカに守ってもらう代わりに、便宜を提供するとも言えるが)、パワーポリティックス的観点に立っても、あくまでも双方にとってメリットがなければならない関係である。
 しかし、沖縄をはじめ米軍基地のある地域の現状は、アメリカの「加護」の代償としてはあまりにも大きく、平穏な住民生活の妨げになっている。安保体制の実情は単にアメリカが都合よく日本列島を軍事拠点として利用できる制度であって、現状では日本側にはほとんどメリットがないのではないかと言わざるをえない。岩国市長選挙の争点も、アメリカだけにメリットがある状態の是非が問われていると言えよう。

 そんな一方的な日米関係を象徴するような出来事が北海道小樽市で起きた。経過は次の通りである。

 今年1月16日、アメリカ海軍第7艦隊の旗艦「ブルーリッジ」が2月7~11日に小樽港に寄港したいという要請が小樽市にあった。ブルーリッジはこれまで何度も小樽に寄港しているが、今回は指定期間中にパナマ船籍などの大型商船が岸壁(バース)を利用する予定があったため、小樽市長は1月28日に入港を断る決定をし、小樽海上保安部を通してアメリカ側へ伝えた。小樽市は2000年にもアメリカ軍艦の入港を断った事例があり、何も問題はないはずだった(北海道新聞2008/01/28 13:43)。

 ところが、その直後から小樽市側に対し、外務省北米局の課長補佐クラスから電話が10回近くあり、さらに2月1日には同省日米地位協定室長が市役所を直接訪問して、ブルーリッジを寄港させるよう圧力をかけたという。外務省側は軍艦よりも商船を優先した小樽市の判断を「港湾管理者としての能力に欠ける」とまで言い放ったという。
 外務省が港湾管理者である地方自治体の権限に介入する法的根拠はない。山田勝麿市長は「商船を追い払ってまで入れるとしたら、まるで軍港だ」と話し、商船優先の方針を改めて回答した(同前2008/02/01 07:12)。

 事態はその1日に急転する。当初2月8~13日に入港を予定していたパナマ商船の代理店が、入港予定が10日ほど遅延すると連絡してきたのである。バースが空いた以上、ブルーリッジの寄港を拒否する理由がなくなった小樽市は、アメリカ側へ入港可能を通知した。
 商船の予定変更について小樽市港湾部では「理由はわからない」としているが(同前2008/02/02 07:31)、北海道新聞2008/02/06朝刊社説は「商船の日程変更を国が働きかけたのでは、と勘繰りたくなる」(太字は引用者による)と指摘している。
 結局、アメリカ側の当初の要求通り、ブルーリッジは2月7日に小樽港へ寄港する見込みである。

 要するに、自治体が商船を優先してアメリカ軍艦の寄港を断ったところ、外務省が法的権限もないのに軍艦を寄港させるよう圧力をかけ、自治体がそれでも姿勢を変えないと、不透明な方法で商船の方の予定を変更させてまで、アメリカ軍艦の寄港をごり押ししたのである。

 山田市長は「まるで軍港」と言ったそうだが、これでは「植民地の軍港」である。この事件が示すのは外務省がもはやアメリカ政府・軍の代理人であって、独立国の外交当局ではないという実態であろう。
 さらに問題はこんな地方自治と外交の独立性を破壊するニュースを地元のメディアしか報じていないことだ。近年、日米安保体制の矛盾を示す問題はすべて「地域の問題」に還元され、「全国の問題」や「国家の問題」にならなくなっている。日米の軍事一体化がどんどん進むなかで、こうしたことは日本のどこでも起こり得る。単なる一地域の問題と捉えてはならない。
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by mahounofuefuki | 2008-02-06 22:25

「非正社員が正社員になりたかったら、正社員の解雇自由化に賛成しろ」という悪魔の囁き

 「ニュースを読む」と銘打ったブログを書いている以上、できるだけいろいろなニュースソースを把握しておきたいのだが、実際は私ほどアンテナの狭いブログ書きはいないのでは?と自問してしまうほど、ネット上の巡回先が少ない。特に財界べったりのビジネス系のニュースサイトなんかは読むのが苦痛でしかなく、普段は無理して読まないのだが、今日たまたま読んだら、やはりというか何というか、血圧が上がりそうなとんでもない記事を見つけてしまった。
 正社員のクビを切りやすくする改革は受け入れられるか|辻広雅文 プリズム+one|ダイヤモンド・オンライン
 筆者の辻広雅文氏はダイヤモンド社の論説委員で、「週刊ダイヤモンド」の元編集長である(以下、引用文の太字強調は引用者による)。

