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「構造改革」路線の由来と麻生内閣の政策転換?についての暫定的な覚書

 私もそうだったが、しばしば「小泉政権以降の」政策路線が「貧困と格差」を拡大したと言ってしまいがちだが、そうなると当然次のような問題が生じる。「小泉以降」ということは、「小泉以前」は良かったのか?と。同時代人のリアルタイムの感覚からすると、小泉政権時代に雇用待遇差別や社会保障の脆弱さが顕在化したのは確かだが、今日冷静に振り返るならば、企業のリストラによる雇用待遇全般の低下や非正規雇用の拡大はすでに1990年代に出そろっていたし、「就職氷河期」のピークだった1990年代末はまだ小泉政権ではなかった。小泉純一郎個人のエキセントリックなパフォーマンスに惑わされて、あたかも小泉政権が「突然変異」だったように錯覚しがちだが、実は「構造改革」というのは、少なくとも1980年代半ばからの長期的な政策潮流の帰結であったことを再認識しなければならない。

 いわゆる「小さな政府」路線の源流は、1980年代の中曾根内閣の臨調路線に遡るし、大企業・富裕層への減税路線も80年代から本格化する。90年代には橋本内閣が行革と消費税増税というその後の政府を貫く政策基調を確立した。小泉政権はその延長線上に登場した。当然その潮流は一直線ではなく、その時々の経済状況や権力抗争に規定されて紆余曲折があったが、「小さな政府」路線の支持基盤は一貫して、公共事業を通した地方への利益配分を軸とする「土建型福祉国家」とも言うべき旧来の自民党の基本路線に対して不満を抱く、都市中間層が中心であった。忘れてはならないのは1980年代から1990年代にかけて、コミュニズム系ではないリベラル系の左翼はむしろ行政不信を前提として規制緩和や行政の縮小を支持したことで、「小さな政府」論は古典的なレッセ=フェールへの回帰という点で本質的に保守的であったにもかかわらず、大衆には「革新」として受け取られたという点である。そして現在も「税金の無駄遣いを減らして」という言説への支持を通して、「小さな政府」は延命を続けている。

 つまり本当の意味での政策転換とは、単に小泉政権以前に戻ることではなく、少なくとも80年代以降の大企業・富裕層優遇、政府の再分配機能弱体化、社会保障での応能原則の否定、雇用待遇の引き下げ等々を全面転換することにほかならない。麻生内閣は来年度予算編成で「骨太の方針」を修正し、公共事業や社会保障の抑制路線を転換することを決定したと報じられているが、実際には「骨太の方針」を廃棄したのでも、大胆な予算配分の見直しを行うのでもない。シーリングを維持しながら外枠で財政出動を増やすというのは、いわば「景気回復」(何をもって景気が回復したと見るかは恣意的)までの暫定措置ということである。マスメディアは政策転換とか「改革の後退」と書きたてるが、これは橋本政権の緊縮路線の後、小渕政権が一時的に利益配分を増加させたのと同程度の「転換」でしかなく、本格的な政策転換からは遠い、いつでも「構造改革」路線に復帰できる代物にすぎない。

 中途半端な「転換」にすぎないことに加えて問題となるのは、景気対策のための公共事業増発という方向性自体は正しいものの、単に先祖がえりのように大型開発のような利益誘導を主体とする限り、またしても利益に与れない都市中間層や貧困層の一部などが財政出動そのものへの不満を募らせ、「小さな政府」路線を欲求する可能性が高くなるということである。普遍的な社会保障の確立と公共事業の質の転換(需要の低い大型事業から生活需要に即した事業への転換)を伴わなければ、公的支出が生活に結びついているという実感を得られず、際限のない歳出削減を望み続けるだろう。そして自民党内には今回程度の「転換」をも批判する新自由主義派が健在であり、民主党が歳入の公平性を軽視して行政縮小による財源捻出に固執している現在、麻生内閣に対抗する政策路線は歳出削減路線となる可能性が高い。自民党でさえなければ何でもいいという政権交代信者にとってはそれでいいのだろうが、替わった政権が民主党+新自由主義派による歳出削減路線(しかも間違いなく軍事費のような「本当の無駄」は「聖域」となる)ではまたしても「貧困と格差」は拡大を続ける。いつか来た道である。

