2008年 01月 27日 ( 2 )

既得権益への反発と大衆の「本音」~大阪府知事選挙の結果

 今日投票が行われた大阪府知事選挙は、選挙中の下馬評通り、タレントの橋下徹氏の圧勝に終わった(これを書いている時点では「当選確実」だが)。

 告示前の時点では、橋下氏は自民・公明両党の全面支援を受けられず、徒手空拳の選挙戦を強いられると私は予想していたのだが、創価学会の動向が誤算であった。蓋を開けてみれば自民・公明両党の支持者の大半を固め、民主党支持層の一部も取り込んだ。
 正直なところ、各種世論調査が橋下氏の優勢を伝えた時点で、よほど投票率が下がらない限り、橋下氏の勝利は間違いないと覚悟を決めていた。選挙戦終盤になって一部ブログが橋下氏へのネガティブキャンペーンを精力的に行ったが、「左」が騒ぎ立てるほど「“左”を忌避するポピュリズム」が作用して橋下氏に有利に働くという自覚に欠けていたと言わざるをえない(私も橋下氏の立候補表明時にやってしまったが「ネタ」として消費されただけだった)。
 ただし、後述するように橋下氏の勝利には確固たる必然性があり、いずれにせよ新聞やテレビの影響力の足元にも及ばないネット言論にできることはほとんどなかったと認めざるをえない。

 橋下氏の勝利を必然化した第1の要因は、今回の選挙戦の構図が結果として「既得権益」対「非既得権益」の形になったことである。
 民主党推薦の熊谷貞俊氏は既得権益をもつ(と一般の人々が敵視している)連合大阪や部落解放同盟の組織的支援を受け、さらに財界の一部も好意的であったために、橋下氏は利権から疎外されている人々にとって「不当に特権をもつ勢力」と闘うヒーローになりえた。これはかの小泉政権の「郵政選挙」と全く同じ構図であり、橋下氏の新自由主義的言説はすんなりと大衆に浸透したのである。
 昨年の参院選で世論は新自由主義的な考え方にノーを突きつけたとみられていたが、依然として既得権益への不満が噴出した場合には、「コイズミ劇場」のような事態が起こりうることを実証したと言えよう。

 第2の要因は、橋下氏の過去の横暴な発言の数々が実は大衆の「本音」だったことである。
 「買春=ODA」発言は、性産業の需要層たる一般大衆男性にとっては「普通の認識」であるし、売買春と無縁の中産階級女性にとっては「よその世界」の話である。「徴兵制」「皆兵制」発言や「体罰」発言は、自分のことを棚に上げて「最近の若者」の「モラル低下」に鬱屈を抱える中高年の「はけ口」となりえた。「核武装」発言は中川昭一氏や安倍晋三氏の前例があり、橋下氏の特異性を示すことにはならない。闇金融の弁護士をやっていた過去も、借金経験のない人々の多くが「借りる方が悪い」という認識なのが現状であり、橋下氏の威信低下にはなりえなかった。
 要するに、畏まった建前論に飽き飽きしている大衆にとって、橋下氏は「同じ目線」で「自分の言葉」を語る「同類」なのである。この点でも小泉純一郎氏に酷似している。

 第3の要因は、選挙運動の商業化である。
 現在の国政選挙において広告代理店が大きな役割を果たしているのは周知の通りだが、今回の大阪府知事選で橋下陣営を取り仕切ったのは自民党でも創価学会でもなく、橋下氏の所属芸能プロダクションだった。彼らは選挙運動の素人であるが故の基本的なミスもあったが、メディアの使い方と人心掌握には長けていた。この問題については今後各方面から詳報が出るだろう。私からは、日本の選挙における情報操作の在り方をさらに「進化」させる契機となったとだけ指摘しておく。

 第4の、そして最も決定的な要因は、失礼ながら対立候補筆頭の熊谷貞俊氏に知事候補としての魅力がほとんどなかったことである。
 弁舌巧みな橋下氏と比べるとお世辞にも雄弁とは言えず、何より「大阪大学教授」という肩書と隠せないインテリ臭が大衆への浸透を妨げた。前述した「“左”を忌避するポピュリズム」は「“知”を忌避するポピュリズム」でもあり、民主党は現在の世論の実情を完全に見誤ったとしか言いようがない。
 自民党は先の参院選で大敗しつつも「ヤンキー先生」とか「女性アナウンサー」とか「行列ができる弁護士」はしっかりと当選した。今回の橋下氏の勝利で、自民党はますます知名度とキャラクター性を重視した候補者選考を行うだろう。野党側はこれにどう対処するのか真剣に考えなければなるまい(対抗して野党もタレントを擁立するような安易な方法は不快だが)。

