2008年 06月 23日 ( 2 )

「戦争のおかげで日本は民主化された」論と「新しい戦争のカタチ」

 以前、知人から次のような話を聞いた。

 ある中学校の社会科の授業のことである。テーマは第2次世界大戦。教師は戦争の経過を説明し、戦場の非人間的な状況や銃後の苦しい生活について熱く語っていた。ある生徒が挙手して発言する。「戦争があったおかげで、日本国憲法の平和主義も民主主義も実現できたのではないか」「戦争がなければ大日本帝国による専制が続いていたのではないか」と。教師が他の生徒にもこの問題を問うてみると、圧倒的多数の生徒がこれに同調した。この教師は戦前の国家体制と戦争、さらには「戦後民主主義」との関係性についてうまく説明できず、子どもたちを納得させることはできなかったという。

 1990年前後のことだから、まだ「自由主義史観」も、小林よしのりの「戦争論」もない頃の話である。「平和主義」や「民主主義」に価値を置いているだけ相当ましで、今なら歴史修正主義派のプロパガンダで「理論武装」した生徒が、必ずしも歴史学を専攻してはいない知識不十分な教師をやりこめていることだろう。

 戦争のおかげで天皇制国家が倒れた、あるいは民主国家になったという認識は、現在の日本が平和主義・民主主義であり、それは占領軍によってもたらされたという捉え方を前提にしている。実は敗戦と占領が日本にデモクラシーをもたらしたという見方は戦勝国、特にアメリカの一般的な歴史認識で、日本の諸都市に対する無差別爆撃や広島・長崎への原爆投下などの非人道的軍事行動を正当化する論理につながる。よく歴史修正主義派が戦後日本の歴史認識を連合国の戦時プロパガンダに影響されているとかみつくが、前述の「戦争のおかげで~」とか「戦争がなければ~」という見方は、ある意味連合国側が付与した認識と言えなくもない。

 しかし、歴史学の大勢はこうした見方をとらない。私見では戦争と戦後体制の関係に対する認識は次の2つに大別しうる。1つは、「戦後民主主義」の源流は戦前・戦中の日本社会に胚胎していたという見方。もう1つは、そもそも戦後日本は民主主義でも平和主義でもないという見方である。前者は主に、自由民権運動や大正デモクラシーと「戦後民主主義」とのつながりを重視する考え方や、戦時下の総力戦体制の諸政策に「戦後改革」の先駆性を認める考え方などである。後者は占領改革が占領改革であるが故の不徹底を重視し、日米安保体制や長期保守政権の歪みを問題視する。両者は必ずしも矛盾しない。戦前からのデモクラシーの胎動が、「占領」という歪みを経ることで、戦後も不完全燃焼に終わったと解釈しうるからである。

 こんな話を突然したのは、今日が沖縄の「慰霊の日」(沖縄戦の戦没者を追悼する)だからである。はじめに紹介した中学生の疑問に対する答えは実は沖縄にある。戦争のために沖縄は戦後もアメリカの占領下におかれ、今なおアメリカ軍基地が密集している。「戦争のおかげで日本は軍部から解放された」などと沖縄では口が裂けても言えない。沖縄は今も軍事支配下にあるも同然だからである。戦争そのものにおいても沖縄は凄惨な地上戦を強いられ、軍による住民への虐殺や「死の強制」が相次いだ。沖縄の視座に立つとき、戦後日本の「平和」は全くのまやかしにすぎないことが見えてくる。

 「平和を守ろう」とか、逆に「平和が我々を苦しめる」と言う時、いずれも「現在の日本は平和である」という認識を共有している。しかし、沖縄に限らず日本の現況は「平和」と言えるのか。昨年、「希望は戦争しかない」とある社会的弱者は叫んだが(その叫びの前提となる「気分」は「氷河期世代」として共感できるが)、実はすでにわれわれはグローバル社会の「新しい戦争」の渦中にいるのではないか? 核時代となり第2次大戦型の総力戦が過去の遺物となった現在、戦争と平和を隔てるラインは限りなく透明である。いま多くの人々が苛まれている「過労」や「貧困」や「差別」を「新しい戦争のカタチ」としてひと括りにするべきなのではないか。

