日米安全保障条約をサンフランシスコ講和条約と抱き合わせで締結した当時、日本の政治家や官僚や資本家たちは、本心ではアメリカ軍が日本領土内に一方的に駐留を続けることを屈辱と感じ、日米安保体制をあくまでも将来の大日本帝国復活のための「臥薪嘗胆」と考えていたはずだ。
なにしろ日本では敗戦を挟んで指導者が交代したわけではなく、「大東亜共栄圏」を唱え、「鬼畜米英」と呼号した連中が戦後すぐに国家中枢に復帰した。自己と国家を同一化し、自己肥大幻想を国家の膨張主義に「昇華」させる彼らが、在日米軍という「異物」を自らの体内に抱えることは矛盾以外のなにものでもない。 そんな彼らがどうやって日米安保体制を自分自身に納得させたかというと、「共産主義」の「脅威」から日本を「守る」ためにはアメリカの力が必要だという論理を受け入れることであった。 ソ連が消滅し、中国が今や新自由主義顔負けの競争社会になってしまった現在では想像しにくいが、1960年ごろまで「共産革命」は現実に「明日にもありうる」事態であり、明治・大正生まれの人々にはロシア革命の記憶はいまだ鮮明だっただけに、そうした論理は受容されやすかった。実際は講和交渉の過程を見れば、無期限・無制限に日本列島のどこにでも軍事基地を設置できる特権を離したくないアメリカに強引に押し切られたというのが真相だが、条文上ではあくまでも日本側が米軍の駐留を「希望」したという体裁で隠された。 西園寺公望や牧野伸顕ら戦前の親英米路線を引き継ぐ吉田茂とその一党のように、日米安保体制を国際安全保障体制の延長ないしは代替のシステムとして理解した人々も多かったが(そして今もそれが主流)、一方で在日米軍を撤退させて完全な「自主防衛」の実現を目標とする人々も少なくなかったはずだ。 たとえば日本がアメリカのために再軍備を進め、集団的自衛権を行使する代わりに、在日米軍に撤退してもらうという構想は、鳩山一郎内閣の外務大臣だった重光葵が1955年にアメリカ側へ提起したことがある。この時、ほかでもない昭和天皇が在日米軍の撤退に反対した。重光の日記に記された「日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」という昭和天皇の言葉を読んだ時、背筋が凍った記憶がある(象徴天皇制のもとでも戦前同様国政への介入を続けていたことにも驚かされた)。昭和天皇は確かに「革命」を恐れていたのだ。彼は日本の「国民」を微塵も信用していなかった。だから在日米軍に「国体」を守ってもらおうとしていたのだ。重光と昭和天皇、どちらの路線が生き残ったかは言うまでもない。 その後、1960年の安保改定(この時はじめてアメリカの日本防衛義務が盛り込まれた。それまでは名実ともにアメリカは「義務なき特権」をもっていた)を経て、日本外交は「とりあえずアメリカに従っておけば間違いはない」という思考停止が常態化した。1950年代には集団的自衛権を行使する代わりに在日米軍を撤退させるという思考がパワーエリートにあったが、21世紀の今日では何の国家的な「見返り」もなく集団的自衛権の行使を推し進め、自衛隊とアメリカ軍の一体化を平然と容認する。 それはこの50年ほどの間に米軍が日本駐留を続けることでの受益層が形成されたことを意味するが(昨年発覚した防衛省汚職でその一端は明らかになった)、「愛国」を自任する右翼ナショナリストの主流はなぜかそんな層を「売国奴」と攻撃しない。右翼ナショナリストは逆に日本社会では今やマイノリティである左翼を攻撃し、かつてのソ連の「爪の垢」ほどの力しかもたない「北朝鮮」に怯え、米軍基地に反対する動きを誹謗中傷する。アメリカに対峙する勇気のないとんだチキンぶりだ。米軍基地の存在を許容している者のどこが「愛国者」なのだ? 今回の沖縄での忌まわしい事件に対する右翼メディアやその追随者たちの反応を見ると、ある意味で日本の近代ナショナリズムは終焉したのだという感慨をもたざるをえない。事件に心から怒っているのは、どう見てもナショナリストとは呼べない人々ばかりだ。元来ナショナリズムは「異人」に「邦人」が傷つけられた時にこそ噴出する。ノルマントン号事件以来それは一貫していた。まかり間違っても「暴行事件は基地反対派のハニートラップ」などという被害妄想的な発想は出て来なかった。 沖縄という不当にも「内国植民地」として扱われた地域の事件だから、というわけではあるまい。「本土」で同様の事件があっても同じ反応だろう。自称「愛国者」たちは昭和天皇と同様、自国の民衆を「同胞」とは考えず、自らの妄想で過大評価している「狡猾な左翼」という仮想敵からアメリカ軍に守ってもらうことを期待しているのだ。そうでなければ、航空自衛隊の航空総隊司令部が横田の米軍基地に移転するという前代未聞の主権放棄行動をも支持するのは説明がつかない。 人類に「異人」と「邦人」という線引きをするのがナショナリズムならば、現在のナショナリストにとってアメリカ軍人こそが「邦人」で、もはや日本の一般庶民は「異人」でしかないのだろう。一見矛盾するグローバリズムとナショナリズムの親和性を解くカギはこの点にあるのかもしれない。
by mahounofuefuki
| 2008-02-17 11:13
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