2007年 09月 03日 ( 3 )

大衆の「狂気」

光市母子殺害事件の被告の弁護士らが、彼らに対する懲戒請求をテレビで扇動したタレント弁護士の橋下徹氏を、弁護活動妨害のかどで提訴した。

殺人事件があまたある中で、この光市母子殺害事件は、異様な展開をたどった。
まず、事件そのものが口にするのもおぞましいものであったこと。
被害者女性の夫が極めて攻撃的で堂々と復讐を宣言したこと(記者会見で、被告を死刑にできなければ自分が殺す、とまで言っていた)。
マスコミが事件を興味本位で偏向した報道をしたこと。
その結果、多くの大衆が被害者の夫に過剰なほど共鳴し、被告の死刑を求める世論が高まったこと。
さらに、大衆の攻撃は被告にとどまらず、被告の弁護団や死刑反対論者にまで及び、ついには新聞社に弁護団への脅迫状が送られる事態になったこと。
このようにまさに「狂気」の連続である。
橋下氏の被告弁護団への中傷もこの文脈でとらえるべき事柄である。

実は私も事件当初は、なんてひどい事件だと憤りを感じていた1人であった。
しかし、マスメディアや大衆世論の過剰なまでの凶暴性に、犯人とされる被告の「狂気」とは別種の「狂気」を感じるようになり、今は被害者の夫にまったく共感できなくなった。
しかも、こともあろうに最高裁判所が、大衆の攻撃に恐れをなしてか、無期懲役の控訴審判決を差し戻してしまった。裁判が報道や世論に左右されることなど、あってはならないのに。

私は一連の群衆心理に、排外主義と同じものを感じる。
つまり、弱そうな「公認の敵」、いくら攻撃しても反撃されることはなく、権力も認めている「敵」を攻撃することで、絶対的優越感を得るという点で、両者は共通するのである。
もし、これが犯人が「少年」でなく、「暴力団員」だったら、ここまで世論は高まっただろうか? メディアは報道しただろうか? 
否である。この国の大衆が「少年犯罪」となると、大人の犯罪以上に激昂するのは、自己より絶対的下位にあるべき「少年」が、自己の存在を脅かしていると感じるからだ。
これは、あえて断言してもよいが、「少年法はいらない」「少年を死刑」にと叫んでる人ほど、街中で未成年が不法行為をしていても注意のひとつもできず、内心で苦々しく思っているだけの臆病者だ。自分の弱さを誤魔化すために、「少年犯罪」をだしに使っているにすぎない。

ましてや弁護士を攻撃するなど、もってのほかだ。
もし、冤罪で逮捕・起訴された時、実際に助けてくれるのは誰か。橋下氏のような権力迎合的な男ではなく、今や大衆の憎悪を一身に浴びる「人権派」弁護士である。自分は逮捕されることがない、などといくら自信をもっていても、無実の罪で検挙される例はあとをたたない。最近、最高検察庁でさえ冤罪防止機能が不十分であると認めていたではないか。

はっきり言ってしまえば、光市事件の被告が死刑になろうと、そうでなかろうと、被害者ではない私たちの生活に影響はまったくない。厳罰にして見せしめにすれば、犯罪はなくなると本気で信じているとすれば、ずいぶんお目出度い話だ。この事件に直接関係のない人間が拘る理由は何もない。

今回の提訴で、橋下氏が何らかのペナルティを受けることを強く望みたい。
それでも、大半の人々の目が覚めることはないだろうが・・・。
[PR]
by mahounofuefuki | 2007-09-03 21:06

「任命責任」を語るならすぐ総辞職せよ

遠藤武彦農水大臣が辞任した。
彼が組合長の農業共済組合が国からの補助金を不正受給していたからだが、
そのカラクリはあまりにも杜撰極まりなく、
こんな男をよりにもよって農業を管轄する農水大臣に起用した、安倍首相の見識を疑う。

不正受給のカラクリと放置された原因については、以下を参照。
農業共済組合の不正受給は、こうして見逃された(オーマイニュース)

アベは「任命責任は私にすべてある」と言ったそうだが、それならば、すみやかに内閣総辞職するべきだ
口先だけで「責任がある」と言いながら、その座に居座るのは、欺瞞でしかない。
こんなバカボンでもまだ、支持する輩がいるのが、非常に不快だ。
[PR]
by mahounofuefuki | 2007-09-03 18:20

「空気を読む」ということ

爆笑問題・太田光「『空気読む』って何だよ? 周りの人間に振り回されるな!(livedoorニュース)
空気を読む」とは?爆笑問題・太田光さんの発言に関して(livedoorニュース)

私はテレビをほとんど観ないので、爆笑問題の太田光さんが普段どんな言動をしているのか、あまりよく知らない。この記事で取り上げられている「空気を読むな」という発言も、当のテレビ番組を観ていないので、詳細は不明だが、記事の通りだとすれば、まさしく「我が意を得たり」という発言である。

私は子どもの頃から「空気を読めない」人間だった。
小学生の時、担任教師が母親を亡くし、数日間忌引欠勤したことがあった。その日、私を含む数人の児童が掃除当番だったのだが、当番の中の1人が「先生が悲しんでいる時だからこそ、念入りに掃除しよう」と言い出し、私を除く子どもたちがそれに同調した。私には「先生の悲しみ」と「掃除」がどうつながるのかまったく理解できず、普通どおりの掃除をし、決められた時間に下校しようとしたが、他の子どもは帰ろうとする私を「薄情者」と非難し、罵倒した。私はそれを無視して学校を出て、連れ戻そうと追ってくる同級生を振り切り、家に帰った。つまり私は「空気を読めなかった」のである。
(ただし、この話には続きがある。私が下校した後も、遅くまで学校に残っていた同級生たちは、代理担任の教師に見つかり、叱られて帰された。翌日登校すると、その教師は事の顛末をただし、1人規則を守った私を褒め、他の子どもたちは「掃除」を口実に単に学校に居残りたかっただけだと喝破した。)

その後も、「空気が読めず」孤立したり、白眼視されることがままあった。今なら間違いなく「いじめ」の対象として迫害されていたであろう。私が子どもの頃は、今ほどコミュニケーションの巧緻が人間関係の決定的要因ではなかったから、何とか生きながらえて来れたが、「空気を読む」ことが絶対化している現在ならば、死に追い込まれていたかもしれない。

「空気を読む」ということは、「強者に従順」「多数派に迎合」ということである。
どんな不当なことでも、周りがみなやってたり、見逃しているから、という理由で容認したり、我慢する現代日本の病理の本質はここにある。
実際はそこに「空気を作り出す者」がいるのにもかかわらず、その姿は隠され、「なんとなく」流されている。しかも、たちの悪いことに、「空気を作り出す者」は無自覚である場合が少なくない。結果として無責任と無知と無抵抗が蔓延していくのである。

言いたいことを言い、やりたいことをやる、どんな権力にもはっきりものを言う。
そういうことを徹底しないと、それこそ「戦争」や「愛国」が「空気」になりかねない(そうなりつつあるが)。
「空気を読まない」人々がそれこそ多数になれば、「空気を読まない」のが「空気」になるのだが・・・。
[PR]
by mahounofuefuki | 2007-09-03 10:14