 「共産党を中心とする政権」でもない限り(しかし現行の選挙制度と社会構造ではまずありえない)、どのような組み合わせの政権でも、当分は旧来の利益誘導路線と歳出削減路線の幅の中にとどまるだろう。小泉政権の否定にとどまらず、もっと長いスパンで過去の政治を総括し、従来とは全く異なる普遍的な福祉国家が構想されなければならないが、不況の現状はそんな猶予すらない。私の絶望が日々深くなる所以である。
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by mahounofuefuki | 2008-12-04 17:42

いいかげん「キャラの立つ指導者」に期待してはならない

 麻生太郎首相の失態が続いている。「給付金」の迷走、国会答弁等での相次ぐ漢字読み間違い、これまでの政府の医師数抑制政策を無視して医師不足を医師側に転嫁した上に中傷した放言、PTAの親たちを前に当の親を侮蔑した発言、道路特定財源の地方交付税化をめぐる二転三転。元々首相就任前から無責任な「思いつき」と失言・妄言・暴言の類が多いことで知られていたのだから、今さら驚くことではない。すでに就任直後に、集団的自衛権行使を容認する発言をしたり、国会の所信表明演説で「臣」を自称するアナクロニズムを発露していたくらいで、失態が今になって際立つようになったのは、単にこれまで麻生批判を抑えていたマスメディアの「風向き」が変わったからにすぎない。

 今週発売の『週刊新潮』『週刊文春』がともに麻生首相を嘲笑する見出しをトップに持ってきたのは象徴的である。保守系週刊誌でさえ麻生氏を見限ったということである。やはり右傾色の濃いJ-CASTも今日麻生氏を「満身創痍」と突き放す記事を配信した(*)。元来自民党内の支持基盤の弱い麻生首相にとって、頼みの綱は大衆の「人気」と保守的ナショナリズムであったが、前者は「自爆」としか言いようがない失態の連続で名実ともに色あせ、後者は政権維持のためには戦争責任に関する「村山談話」を継承し、「トンデモ空幕長」田母神俊雄氏を更迭し、国籍法改正の既定路線を許容するほかなく、それが結果として的外れな「期待」を麻生氏に寄せていた右翼層の鬱屈を高めている。麻生内閣は早くも「末期症状」の気配すら漂っている。
 *J-CASTニュース:「読み間違え」「軌道修正」「失言」 麻生首相の「満身創痍状態」
  http://www.j-cast.com/2008/11/21030808.html

 明らかに首相として不適格だった麻生氏がその座に就けたのは、自民党にとって「選挙の顔」になるというただ1点のためであった。つまり麻生氏の自己演出が大衆の求めるリーダー像にマッチしていたと(少なくとも自民党内では)考えられたのである。実際福田内閣の時分においては、世論調査では麻生氏は小泉純一郎氏と並んで人気は高かった。その理由も「実行力」「指導力」が期待できそうというもので、「果断で改革に邁進し、大衆が嫌悪感を抱くものと闘う指導者」像が仮託されていたのである。そして、輿望を担って首班の座についたが、麻生氏は大衆の期待には全く応えることができなかった。

 ここで問題になるのは、そもそもこの国のマジョリティが望む「果断で改革に邁進し、大衆が嫌悪感を抱くものと闘う指導者」というものが、実は当の大衆にとって利益をもたらさないという事実である。

 人々は小泉純一郎氏に腐敗した既得権益の解体に果断に取り組むことを求めた。しかし、その結末は「庶民の既得権益」の破壊であり、もともと十分ではない社会保障を崩壊させ、大企業と富裕層への利益供与を増しただけだった。次に人々は安倍晋三氏に果敢な指導力を期待した。なるほど安倍内閣は憲法改定のための国民投票法や改定教育基本法を暴力的に強行した。それはある意味大衆が望んだ「抵抗勢力と闘う実行力」の発露ではあったが、それは大衆の生活に何ら寄与するものではなかった。しかも、当の安倍氏は「坊ちゃん」の馬脚を現し、自己を「強い指導者」として偽ることに心身が持たず、壊れてしまった。もうキャラクターに惑わされるのに懲りたと思いきや、今度もまた麻生太郎氏に「何かを壊してくれる実行力」を求めた。その間、一向に大衆の生活は良くならず、むしろ苦しくなる一方である。