 書き始めは穏当である。最近の株価下落は外国人投資家が「改革」の「後退」に「失望」したからだという新自由主義勢力の説に疑問を呈し、外資が「評価し、株を買いたくなるような改革が果たして日本の国民にとっていい改革かどうかも怪しい」という指摘はもっともである。外資が「イベントやサクセスストーリーを欲しがっているだけ」とまで言っている。
 それを踏まえて辻広氏は、「最優先で取り組むべき改革」は「財政問題」でも「社会保障問題」でもなく「労働市場改革」であり、「正社員と非正社員の処遇格差問題の解決」だと主張する。社会保障と切り離した労働政策があり得るのかという疑問はさておき、正規・非正規雇用間の待遇差別は今日の「貧困と格差」の決定的要因であり、その「解決」が重要であるというのは首肯できる。

 「その格差問題のなかで最も深刻なのは、正社員と非正社員の処遇格差であろう。同じ仕事をしているにも関わらず、片方にしか昇給昇進の道は開かれていない」「彼らは好きこのんで非正社員を選んだのではない。とりわけ、1990年代半ばから10年ほどの間に出た若者にとって就職氷河期が続いた。それは明らかに政府のマクロ経済政策の失敗で、彼らの責任ではない」「こうした状況を放置すれば、ワーキングプアたちの生活の荒廃から社会の劣化が進むだろう」というくだりは、我々「氷河期世代」には涙が出るほど真っ当な現状認識である。
 上の世代からも下の世代からも「努力が足りない」「能力がない」「甘えている」と罵倒され続けている中で、はっきりと「政府のマクロ経済政策の失敗」のせいであると言ってくれるのは本当に心強い。

 ところがである。この男が「氷河期世代」の非正規労働者に優しい言葉をかけたのには別の思惑があることが次第に明らかになる。

 彼は語る。「では、どうすればいいか。現在雇用している正社員を抱えたままで、非正社員の正社員化を進められるほど体力のある企業はまれである。経営者に非正社員の社員化の実行を促す仕組み、つまり正社員と非正社員を入れ替えることができる仕組みが必要だろう。要は、正社員を整理解雇できるようにするのである」と。要するに正規・非正規雇用間の不均等待遇を均等にするためには、非正社員の待遇を正社員並みに引き上げるのではなく、正社員と非正社員が入れ替わるような雇用の流動性が必要だと言うのである。
 以前、和田中学校の夜間補習の件の時にも指摘したが、この国では「平等」の定義について「横並び」派(すべての人々が等しい)と「機会均等」派(誰もが上昇の機会がある)の間にコンセンサスがない。辻広氏は明らかに後者で、非正社員が正社員になる機会を作るためには、正社員を自由に解雇できる制度が望ましいと主張するのである。
 言うまでもなく現行の労働法制や労働関係の判例では正当な理由がない限り解雇はできない(ことになっている)。故に彼は「労働法制の大転換」を唱える。ここで真実ははっきりする。正規・非正規雇用間の差別解消はあくまでも「解雇の自由化」の口実にすぎないのだ。

 「虐げられた人びと、ワーキングプアたちを救えという声は多く聞こえるが、正社員の雇用に手をつけるという視点は、世の中のどこにもない。それは、メディアを含めて影響力のある人びとの多くが正社員という既得権益者であるからだ」という本人も正社員じゃないの?という予想されるツッコミに対しては、「自分自身が抵抗勢力である」と言うだけ。そう言いつつ彼は最後まで終身雇用に守られ、そこそこの退職金をもらい厚生年金+α(どうせ資産運用しているだろう)で生活できる老後を迎えるのだろう。
 労働法制の解体を唱えるようなエリートは不思議と想像力に欠けていて、自分が実際に非正規雇用になって、昇給もボーナスもなく、場合によっては社会保険も厚生年金もない状態を考えはしない。あるいは考えても「実力」に自信があるためか軽視したがる。ましてや「ワーキングプア」やホームレスに自分がなる可能性など絶対に考えたことがない。考えたことがあれば、こんな暴論を唱えるはずがないからだ。