 日本社会を取り巻く「漠然とした不安」も、平和に倦んでいるというより、すでにこの国が戦争状態にあると理解するべきではないか。多くの日本の住民が直面している矛盾は「新しい戦争」として総括できるという仮説を提起したい。
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by mahounofuefuki | 2008-06-23 17:33

民主党の新自由主義への親和性に目を瞑る者は財界とアメリカの走狗

 左翼系のネット言説で以前から疑問がありすぎて仕方ないのは、自公政権を倒すためには民主党を支持しようという類のオピニオンである。そういう言説はたいてい「民主党に問題があるのは百も承知だが・・・」というような枕詞を付すのだが、そう言いながら「民主党の問題」を批判すると「自民党を利する気か!」と怒鳴り出すので手がつけられない。こういう手合いは民主党が自民党よりましだとか、民主党が社会民主主義的だとか、全く事実に反することを平気で言いだす。

 昨年の参院選で民主党が大勝したのは、自公政権の進めた新自由主義路線に対する反発が噴出したためであるのは言うまでもない。確かに参院選当時の民主党は最低賃金の大幅引き上げや農家に対する所得補償制度など、「小さな政府」を否定する公約を掲げた。これは一応「福祉国家的性格」(渡辺治「新自由主義構造改革と改憲のゆくえ」『世界』2008年7月号、p.92)と分類して構わないだろう(正確には西欧・北欧の福祉国家路線とはズレがあるのだが、ここでは煩雑になるので問題にしない)。

 しかし、その後の「ねじれ国会」で民主党が歩んだ道は参院選の有権者の期待を裏切るものだった。昨年臨時国会における最低賃金法改正労働契約法、通常国会における公務員制度改革宇宙基本法での与野党談合は、「肝心な問題ほど腰が引ける」民主党の性格を如実に示したと言えよう。労働者派遣法改正問題での動揺もしかり。

 さらに消費税引き上げを否定しているのは結構だが、相変わらず代替財源は「無駄遣い」の削減の一点張り。当ブログでは再三指摘したが、「無駄遣い」の削減とは歳出削減のことで、これこそ新自由主義路線の要諦である。歳出の「配分」を変える必要はあるが、「総額」を減らす必要は全くない。法人税の引き上げという対案を提示した共産党と比較すれば、民主党のだめさ加減ははっきりする。

 このように言うと判を押したように「だから民主党に我々の声を届けて、民主党を福祉国家路線に引き寄せよう」と主張するのだが、なぜ「声を届ける」のが民主党に限定されるのか。それならば現在の与党に働きかけた方がよほどてっとり早いではないか。自公なら話を聞かないが民主党なら話を聞くなどという保障はどこにあるのか。実際、共産党以外の全会派が賛成した電子投票法案が土壇場で廃案になったのは、よりにもよって自民党の新自由主義派の急先鋒である世耕弘成参院議員が比例代表の名簿順の問題を出したためで、民主党は何の役にも立たなかった。

 だいたい民主党を「福祉国家路線に引き寄せたい」から、私などは民主党の「小さな政府」的な政策を批判するのである。結局のところ民主党系ブロガーは「政権交代までは黙って我慢しろ」と言っているにすぎない。民主党批判が自民党を利するというのなら、こちらもあえて言おう。民主党のだめな部分に目を瞑って、小沢一郎を盲信することが新自由主義を利すると。私は単に首がすげ替わる政権交代ではなく、「小さな政府」から「大きな政府」への政策転換を何より望んでいる。民主党が「小さな政府」路線を続けるのに加担するものこそ、財界とアメリカの走狗である

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by mahounofuefuki | 2008-06-23 11:51