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生活保護と生存権

 小泉政権の「構造改革」の本質は「強きを助け、弱きをくじく」ことにあったが、それが最も如実に表れているのは、「聖域なき歳出削減」をうたい文句に社会保障費を毎年2200億円削減するよう決めたことである。2002年度以降、毎年予算編成のたびに厚生労働省はこの「2200億円」(ただし02年度は3000億円削減)をどうにかして捻り出すことを政府から求められ、その都度給付を削減したり負担を増やしたりしてきた。
 この5年余りの間に国民年金や厚生年金や介護保険の保険料が引き上げられ、医療の自己負担比率が増える一方、年金給付額が引き下げられ、雇用保険や健康保険の国庫負担が削減され、生活保護の老齢加算や母子加算が段階的に廃止され、診療報酬や介護報酬が引き下げられた。特に高齢者、障害者、貧困者といった弱い立場の人々を狙い打ちにし、富裕層優遇の経済政策と合わせて「貧困と格差」を拡大させた。

 今年度予算編成でも当初厚生労働省は生活保護基準の引き下げを行う予定だったが、昨年心ある人々の猛抗議により先送りされた(ただし母子加算の段階的廃止は予定通り実施)。あくまで「先送り」なので、このまま「構造改革」路線が続けば、来年度予算編成で再び生活保護基準引き下げを提起してくるだろう。
 そのための布石としてか、このところ生活保護の不正受給に関するニュースがいやに大きく報道されている。特に北海道滝川市で暴力団関係者が生活保護費を約2億円も詐取していた事件は、生活保護行政への反発を呼び起こし、ひいては生活保護受給者への不信につながっている。政府・厚労省としては生活保護受給者への誹謗中傷は歓迎するところで、生活保護基準引き下げへの世論の支持を調達する思惑がある。

 一方、不正受給問題の陰で、マスメディアがさっぱり大きく取り上げないのが、生活保護受給者らによる「生存権裁判」である。生活保護の老齢加算や母子加算の廃止は、生存権の保証を定めた憲法第25条に違反するとして、高齢者やシングルマザーの女性らが国を訴えている訴訟で、現在北海道、青森、秋田、東京、新潟、京都、兵庫、広島、福岡の各都道府県でそれぞれ進行している。
 ただでさえ少なかった生活保護給付額から加算分を減額されたことにより、基本的な衣食住も賄えなくなった人々が続出している。また母子加算の廃止は、まともな収入を得られる就労機会が少ない「子持ち女性」の生活を圧迫すると同時に、母子家庭に育つ子どもの教育機会を奪い、貧困を再生産させる。「食事を1日1回に減らした」「葬式にも出られない」という叫びに耳を傾けねばならない。
 政府が生活保護基準の引き下げを準備する中で、この訴訟の帰趨は今後の社会保障政策全般に影響するだろう。決して見過ごすことはできない。

 日本国憲法第25条は第1項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、第2項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定している。これに従い生活保護法は「最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」と定め、国に「国民」の生存権を保障する義務を負わせている。
 当然、国家の側は憲法や法律に従って、貧困者が生存し、社会参加できるよう支援しなければならない。ましてや現在の貧困の主たる原因は、政府の経済政策の失敗にあり、そのツケを支払う責務がある。「生存権裁判」は改めて憲法第25条の重みと国家の社会保障の意味を問うていると言えよう。

 生活保護問題に対しては相変わらず「自己責任論」が幅を利かせており、「生存権裁判」に対しても誹謗中傷が絶えない。貧窮な高齢者に対しては現役時代の「努力」が足りないからだと責め立てたり、子どもを塾に通わせたいという女性原告の言葉じりをとらえて、「塾通いが“最低限度”の生活か」という類の罵声を浴びせたりする。
 これらの輩は、現代社会では貧窮者の多くが生まれた時から貧窮者で教育機会にも就職機会にも恵まれなかったことや、日本の年金制度や医療保険制度が一定規模以上の企業の正社員を標準としているため、その「標準」から外れる人々には圧倒的に不利であることを無視している。「塾通い」云々についても子どもには貧困のスパイラルから抜け出して欲しいという親心を理解しなければならない。
 もっと深刻なのは生活保護を受給していない貧窮者からの受給者への攻撃だが、これも昨年当ブログで繰り返したように、生活保護受給額が非受給者の所得より多いことが問題なのではなく、非受給者が生活保護基準を下回っているのに生活保護を受給しない、あるいはさせないことこそ問題なのである。少なくとも私は貧困ライン以下で「我慢」させられる状態を「美徳」とは思わない。

 そもそも現代における貧困とは、単に食料がなくて肉体的な生存が危機に瀕しているという状態だけを指すのではない。それぞれの属する社会で当然とされる生活習慣や生活様式を維持することができない状態を貧困というのである。
 親族や友人が亡くなれば葬式に出なければならないし、葬式に出れば香典を上げなければならない。冷蔵庫や洗濯機や電気炊飯器は日本社会ではもはや最低必需品である。「健康で文化的な生活」とはまさに日本社会で「常識」とされる生活習慣や生活様式のことである。その観点からすれば現行の生活保護基準は決して高いとは言えない。

 生活保護と生存権の関係をめぐる問題は、特権的エリートを除いて誰しも貧困に陥る可能性を持っている以上、決して見過ごすことができないはずだ。少しでも関心を持ってほしい。

【関連リンク】
日本国憲法-法庫
生活保護法-法庫
全国生活と健康を守る会連合会 【生存権裁判】
生活保護問題対策全国会議
by mahounofuefuki | 2008-03-01 15:32


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