1873年のいわゆる「征韓論政変(明治六年の政変)」の直接的契機となった朝鮮国遣使問題に際して、「征韓」派の西郷隆盛は太政大臣の三条実美に対し、「征韓」論争が「内乱を冀(ねが)う心を外に移して国を興すの遠略」であると説明したという(西郷隆盛書簡、板垣退助宛、1873年8月17日付)。当時、明治維新の相次ぐ変革により既得の特権を失った士族層の不満は爆発寸前にあり、他方暴政に対する民衆の一揆も続発していた。西郷の「意図」については諸説あるが、少なくとも日本国内の社会不安や政府への反発を抑制するために、その矛先を朝鮮国へ向けようとしていたことは確かだろう。
近代国民国家の本質は、自然状態では何者でもない人々に「国民」という属性を与えて囲い込むことにあるが、囲い込んだロープの「内側」の矛盾が拡大した場合、為政者はその矛盾を隠蔽するために、ロープの「内」と「外」の矛盾をフレームアップするのが常套手段である。この原則には専制政治も民主政治も資本主義も社会主義も関係ない。「囲い込まれている安心」や「囲みの外に出る(出される)不安」を「国民」に刷り込むことができれば「統治」としては「成功」である(これに「囲いを広げる野心」まで植え付けることができれば「大成功」となる)。「内乱を冀う心を外に移して国を興すの遠略」は国家が国家である限り有効な戦略なのだ。 文部科学省が新学習指導要領の解説書に「竹島」の領有権を明記した問題の背後にも西郷と同じ「遠略」が浮かび上がる。同省の銭谷真美事務次官は今月14日の記者会見で、今回の改訂で初めて「竹島」問題を記述した理由として、「我が国と郷土を愛する態度を養う」と規定した改定教育基本法の成立を挙げ(朝日新聞2008/07/14/21:09など)、「竹島」問題と「愛国心」との関係を堂々と認めた。竹島=トクト(独島)は現在韓国の実効統治下にある。現実にロープの「外」にある領域を「内」に入れるには、当然「外」との軋轢が生じる。第2次大戦後一貫して日韓間の係争が続いている問題でわざわざ挑発ともとれる行動をとるのは、改めて「内」の矛盾から「国民」の眼を逸らす材料を増やそうとしているのではないか。領土問題は人々に「囲い」の存在を再確認させるには最適である。 「拉致問題」ピーク時や「イラク人質バッシング」当時に比べて、社会一般のナショナリズム傾向は低下している。しかし、それは単に「ネタ」としての消費期限が切れただけで、むしろ国家権力の側が「国民」の「囲みから出される不安」を煽るためには、これまでの「ネタ」とはレベルの異なる「具体的な緊張」が必要になっているとも言える。不平等税制の拡大、労働環境の悪化、高齢者医療制度の失敗、物価の高騰と現在の日本の政治は行き詰まりを見せており、「囲い込まれている安心」はもはや多くの人々に共有されていない。作家の辺見庸氏(余談だが彼は既成の知識人では珍しく「氷河期世代」の苦しみを共有して同伴しようと努力している)が言うようにこの国が「新しい内戦」下にあるのならば、権力にとってはまさに「内乱を冀う心を外に移」す必要がある。「不安」の責任を転嫁する対象の需要が生じる。 今月16日に自民党の伊吹文明幹事長が講演で、次期衆院選について「勝とうと思うと一種の目くらましをやらないとしょうがない」と発言したことが物議を醸したが(北海道新聞2008/07/19 10:26)、彼の言うような自民か民主かといった政局レベルの話とは異なる、もっと大きな意味での「目くらまし」をこの国の支配層が望む客観的状況が成立しつつあるのではないか。支配層の権益を維持しつつ(つまり民衆には分け前を増やさず)、それでいて「囲い込まれている実感」をなくした人々に再び「囲い込まれている安心」を与えるため、ロープの「外」に「不安の原因」を作り出すという古典的だが効果の大きい方法。それが具体的に何なのかはここで自信をもって言えないが、そういう危険が具現化する情勢にあるということは念頭に置いておいた方がいい。
by mahounofuefuki
| 2008-07-21 22:29
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