 辻広氏の記事の目的は明瞭だ。正社員を「既得権益」と称すことで、正社員と非正社員を分断し、非正社員が「正社員の解雇の自由化」に賛成するよう仕向けることである。これは「正社員を自由に解雇できるようになれば、あなたたちが正社員になれるチャンスが広がりますよ」という悪魔の囁きだ。今まで自分を見下していた正社員が没落する様を思い描いてカタルシスを得る者もいるだろう。
 しかし、それは問題のすり替えである。「正社員の既得権益」は本来「権益」ではなく「労働者の当たり前の権利」である。正社員に昇給やボーナスや社会保険があるのがおかしいのではなく、非正社員にそれらがないことがおかしいのである。それを修正するには正社員の待遇を引き下げるのではなく、非正社員の待遇を引き上げるほかない。
 非正社員が叫ぶべきは「既得権益を解体しろ」ではなく、「既得権益をおれにもよこせ」である。単に「上」と「下」が入れ替わるだけでは、差別そのものは存続する。「正社員の解雇の自由化」は「貧困と格差」の解消どころか、「全労働者の奴隷化」さえ招くだろう

 だいたい正社員と言っても、現在ほとんどが成果主義による競争と過労で苦しんでいる。大企業と中小企業の格差や地域間格差も深刻だ。「既得権益」と言えるほど正社員が恵まれた状況にあるわけではない。最近は「ワーキングプア」化した「周辺的正社員」がクローズアップされているほどだ。
 正規・非正規雇用間には確かに矛盾はある。しかし、その解決は正規雇用の解体ではなく、非正規雇用の「正規」化と非人間的な労働環境の是正によってしかもたらされない。財界や御用メディアが目論む労働法制の解体は矛盾を拡大するだけだ。「本当の敵」を決して見誤ってはならない。
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by mahounofuefuki | 2008-02-05 22:29

社会保障の財源が消費税でなければならない理由はあるのか

 以前、北海道大学大学院教授の山口二郎氏の消費税増税を含む財政論をブログで批判したことがあったが、その要点は氏が歳出の公平性は重視するのに、歳入の公平性を軽視していることだった。そうした批判は方々から出ているようで、『週刊金曜日』2月1日号で氏が反論していた。社会保障の財源がなぜ消費税でなければならないのかという問いには全く答えず、はっきり言って失望させられた。
 『金曜日』の記事は山口氏のブログに転載されている。
 YamaguchiJiro.com|08年2月:どのような日本を造るのか

 「私は、西ヨーロッパ型の福祉国家モデルを日本も採用すべきだと考えている。また、環境保護のためには経済成長をある程度抑制しなければならないとも考えている。日本の現状を見て、財務省と経済財政諮問会議およびその周辺にいるいかがわしいエコノミストの言う歳出削減路線が、社会保障を壊し、格差を広げたと憤っている」(太字は引用者による、以下同じ)という事実認識と目指す方向性に異論はない。歳出の総量を削減する必要は全くなく、現在の「小さくなりすぎた政府」を「大きな政府」とまでは言わずとも「ほどよい政府」くらいにはすぐにでも拡大しないと、日本社会の持続可能性は消滅すると私も考えている。
 問題は次の箇所である。「先日も、札幌の市民派ローカル政党を支持する市民と話をしていて、医療、介護に行政が責任を持つならもっと税金を払ってもいいけれど、今の政府は信用できないから増税には反対だという、市民派がよく言う主張を聞いた。しかし、信用できる政府を作ったうえで増税に応じるなどという話は、百年河清を待つ類である。新自由主義者や財務省は、政府は常に信用できないものだから、いつも小さいままでいいのだと、この種の議論を逆手に取る」と、「信用できる政府」は決して生まれないというシニシズムを前提にした議論を展開するのである。
 私はその対話の席にいたわけではないので、実際のところどのような話だったのか不明だが、福祉国家への具体的な道筋と具体的な予算配分を明確に公約した政府のもとでなければ増税を容認できないというのであれば正論である。道路特定財源で在日米軍の将校用住宅を作っているような(しんぶん赤旗2008/02/02による)政府が、いくら口先だけで「社会保障を充実します」と言っても誰も信用しないのは当然だ。これまで負担増のたびに私たちは裏切られ続けた。実際に増税を先行して社会保障に使われなかった時(後述するようにその可能性が非常に高い)、山口氏はどうやって責任をとるつもりなのか。

