「差異」の識別と、可能性としての「愛のある批判」

 人間は強い興味や関心をもっているものに対しては、微妙な差異や些細な相違も識別するが、そうでないものに対しては十把ひとかけらで大きな概念として把握してしまい、その中の個体の違いを識別することができない。

 わかりやすく具体例を挙げると、鉄道マニアは同じ路線を走っている電車でも車体の違いを識別できるが、そうでない一般の人々は山手線と中央線の違いを車体のラインのカラーで区別はできても、車体の種類まではわからない。あるいは、ネコが好きな人々はどれがアビシニアンでどれがバーマンかといった種類の違いがわかるが、ネコに関心のない人々は種別がわからず、どれも同じ「ネコ」としか認識できない。またあるいは、アイドルグループ「AKB48」のメンバーをファンはきちんと誰が誰であるか識別できるが、そうでない人々にはその集団が「AKB48」であると認識できても、誰もが同じ顔に見えてしまい個別には識別できない。

 最もひどい例はナショナリストやレイシストで、彼らはおおむね敵視する対象を「○○人」とひとくくりで把握し、その中の個々人を独立した人格として認識しようとはしない。「○○人→卑怯だ」とか「○○人→犯罪者」と勝手に刷り込んでしまい、千差万別の人々を無理やり一つの鋳型にあてはめる。しかもこれが度を過ぎると、「卑怯だ→○○人」とか「犯罪者→○○人」と転倒してしまい、凶悪犯罪が起きるたびに「容疑者は在日系」というデマを流したりするような「イタい」輩になってしまう。

 逆に言えば、ある事象に対して強い関心や興味を持っている人は、何も知らない人には一見瑣末に思えるような差異でも、重大な問題をはらんでいると認識するのである。そしてその差異は実際に重大であることが少なくない。
 政界でも言論界でもネット言説でも、同一の、ないしは類似の志向を持つ者の間で「対立」や「内紛」が繰り返されるのは、それだけ批判対象に強い関心と場合によっては「愛着」を持っているからで(共産党離党者ほど激しい党批判を行うのがその典型例)、これがどうでもよい相手ならスルーするだけである。
 実際、最近私は「そいつは帽子だ!」でどうしても私が譲れない問題について批判を行い、結局溝を埋めることができなかったが、自分のブログのコメント欄をクローズしているほど記事の更新でいっぱいいっぱいの(よそでコメントする余裕がない)私が厳しい批判を行ったのは、彼のブログを更新されるごとに読み、相当な敬意を持っていたからで、これが端から自分とは合わない、ないしは関係ないと考えているブログならば平然と無視できただろう。ネット右翼に至っては私はいまだに個体識別すらできない。

 以上のように考察すれば、「愛」があればこその批判という図式が成り立つわけで、「愛」があるなら批判するな(あるいは「愛」があるから批判しない)という言説は論拠を欠く。「愛」が冷めてしまえばもはや進んで批判する気力もないが、その時は明白な決別(離別?)を意味する。つまり「愛のある批判」が成立する限り、それは決別してはいないとも言える。少なくとも私はそのように捉えている。
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by mahounofuefuki | 2008-05-31 13:26


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