 ブログ開設当初から橋下氏の「社会人」としての資質を批判し続けた私としては、今回の結果は残念の一言である。同時に粗暴を好むこの国の大衆への不信感は改めて増した。
 なお以前「橋下徹の名を投票用紙に書くすべての人を私は深く軽蔑し、絶対に許しません」とブログに書いたが、その考えは今も変わっていない。彼らが自分の首を絞める愚行だったことに早く気づくことだけを祈っている。


《追記 2008/02/02》

 本文中の「『“左”を忌避するポピュリズム』は『“知”を忌避するポピュリズム』でもあり」の部分は撤回する。その理由は「橋下ショック」と「ポピュリズム」~反省の弁を参照。
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by mahounofuefuki | 2008-01-27 20:59

教育の「平等」をめぐる齟齬~和田中の夜間特別授業

 東京都杉並区立和田中学校が、「民間人」校長の肝いりで、成績上位者のみを対象に大手進学塾の講師による夜間特別授業を始めた問題。
 この特別授業については多くの教育学者や教師らが批判しているように、成績上位者のみを対象とすることで生徒を「できる子」と「できない子」に分断していること、特定の塾の営利活動に与していること、学校教育の多様な目的を「難関高校の受験合格」に矮小化していることなどなど非常に多くの問題がある。
 結論から言えば「教育の商業化・市場化」を推進するものであり、すべての子どもの学習権を保障する義務教育の理念にも反する暴挙である。しかし、この問題の難しいところは単にその暴挙を批判するだけでは、当事者たる中学生やその保護者の「潜在的要求」との齟齬を生み、学校教育からの離反を招くだけであることだ。

 実際、今回の特別授業を批判しているのは専ら教育の専門家だけで、肝心の子どもや保護者は一様に歓迎ないし黙認している。
 「成績上位」の子どもや保護者の多くが何よりも「よい高校・大学」へ入学する(させる)ことを目標としており、彼らの主観に立てば「薄謝」で進学塾の講義を受けられるのは「恩恵」以外の何物でもない。
 一方、特別授業を受けられない「できない子」は受験競争から疎外されているため、そもそも学習意欲がなく、わざわざカネを払ってまで夜間補習を受けようとは思わない。故に「授業を受けられない」というフラストレーションは生まれず、むしろこうした差別を先天的に「できが違う」と考えて容認する。学習意欲の「格差」が家庭の経済力の「格差」と密接に関係しているというのは、東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が実証したところだが、その観点に従えば貧しい家の子どもには学習意欲がないので、「学びたい意欲はあるのにカネがなくて学べない」という子どもはほとんどいないことになる。
 つまり、「できる子」も「できない子」も今回のような選別・差別的な補習に不満をもつことはなく、むしろ批判者(専門家)は「できる子」からは「上」へ上がる機会を奪う者としか映らず、「できない子」からは何を怒っているのかさっぱり理解できない存在にしか映らないのである。

 しかも、東京の場合、すでに公立中学校に通っている時点で「負け組」であるという厳然たる事実がある。私が東京の大学に通っていた頃、家庭教師の面接で中学・高校の学歴の「不足」(地方出身の私は中学・高校とも公立だった)を言われ唖然とさせられたことがあるが(いくら大学が「一流」でも中学受験経験者でないとダメだそうだ)、それほど東京の子どもの進学ルートは複線化しており、その複線を所与の条件とするしかない人々には、むしろ今回のような試みは「教育機会の均等」に寄与するものとさえ考えられるのである。
 これは経済格差問題についても言えるが、「平等」をどう捉えるかということについて、この国には合意がないことに起因する。すべての人々が基礎教育を受けられる状態(すべての人々が最低限の生活を保障されている状態)を「平等」とみる人々と、誰もが「階層の上昇」機会がある状態を「平等」とみる人々とに分裂している。教育の専門家は前者であり、多くの子どもや保護者は後者だろう。

 この対立は生存権や義務教育を考えるにあたって見過ごせない問題であるが、私自身の中で詰め切れていないので、今回は詳述できない。私自身は「結果の平等」を伴わない「機会の均等」は無意味と考えているが、それを説得的に語る言葉をもっていない。今後も教育の「平等」の問題は考えていきたい。
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by mahounofuefuki | 2008-01-27 18:31