 一方で、氏は「私は、今すぐ消費税率をあげろといっているのではない。所得税の累進性の回復や相続税の増税など、公平の観点から先にすべき増税が何種類かある」とも述べているが、まさにその点こそ現在直面している課題であり、なぜその主張を第一に掲げないのか疑問だ。たとえ「将来」と限定していても氏のようなオピニオンリーダーが消費税増税を口にすることが、いかなる政治的効果を与えるかを知らぬわけではあるまい。社会保障の財源が消費税である必要は何もない。所得税でも法人税でも相続税でも構わないはずだ。
 山口氏は「消費税増税による財政再建か、歳出削減による財政再建か」という議論にとらわれすぎているように思える。しかし、実態はこの両者に違いはない。その証拠に日本経団連をはじめ財界団体はさらなる歳出削減を主張すると同時に、消費税増税も唱えている。彼らの目論見は消費税増税によって企業減税の財源を作ることにある。こうした動きを粉砕するには「庶民増税か、金持ち増税か」という次元の異なる対立軸を提示することであり、それは氏のような影響力のある政治学者の仕事である。

 最近の「北欧」ブームも含めて、私が何よりも不安なのは、現在の貧困層を切り捨てた上での福祉国家構築の動きである。消費税が引き上がれば、貧困層の家計は大打撃を受け、年金や健康保険の保険料を負担できなくなり、社会保障制度の枠外にはじかれる。山口氏が唱えるようにいくら増税で医療も教育も無料にすると言っても、増税と社会保障制度の充実にはタイムラグが生じる。増税の瞬間に確実な社会保障給付が行われでもしない限り、貧困層は生存権を失う。
 実は福祉国家構築の最も手っ取り早い方法はまさにこれで、社会保障の負担ができずに給付を受けるだけの貧困層や高齢者を死滅させ、残った現役の中産階級以上の人々だけで「高負担・高福祉」を実現する。かつて北欧諸国がマイノリティーに対する断種政策を行ったように、あらかじめ「税を負担できず給付を受けるだけの存在」を消し去りたいのではないかという疑問が拭えない。「社会保障充実のための消費税増税」というレトリックの影にそんな企図を読み取るのは穿ちすぎだろうか。
 今、何よりも必要なのは、所得格差の縮小である。所得の平等度を高めない限り、「高負担・高福祉」など夢のまた夢である。消費税の引き上げがそれに逆行するのは言うまでもない。

【関連記事】
「歳出の公平性」だけでなく「歳入の公平性」も必要だ
消費税増税問題に関するリンク
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by mahounofuefuki | 2008-02-03 17:03

「橋下ショック」と「ポピュリズム」~反省の弁

 1月27日に書いたブログ記事「既得権益への反発と大衆の「本音」~大阪府知事選挙の結果」は、あまり評判が良くなかったようで(高い評価を与えてくださった方も少なからずいたが)、特にはてなブックマークでは批判的なコメントが多く寄せられた。当該記事は投票締め切りとほぼ同時に(まだ開票が始ってもいないのに)「当確」が出たことに腹を立てながら急ごしらえで書いたもので、普段にも増して粗雑で論理性に欠け、感情的な内容になってしまったのは確かである。
 非難が集中したのは、橋下氏に投票した人々を「深く軽蔑し、絶対に許さない」と罵倒した点で、これは彼の立候補表明時にも顰蹙を買ったので、同じ誤りを繰り返したことになる。とはいえそれが当時の私の正直な感情であったので取り消すつもりはない。そういう憎悪を撒き散らす物言いでは決して有権者には受け入れられないという批判もあったが、当ブログはいわゆる「政治ブログ」ではなく、他者を啓蒙しようなどという思い上がりはないので、全く筋違いである。「彼らが自分の首を絞める愚行だったことに早く気づくことだけを祈っている」というのは文字通り「祈っている」のであって、私の文章に「彼ら」を変える力などないことは、誰よりも自分が知っている。