 いいかげん学習しなければならない。話す内容や過去の政策・政治行動を無視して、単に表層的に「面白い」「かっこいい」というイメージで指導者を選ぶととんだしっぺ返しを食らうことを。口のうまさや見た目の威勢の良さは一般の人々には何ら利益をもたらさないことを。「強い指導者」がスケープゴートとして用意した「イヤなやつ」をいくら攻撃しても、自分が救われることはないことを。「麻生」という偶像は倒れたが、懲りずにまたしても似たような「目立つキャラ」に期待しても、必ず裏切られる。キャラではなく、話の中身と具体的行動から「自分の生活上の利害を代弁しうる者」を模索することが何よりも有権者に必要なことである。

 以前言及したように、麻生内閣は失政が続いても延命する力学が働いている。しかし、それも次の衆院選までで、今後政権が迷走を続ければ、自民党は形振り構わずまたしても首をすげ替えることもありえよう。奇しくも今日、その伏線が報道されている。

 東国原知事:国政転身の条件は「初当選、初入閣」・・・講演で(毎日新聞2008/11/21 19:40)*web魚拓
 http://s04.megalodon.jp/2008-1121-2246-14/mainichi.jp/select/today/news/20081122k0000m010051000c.html

 「なるからには閣僚か、トップ(首相)です」と野心を包み隠さないタレント知事。総選挙が延びるほど彼の衆院選出馬、首班候補擁立の可能性は高くなるだろう。非議員で党首となり、衆院当選1回で首相になった細川護煕という先例もある(そう言えば細川氏も知事だった)。この国の大衆はまた同じ失敗を繰り返すのか。いいかげん懲りて、じっくり政策を見極める目を持てるか。長らくふざけた状態が続く日本の憲政の正常化の試金石は、キャラクターを売りにする政治家を拒絶できるかどうかにかかっている
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by mahounofuefuki | 2008-11-21 23:11

失政が続くほど政権が延命するという問題

 麻生内閣が経済対策として打ち出した定額給付金をめぐる右往左往が話題である。すでに多くの人々が指摘しているように、一時的な給付では景気刺激策としても救貧策としても効果に乏しく、消費税増税への地ならしを兼ねた選挙向けパフォーマンスであることはもはや疑いない。今日の報道では、給付にあたって立法措置を採らず、所得制限を含め市町村に委ねるということだが、そもそも給付の具体的方法(銀行振込?窓口申請?)や交付形式(市町村ごとに補正予算を組むのか?)がいまだはっきりしておらず、本当にやれるのかさえ不透明である。

 今回の給付金に対しては、当初よりかつて小渕内閣が実施した「地域振興券」になぞらえる見方があったが、市町村「丸投げ」となると、むしろ竹下内閣の「ふるさと創生」の1億円バラマキを思い出す。これはもはや経済政策ではない。いずれにせよ、このような混乱ぶりでは実際の給付時期は延びるかもしれない。選挙対策である以上、給付時期が延びれば、それだけ総選挙も先送りされることになる。

 どうも最近の麻生首相を見ていると、総選挙をどうにかして先送りすることを何よりも優先し、すべてそれに合わせて行動しているような気がしてならない。今国会冒頭の解散に失敗して以降、常に政治的スケジュールを埋め、あえて選挙に不利な消費税増税をことあるごとに強調し、あたかも選挙で自民党に不利な状況を作ることで、与党内の早期解散要求を封じているかのようである。もともと「選挙の顔」を期待されて首班に擁立された以上、麻生氏が政権の延命を図るためにはその選挙を先送りするほかない。

 わざと混乱させているということはないだろうが、経済対策の実施方法をめぐるゴタゴタが長引けば長引くほど、政権に対する世論の信用が低下するリスクを負う一方で、選挙先送りの「口実」ができて、結果として政権そのものは延命する。麻生氏にとっては総選挙後も首相のイスに座れるという成算がない限り(自公で衆院「3分の2」を維持するか、議席数で「自公」>「民公」となり自民党主導で民主党を連立に加える状況になるか、のどちらか)、解散には踏み切れない。そしてその成算はいまだない。となれば少しでも長く首相でいたかったら、ひたすら選挙を先送りするしかないのである。失政が政権を生きながらえさせるというのは皮肉である。

 失政のツケを払わされることを考えれば、主権者にとってはハタ迷惑でしかないが、残念ながらこれが現実である。与党が衆院で3分の2以上ではなく単なる過半数だったら、昨年の参院選直後の時点でとっくに解散になっていたことを考えると、いかにあの「郵政選挙」が呪うべきものだったか、今こそ痛感させられる。
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by mahounofuefuki | 2008-11-12 21:45

自民党のCMは麻生首相への皮肉ですか?

