憲法は主権者にとって「守る」ものではなく「使う」ものである

 日本国憲法の「改正」を目標とした安倍内閣がこれ以上ないほど惨めな姿で退場して以来、現憲法に対する反動はある程度鈍り、各新聞社の世論調査でも「改憲」支持は減少傾向にある。
 読売新聞の調査では1992年以来久々に「護憲」が「改憲」を上回った(読売新聞2008/04/08 01:08)。日本経済新聞の調査では依然として「改憲」が「護憲」を上回っているが、昨年の調査より「護憲」支持は8ポイントも上昇している(日本経済新聞2008/05/02 22:12)。反憲法勢力の「自爆」が響いていると考えられるが、他方で「9条の会」のような地道な護憲運動が実を結びつつあるのを否定することはできまい。

 政界の「改憲」の議論は専ら第9条の平和主義・戦力放棄条項に絞られているが、世論の「改憲」論はむしろ「9条以外」を重視する傾向がある。朝日新聞の世論調査では「改憲必要」が56%にも達するが、そのうち9条「護憲」支持は54%である(朝日新聞2008/05/02 21:33)。「改憲」派の半数以上が9条に関しては「護憲」ということになる。一口に「改憲」と言っても「9条改正」を意味しないことに注意しなければならない。
 今後の憲法をめぐる政治力学上の焦点は、この「9条護憲(現状維持)の改憲」派の動向がカギを握っていると言える。安倍政権は「美しい国」という旧態依然のナショナリズムに訴え、正面から9条解体を目指したが失敗した。「反9条」派に学習能力があれば、今後「改憲」を目指すに当たっては9条以外の大衆受けする「改正案」との抱き合わせを行うだろう。「護憲」派が「外側」に支持を拡大するためには、この「9条以外改憲」の「空気」を取り込んでいかなくてはならない。

 「護憲」と「9条護憲(現状維持)の改憲」とを分つものは何だろうか。私見ではそれは「憲法に守られている実感」の有無ではないかと考えている。
 憲法とは本来主権者たる「国民」に対する国家権力の行使を制約する最高法規であり、あらゆる法は憲法の枠内にあるはずなのだが、日本では反憲法勢力が長らく政権中枢を占めているために、憲法に背馳する法も少なくない(鎌田慧氏がかつて『反憲法法令集』なんて本を出したくらいだ)。故に憲法が「国民」の各種の権利を保障していても、実効力が伴っていないことも珍しくない。
 いわば「憲法番外地」があちこちにあるために、現実に憲法の恩恵を受けていない人々は「憲法を守れ」と言われても、憲法を「守る」ことにメリットを見出すことはできないのである。現行憲法の下では自分の権利が守られていない、だから権利が守られるような憲法を欲するというのはむしろ自然なことですらある。

 こうした状況を打開するには、「憲法を守る」から「憲法を使う」への転換が必要である。
 未だに「改憲」派はもちろん、「護憲」派にも誤解している人がいるが、憲法は「国民」の倫理規範でも理想の書でもない。イングランドのマグナ・カルタに始まる立憲主義の本義に従えば、憲法は被治者が「守る」ものではなく、統治者こそが「守る」ものである。被治者にとって憲法は「守る」ものではなく、統治者の権力の行使を制限するために「使う」武器なのである。
 特に現在の雇用待遇差別や貧困の解消を訴える上で、憲法第25条の生存権条項は最大の拠り所となろう。個人が安心して生活するために、理不尽な扱いから逃れるために憲法を「利用する」という観点が必要である。9条についても平和的生存権を軸に、「自国軍の軍事行動に巻き込まれない」ために憲法を道具とする視点を前面に押し出すべきである。

 「憲法を守れ」と叫ぶべき対象はあくまで政権であって、一般の人々ではない。そこを見誤り憲法を神棚に飾っているだけでは、憲法に対する反動を防ぐのは難しいだろう。いくら憲法に細かく権利を書き込んでもそれを実際に使うことなしには画餅でしかない。いかにうまく憲法を「使う」かが問われている。

【関連リンク】
日本国憲法 - 法庫 http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM
[PR]
by mahounofuefuki | 2008-05-03 20:20


<< 厚生労働省の「日雇派遣指針」全文 映画「靖国 YASUKUNI」... >>