 その点を誤解して、私に大衆を啓蒙できるような知性がないと批判したブログがあった。
 ネット左派リベラルはポピュリズムの反知性主義批判ができるか-手記
 批判の要点は、「ネット左派」(私を含む)は「知性ある自分ってステキ」と思い込んで「B層とかポピュリズム」を非難するが、「同じ左派であっても、堅牢な左派の知性と軟弱思想のネット左派の知性では雲泥の差がある」ので、ネット左翼には「反知性主義」を批判することはできない、ということである。
 しかし、少なくとも私は知性や理性を重視してはいても、それが「自分に十分な知性や理性がある」ということを意味しないと自覚している。当ブログに論理性も一貫性もなく矛盾もそのままにしているのも、それを修正するだけの能力が私にはないからだ。私が「“知”を忌避するポピュリズム」と指摘したのは、私の当該記事を読めばわかることだが、熊谷貞俊氏のような職業知識人を敬遠する大衆心理について言及した文脈の中であって、「ネット左派」のことは念頭にない。そもそも私はポピュリズム=「反知性主義」とは考えていないので、すべてのポピュリズムを「“知”を忌避するポピュリズム」とみなしてもいない。
 ただし、このブログ主がそう誤読したのは、私が「“左”を忌避するポピュリズム」=「“知”を忌避するポピュリズム」と書いてしまったからで、これは完全に「筆が滑った」と認めざるをえず、非は当方にある。当該記事の「『“左”を忌避するポピュリズム』は『“知”を忌避するポピュリズム』でもあり」という部分は撤回する
 なお、このブログ主は現代思想に詳しく、ミシェル・フーコーを信奉しているようで、「知性」の有無の判断基準はフーコーを読んでいるかどうかだそうだが、残念ながら(?)私は『性の歴史』(ご指摘の「知への意思」を含む)はずいぶん前に読んだ。フーコーの権力論も基本的な内容は知っている。また「言語論的転回」についても「初めて聞いたというネット左派たちばかり」と決めつけているが、こちらも私は歴史認識との関係で一家言ある。もちろん私の場合、ただ知っているという程度で、このブログ主の理解度にはとうてい及ばないだろうから、これで揚げ足をとるつもりはない(ただこのブログの物言いに「フーコーを語る自分ってステキ」という無自覚な自己満足が読み取れてしまうのもまた事実)。

 はてなブックマークでも指摘があったが、本来「ポピュリズム」とはパワーエリートが大衆運動を侮蔑して用いた言葉で、日本でも長らく「左のポピュリズム」が主流だった(社会党の土井たか子ブームなど)。それが変化したのはここ10年くらいで、慶応義塾大学の小熊英二氏が「新しい歴史教科書をつくる会」の動きを「“左”を忌避するポピュリズム」と明快に分析したのもその頃だった。「草の根の保守主義」とかファシズム運動とは明らかに異なる「右」の新しい動きは、その後も紆余曲折を経ながら依然として日本社会の底流に定着しつつあると考えている。
 とはいえ、私も含めて最近のネット言説が「ポピュリズム」概念を濫用しているのは確かで、その歴史的経緯や政治学における研究史に無知のまま、単にアイドル的な政治家が有権者を組織化せずとも大量動員できる状況を「ポピュリズム」と斬って捨ててしまう風潮は反省せねばなるまい。昔の左翼が都合の悪いものを何でも「ファシズム」とレッテルを張ったような真似はしてはならないだろう。この問題は私のような「ネット左翼」の手に余るので、誰か本当の専門家が整理してくれるとありがたいのだが。

 本当は「橋下ショック」で野党も知名度の高いタレントを候補として擁立すべきだという動きが顕在化している状況に疑問を呈したかったのだが(むしろ無名だが実力のある現職を積極的に売り出して有名にする方が理に適っている)、時間も紙幅もなくなったので書かない。今回でもう懲りたので、しばらくは「ポピュリズム」問題には触れるつもりはない。

【関連リンク】
はてなブックマーク-世界の片隅でニュースを読む:既得権益への反発と大衆の「本音」~大阪府知事選挙の結果


《追記 2008/02/03》

 前記のブログ「手記」が拙文を受けて、丁寧なフォローをしてくださっていた。
 野党共闘の一極集中型の権力概念は自滅の道-手記
 いろいろ行き違いはありましたが、nichijo_1氏の真摯な批評に敬意を表します。
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by mahounofuefuki | 2008-02-02 12:54

教育再生会議最終報告について

 教育再生会議が最終報告を首相に提出した。同会議設立の主唱者である安倍晋三前首相が退場したことで、その地位はすでに低下し、マスメディアも「尻すぼみ」とみなしているが、そう断定するのは早計であろう。福田康夫首相は教育再生会議の後継機関を今月中にも発足させることを表明しており(共同通信 2008/01/31 22:00)、この最終報告は今後も終始議論のたたき台になる恐れがある。