 今日、夕食時にテレビのプロ野球中継を観ていたら、自民党のCMが流れていた。麻生首相が働く姿にかぶせて「今この瞬間も麻生は動いている」というナレーションが流れるのだが・・・




 今この瞬間はホテルで飲み食いしているんじゃない?

 と思ってしまった。このCM、流す時間によっては皮肉でしかない。
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by mahounofuefuki | 2008-11-05 21:29

大衆の「願望」が政治家の「虚像」を形成するという問題

 麻生太郎首相が先日の国会答弁で戦争責任に関する「村山談話」の継承を明言したことで、「ネット右翼」層に「麻生に裏切られた」という声が上がっているそうである。

 J-CAST:首相の「村山談話継承」発言 ネット麻生ファンに失望感噴出
 http://www.j-cast.com/2008/10/03028027.html

 そもそも麻生氏はこれまで靖国神社の非宗教化やA級戦犯分祀を支持したり、外務大臣時代には「北方領土面積折半」論を唱えるなど、とうてい「ネトウヨ」が望むような政治家ではなく、国際関係の現状維持を前提とする「旧来の保守」である以上、安倍政権でさえ維持した「村山談話」を否定することなどできるはずもない。この種の人々がいかに表層のイメージに流されやすいかを如実に示していよう。

 麻生氏については、以前「失言」が許されてしまう人というエントリで、田中眞紀子氏や小泉純一郎氏や橋下徹氏のような真のポピュリストではなく、半ば自己演出によるキャラづくりの結果、「人気者」という虚像が形成されていると指摘したことがある。

 たとえば彼の愛称「ローゼン閣下」は、漫画『ローゼンメイデン』を空港で読んでいたところを目撃されたという「都市伝説」めいた逸話がきっかけになっているが、当時本人が「たまたま」読んだと明言しているにもかかわらず、勝手に「オタクの味方」に仕立てられたものである。ちなみに私は彼が『ローゼン~』を「少女漫画にしては重厚だ」と評していたのを聞いて、あれって少女漫画か?と疑問を持つと同時に、「少女漫画」=「軽薄」という前提に反発を覚えていた。「こいつは少女漫画をまともに読んだことがないな」とも思った。つまり麻生氏は真の漫画読みではない。

 *この機会に言っておくが、「ローゼン閣下」とか「ローゼン麻生」と見聞きするたびに、麻生の顔をしたゴスロリ風衣装を纏った人形が「麻生家の下僕になれ」と言っている絵が浮かび、いつも不快な思いをしている。

 いずれにせよ麻生氏が自己演出し、大衆が勝手に思い込んでいた虚像は、首相となってからどんどん崩れつつあると言えよう。自民党内での支持基盤の小さい彼には政権運営のフリーハンドはなく、一方首相という責任ある立場では「失言」にも慎重にならざるをえず、それがかえって右傾大衆の支持を失うという結果になっている。

 また、国会答弁も今のところほとんどが官僚の作文の棒読みで、威勢の良さはすっかり鳴りを潜めている。集団的自衛権の行使を容認するという重大な憲法違反発言こそあったが、基本的には福田内閣の新自由主義「漸進」路線を継承している。麻生内閣は従来の自公政権の枠内で、忠実に政財官癒着体制を継続しているのである。

 麻生氏をめぐるネット上の茶番は、政治家を判断するにあたって、人格的イメージや口先だけの表層の虚像に惑わされることなく、実際にどんな政策を行い、どんな政治行動をとっているのか、事実に基づいて検証する必要があることを示している。これは何も与党だけに当てはまるのではない。野党に対しても勝手な思い込みによる虚像を仕立てるのは慎むべきである(特に小沢信者に注意を促したい)。
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by mahounofuefuki | 2008-10-05 21:59

「中山騒動」と「劇場」型政治

 政治が「劇場」化する必要条件は何か、ということを今年の大阪府知事選以来考えているのだが、今のところ①衆目を集めるエキセントリックなキャラクター、②大衆の敵意を喚起する「既得権益」、③筋書きのない展開へのライヴ感覚の3点に集約しうるのではないかと仮定している。「郵政選挙」や「橋下劇場」はこれらすべてを備えていた。一方、先の自民党総裁選は「出来レース」になったために③が決定的に欠如していたことが「劇場」化失敗の最大の要因であろう。

