アフガニスタンでペシャワール会の伊藤和也氏が武装勢力に拉致・殺害された事件については、この数日何か書かねば、と思いつつも筆が進まず、今日までブログでは全く触れなかった。当ブログはこれまでアフガニスタン情勢については、昨年起きたタリバンによる韓国人人質事件くらいしか書いてこなかったし、アフガンの実情についても報道されていること以上のことは露知らないので、たいしたことは書けないという引け目も影響しているが、それ以上に何を書いても彼の「死」を利用することになるのではないか、という疑念が晴れないからである。
実際、アンテナの狭い私が見た限りでも、「伊藤さんの死を無駄にするな」「伊藤さんの遺志を継ごう」という類の言説が相当溢れているが、今まで何らかの形でアフガン支援に関わっていた人ならともかく、特に具体的な活動をしていない人までがひどくナイーヴな反応を見せていることに、正直「危うさ」を感じている。どんなに正しい目的であっても、人の死に後から過剰な意味を付与し、人の死の上に乗って何事かを為そうとすることに、私は生理的な嫌悪感を覚える。 しばしば国家が軍事行動を正当化するにあたり、当該行動地域での「邦人」の死を利用することがある。例えばかつて日本軍は中国に出兵するにあたり、中国在留の日本人の殺害事件を喧伝して利用したことがあった。そこではまさに「死者のために」行動するという論理が働いている。「伊藤さんの死を無駄にしないために」アフガンの復興支援を続けなければならない、あるいは自衛隊の派兵を阻止しなければならない、あるいはアメリカなどによる軍事攻撃をやめさせなければならない、というような言説は、実は「死者のために」行動するという点で、先の軍事行動の正当化の論理と共通する。 アフガンの復興支援も、自衛隊の派兵阻止も、アメリカなどの戦争中止も、本来誰の死にも関わらず、それぞれ固有の論理によって主張されるべきである。自衛隊の派遣問題を例にとれば、「伊藤さんが自衛隊の派兵を望んでいなかった」から、あるいは「伊藤さんの死に報いるために」反対するのではなく、あくまで憲法が禁じる海外での武力行使に道を開くから反対するのである。この問題に「死者の遺志」を持ち出す危険は、今後「自衛隊の海外派兵を望む死者」が現れる場合を考えれば容易に理解できるだろう。 ペシャワール会の代表の中村哲氏は情勢の悪化を警戒していながら撤退が遅れたことを悔いていると伝えられている。当事者たちのそんな思いを考えれば、「伊藤さんの遺志を継いで」無政府状態のアフガンに出向く人が現れるのは、やはり安易であるし、「死を無駄にしない」ようにするために、「意味のある死」を強調するあまり、まるで殉教者か靖国の祭神のように扱うのは、「意味のある死」を求める者が「死」を志願する傾向さえ生みかねない。忘れてはならないのは、犯罪の結果の「死」そのものは、事故や病気による「死」と同様、それ自体には意味はないということである。意味があるのはあくまでも「生」である。伊藤氏の「生」に十分すぎるほどの意味があったことは、無関係の観衆が言うまでもなく、彼とともに暮らしたアフガンの住民が証明している。 考えてみれば、毎日アフガンでは大勢の人々が不本意な死を遂げている。アフガン人が何人死んでも、それが日本では問題とはならない。1人の日本人が死んで初めてアフガンの現実に向き合うというのはおかしな話である。そういう意味でも、伊藤氏の死をもって今後のアフガン復興支援のあり方やインド洋での給油継続問題を議論することに躊躇せざるをえない。少なくとも私は日本政府の戦争協力をやめさせるにあたり、伊藤氏の死をだしにする気はない。
by mahounofuefuki
| 2008-08-30 22:33
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