本来、新自由主義という思想の中核は「自己決定の結果としての自己責任」「公平性と透明性を前提とする競争」にあるのだが、日本では支配層によって都合よく切り貼りされた結果、専ら「自己決定に帰せられないことこそ自己責任」「不公平で不透明な競争」という始末で、単なる無法社会を形成してしまった。競争というもの自体が人々を疲弊させ、排除と差別を生みだすのに、さらに輪をかけて「はじめから勝者が決まっているレース」を強要されているのである。
その最たるものが学校教育で、仮に「努力」と「実力」を重視するのならば、競争の前提として誰もが同じスタートラインに立てるような制度的保障が必要なのに、実際はむしろ各人の家庭の経済力やハビトゥスに左右され、「失敗するリスク」の大きいものほど不利で、貧困の再生産に寄与している。この貧困は単なる経済的な貧しさにとどまらず、対人コミュニケーションや社会性といった領域にまで広がりを見せていることは、秋葉原や八王子の殺傷事件が象徴的に示している通りである。 NHKの調査によれば、家計の貧窮などを理由に公立高校の授業料を減免された生徒の数が、一昨年は全国で約22万4000人、生徒全体の9.4%に達し、減免の多い学校ほど高校中退が多いことも明らかになったという。以下、NHKニュース(2008/07/23 18:20)より(太字強調は引用者による。一部改行した)。 (前略) NHKは、家計が厳しいことなどを理由に、都道府県が公立高校の授業料を免除したり減額したりしている減免措置について調べました。平成18年度に減免措置を受けた生徒は全国で生徒全体の9.4%、22万4千人で、10年前の2倍に増えて、家計が厳しい家庭が急増していることがわかりました。現在の日本社会では高校は「出てあたりまえ」と考えられており、高校中退者は就職できる職種も限定される。仮に学歴を不問にするよう規制しても、教育を受けていないこと自体が職業能力の低さにつながり、教育を受けた人と同じ土俵に立たされるのはどうしても不利になる。何よりも「家庭の経済力」という本人にはどうしようもない生得的条件のせいで、教育を受ける権利を阻害されているのは明白な人権侵害である。 家計の貧富と中退者の増減との関係性からは、家が貧しい→家庭教育力の貧弱→教室でみじめな思い(排除やいじめ)→学習意欲・登校意欲の低下→学力低下・社会的逸脱→偏差値秩序における没落→「底辺校」の劣悪化→中退→「表」社会からの排除、というサイクルが想定しうる。学校教育からの排除は社会的逸脱に結びつきやすく、それが貧困リスクを高める。表向きは「やる気の欠如」や「素行の不良」で片づけられることも、突き詰めれば貧しさに行き着くことが多い。すべて「自力救済」に任せていては、ますます社会の歪みは広がっていくだろう。 学校教育については累進税の教育税を新設してでも全額無償にするべきだというのが私の持論である。「貧困と差別」を解消するためには教育の不平等は決して座視できる問題ではない。 【関連記事】 教育の「平等」をめぐる齟齬~和田中の夜間特別授業 学歴と結婚と階級社会
by mahounofuefuki
| 2008-07-25 07:02
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