 昨日国土交通大臣を辞任に追い込まれた中山成彬氏をめぐる「騒動」は、自民党内では「失策」と受け取られ、「いい迷惑」という「空気」が大勢を占め、報道が伝える一般の世論の声も「ネット右翼」のヒステリックな中山擁護の論調とは裏腹に、中山発言への不快感と批判がほとんどである。中山氏は少なくとも27日の宮崎での日教組に対する中傷は、世論の喚起を狙った「確信犯」だったと自認し、いわばこの問題の「劇場」化を図っていたことを認めたが(橋下徹知事を引き合いに出したにもそのための戦術だろう)、現時点では「劇場」化そのものは「失敗」に終わったと言えるだろう。

 「中山劇場」が不発だったのは、先の3条件のうち①と③が不足していたからだと推定しうる。①に関しては、中山氏の発言自体はエキセントリックであったが、中山氏本人はラ・サール→東大→大蔵省という絵に描いたような「古いタイプのエリート」で、キャラクターとしてはむしろ「元高級官僚」という「大衆の敵」になりうる素質をもっているほどである。③に関しては、問題表面化直後から「地位にしがみつくつもりはない」という趣旨の発言をして、既定の「更迭」路線を自ら追認しており、「辞任による決着」は目に見えていた。

 逆に言えば、これが大衆受けするキャラクターの持ち主であったり、あくまで辞任しないとゴネて、「罷免されるか否か」という「ドラマ」が成立していたなら、「劇場」化していた可能性は十分にあっただろう。また当初から日教組だけを標的にしていたならば、異なる展開になっていたことも考えられる。民族問題と成田問題は政府や自民党の公式の立場と矛盾するが故に、支持者からも疑問がもたれたわけでだが、日教組への敵視は自民党・保守層の共有認識である。大衆世論にあっても公務員バッシングや学校不信の煽りもあって日教組への敵意は根強い。ちょっとした歯車のかみ合わせの違いで、日教組バッシング→解散・総選挙の一大争点化という展開になっていたかもしれない。

 現実問題として、「劇場」としては不発であったとは言え「中山騒動」がさまざまな問題を隠蔽する役割を果たしたことも否定できない。麻生太郎首相による国連総会でのインド洋給油継続公約や集団的自衛権行使を容認する発言は、「中山騒動」のせいで吹き飛んでしまった。「汚染米」転売問題や厚生年金記録改ざん問題も相対的に弱まってしまった。「敵失」がないと何もできない民主党は「中山問題」で内閣を追及すると息巻いているが、あまりこの問題に囚われて重要な社会問題が置き去りにあれるのはおもしろくない。

 麻生内閣は発足当初から「末期症状」にあるのは確かだが、「末期」ならではの道化的なパフォーマンスに気をとられて、肝心な問題が見過ごされることのないよう注意しなければなるまい。「劇場」化の罠はどこにでも転がっていることも念頭に置かねばなるまい。以上、自戒をこめて。

【関連記事】
「日本のがん」中山成彬が勝手に「ぶっ壊れる」
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by mahounofuefuki | 2008-09-29 12:42

「日本のがん」中山成彬が勝手に「ぶっ壊れる」

 就任以来、無知と思い込みによる恥知らずな暴言を繰り返していた中山成彬国土交通大臣が辞任するようだ。第一報が産経新聞とフジテレビというのが「いかにも」で、要するに中山氏と産経系メディアとの日常からの親交(癒着?)を如実に示していると言えよう。こんな輩を任命した麻生首相の責任は極めて重大である。

 この問題については、発言内容が虚偽のオンパレードであること、いかに彼の「本音」とはいえ、新内閣発足直後にわざわざ挑発的言辞を弄する政治センスの欠如に、あきれてものも言えなかった。詳細な分析はできれば後日改めて行いたいが、当面指摘しておきたいのは、彼が最後まで撤回しなかった日教組への中傷は、そのまま文教族の有力議員で元文部科学大臣である中山氏に跳ね返ってくる、ということである。