 全文を読み始めてまず笑ってしまったのは、冒頭で唐突に「生活者重視」というフレーズが登場することで、これは言うまでもなく福田首相の施政方針に沿ったものだが、図らずも報告の政治性を証明してしまった。もし安倍政権が続いていたら、間違いなく「美しい国」というフレーズを強調していたはずだ
 続けて「今、直ちに教育を抜本的に改革しなければ、日本はこの厳しい国際競争から取り残される恐れがあります」という日本の支配階級の本音が述べられている。教育を経済に従属させることが一連の「教育改革」の真の目標であり、堂々と包み隠さず明記したのは、潔ささえ感じた。
 とはいえ提言の内容そのものは、長らく保守勢力が一貫して主張してきたもので、目新しさは全くない。「徳育」の充実、「ゆとり教育」の見直し、子どもの選別、「悪平等」の排除、「校長を中心としたマネジメント体制」、小中一貫校、「飛び級」と、国家主義・新自由主義に立った主張ばかりである。

 教育再生会議はそのメンバーに教育学者や現場の教員をほとんど含まず、いわば「素人」の井戸端会議であったことはしばしば指摘されてきた。そのことも含めて、近年の教育政策の特徴は「教育の専門家」を排除ないしは弱体化することに主眼が置かれている。教員免許更新制の導入や「民間人」校長の起用は、明らかに教員の裁量権を弱め、「素人」が恒常的に学校教育の主導権を握ることを目指したと言ってよい。
 今回の最終報告でも「直ちに実施に取りかかるべき事項」の筆頭に「教員免許更新制、教員評価、指導力不足認定、分限の厳格化、メリハリある教員給与」を挙げ、教員に対する国家統制の強化と競争原理の導入による差別的労務管理を重視している。一方で「社会人等の大量採用」を掲げ、財界人が直接教育現場に乗り込めるような体制づくりを推進している。

 教育再生会議は「国際競争力」の耐えられる「学力」が低下しているという危機意識を前提にしているが、そもそも「学力低下」の原因は文部科学省が教育内容における到達目標を軽視し、学習者の選別を図ったからにほかならない。
 1989年の学習指導要領で指導要録(学校の学籍と指導の記録原簿)に観点別評価が導入され、「知識」や「理解」よりも、「関心」や「態度」や「意欲」を重く評価するようになったのが始まりで、当時「新しい学力観」と喧伝された。「何を理解したか」よりも「やる気」を重視し、すべての学習者に基礎学力を習得させることが軽視された。
 大学時代、私はこの「新しい学力観」を信奉する教師から話を聞いたことがあるが、彼はすべての子どもが同じ到達目標を目指すのではなく、それぞれの「個性」に合わせて、「できる子」にはそれに合わせて高い目標を与え、「できない子」にはそれに見合った低い目標を設定することで、誰もが「意欲」をもてるのが「新しい学力観」だと説明していた。見事なまでの選別・差別主義である。
 この思想の結果、「学ぶ意欲」や「真剣な態度」さえあれば理解の度合いが低くても評価されることになってしまい、総体として学力は低下したのである。
 *本稿では「学力」と無造作に語っているが、そもそも「学力」とは何かというのは長い論争があり、今も定説はない。私も「素人」なのでその辺は突っ込まないが、ここでは取りあえず社会生活に必要な知識や教養と捉えている。

 つまり学力を向上させたかったら、この「新しい学力観」以降の評価制度をやめ、基礎的知識の習得に重点を置き、全員がマスターすべき到達目標を設定するべきなのだが、教育再生会議の方向性はむしろそれまでの文部科学省と同じで、子どもの選別をより重視し、また「徳育」の振興という形で「態度」「意欲」に重きを置いている。これではむしろ「学力低下」に加担しているようなものだ。
 結局、「学力低下」云々というのは、教員や教育学者など教育の専門家にその責任を転嫁して彼らを教育政策決定過程から排除するための口実で、実際は少数のエリートを早期に選抜して彼らには英才教育を施し、残りの「その他大勢」には「徳育」を通して奴隷根性を叩き込み、社会の矛盾を構造的把握する能力が身に付くのを防ぐシステムを作るために持ち出されたのだろう。再生会議は「全員の学力」には関心がなく、「一部のエリートの学力」しか問題にしていないのである。

 ちなみに再生会議の最終報告に先立つ1月24日には、日本経団連が文部科学大臣と懇談会を行っているが、そこでの経団連側の要求は再生会議と方向性が全く同一で、「教育再生会議の提案を教育振興基本計画に反映」するように念を押している。経団連のレポートと再生会議の報告を読み比べれば、「教育改革」の「真の主役」が誰だったか自ずと見えてくるだろう。

【関連リンク】
教育再生会議の最終報告全文-東奥日報
日本経団連タイムス No.2891-02 渡海文科相との懇談会を開催
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by mahounofuefuki | 2008-02-01 12:30