世界遺産は増えすぎではないか

政府が、国立西洋美術館を世界文化遺産に推薦することを決定した。

世界遺産条約によれば、登録される世界遺産とは、「特別の重要性を有しており、したがって、人類全体のための世界の遺産の一部として保存する必要があるもの」「顕著な普遍的価値」のあるものと規定されている。
現在、日本からは、
「法隆寺地域の仏教建造物群」
「姫路城」
「白神山地」
「屋久島」
「古代京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」
「白川郷と五箇山の歴史的集落群」
「広島平和記念碑(原爆ドーム)」
「厳島神社」
「古代奈良の文化財」
「日光の神社群や寺院群」
「琉球王国のグスク遺跡群と関連する遺産群」
「紀伊山地の聖地と巡礼路網」
「知床」
「石見銀山の銀鉱遺跡とその文化的景観」
が世界遺産として登録されている。

また、現在までに、
「古代鎌倉の寺院群、神社群、その他の構造物群」
「彦根城」
「平泉の文化財と遺跡群」
「富岡製糸工場と関連する産業遺産」
「小笠原諸島」
「長崎の教会群とキリスト教徒の遺跡群」
「飛鳥=藤原:日本の古代首都群の考古遺跡群と関連する遺産群」
「富士山」
が候補として推薦されている。
今回、さらに国立西洋美術館が候補リストに加えられたのである。

遺産の保護が必要であることは言うまでもない。
しかし、正直なところ、世界遺産は増えすぎではないか
すべてが本当に「特別の重要性」や「普遍的価値」を持つのか、はなはだ疑問である。
しかも、日本では昨年から立候補制になった。「世界遺産」という名前だけが独り歩きし、単なる観光客集めのコマーシャルになっているのが現状だ。
戦後の1959年に建てられ、現在も使用されている国立西洋美術館が、果たして世界遺産と呼ぶに適した文化遺産だろうか。遺産というには新しすぎる気がする。

もともと世界遺産の制定は、戦火や財政難で保存が危機に瀕している遺産を、国際的連帯で守ろうという意図から始まった。
しかし、各国の思惑から、自然遺産も文化遺産も、「先進国」に偏りがちであるし、本当に危機に瀕している遺産の保護に対する国際的支援は十分とはいえない。
日本のような、特に世界遺産基金から援助がなくとも遺産を保護する能力がある国は、世界遺産の推薦をもっと抑制するべきではないのか。

世界遺産の保存にかかる資金で、何人もの飢えた人々や、病気の人々を救えるだろう。就職難と低賃金に喘ぐ「難民世代」としては、「遺産より生存」というのが本音である。
逆にいえば、そうした人々を犠牲にする価値がある遺産だけが、本当に世界遺産と呼ぶに値するのである。

このまま世界遺産が増え続ければ、世界遺産そのものの希少性が低下し、その「ありがたみ」も薄くなるだろう。
地方の振興策ではなく、あくまでも学術的・歴史的見地に立って、世界遺産を選定してほしい。
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by mahounofuefuki | 2007-09-15 17:29


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