 中山氏は「学力の低下」の原因を何の根拠もなく日教組に転嫁しているが、実際には「学力の低下」が言われるようになったきっかけは、1989年の文部省学習指導要領で指導要録(学校の学籍と指導の記録原簿)に観点別評価が導入され、「知識」や「理解」よりも、「関心」や「態度」や「意欲」を重く評価するようになったのが始まりで、これを「新しい学力観」と称して推進したのは文部省の方であって、教職員組合は反対していたのである。つまり「学力の低下」なるものに「主犯」がいるとすれば、それは文部省とそれを支持した自民党文教族であり(保守派の彼らは「新学力観」を通して「できる子」と「できない子」を選別することを狙っていた)、中山氏もその1人であった。

 中山氏は日教組を「教育のがん」と言い放ったが、私に言わせれば、中山氏のような右翼政治家こそ「日本のがん」である。これまでも数々の歴史改竄発言で知性の欠如を曝け出し、今また意識的かどうかは別として日教組を「安心して攻撃できる悪」として大衆に供し、ポピュリズムを扇動した罪は万死に値する。今回の件で私が警戒したのは、中山氏が居座り「ウヨホイホイ」の役割を演じて、総選挙を前に「『左』を忌避するポピュリズム」を強化することであったが、辞任に追い込まれたことで、辛うじて日本社会にわずかに残る良識の力が発揮されたと言えよう。

 「日教組をぶっ壊す」と言っていた「日本のがん」が勝手に一人で「ぶっ壊れた」。こんな輩を議員に選出している宮崎1区の有権者は徹底して反省するべきである。
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by mahounofuefuki | 2008-09-27 22:50

「寂聴の作品」という先入観があれば「ケータイ小説」も「小説」に見えるように、小沢演説も(以下略)

 弊ブログのこれまでの「カラー」に従えば、今日は麻生新内閣について書くべきなのだろうし、読者もそれを期待しているかもしれないが、あまりにもひどすぎて、今回は正直なところ書くことがない。新内閣は「タカ派・小物・世襲」の三拍子で、一部のウヨク層以外にはどう見ても受けそうもなく、本当にこの陣容で総選挙をやるつもりなのか?と疑わざるをえない。私は以前から簡単には衆院の3分の2を手放さない、解散は先送りされると言ってきたが、本当にその可能性が出てきたような気がする。

 そんなわけで全然関係ないが気になったニュースを。毎日新聞(2008/09/24 17:32)より(太字強調は引用者による)。
 文化勲章受章作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが、86歳にしてケータイ小説に初挑戦、ケータイ小説サイトで名前を隠して書き上げたと24日、発表した。「ぱーぷる」のペンネームで、女子高生ユーリのいちずな恋を描いた「あしたの虹」。10代、20代の女性たちが等身大の物語を書き、女子中高生が読者の中心というケータイ小説に、大物作家が切り込んで、大きな注目を浴びそうだ。
 「あしたの虹」は携帯電話で読むケータイ小説サイト「野いちご」で5月に掲載スタート。今月10日に完結した。横書き、短い簡潔な文章、若者言葉など、今までの瀬戸内文学とはまるで異質の作品になっている。(後略)

 「名前を隠して」というところがすごい。普通ある程度売れると、作家のネームバリュー自体が作品の評価に影響するが、名前を伏せてしまえば、その辺に転がっている新人やアマチュアと同じ土俵で読者の評価眼に供することになる。名前を伏せても勝負できるという自信がなければできないし、それも「ケータイ小説」という真っ当な文学者からは白眼視されているような畑違いの(つまり従来の文芸とは評価のものさしが異なる)フィールドに挑戦する気概には頭が下がる。

 もちろん匿名だったということは、失敗したら逃げることも可能だったということでもあるが(ただし初めから原稿料が出ていたならそうもいかないのでやはり勇気がある)、結局、本になったということはある程度納得のいくものが書けたということだろう。

 さて問題は匿名でケータイに連載されていた時、どの程度反響があったのか?ということである。当該ケータイサイトを見ると、PV数が多いわけでもなく、特に注目されていたというわけでもなさそうだ。作者が瀬戸内氏だと気づいた人も皆無だったと思われる。10日ほど前の日付の読者レヴューも読んだが、ごく平凡でありがちな感想だった。

 実際、ぱっと読んだ限りでは、正直なところ格別優れているという感じは受けない。「いかにも」な内容で、公表前だったら瀬戸内作品と言われても信じなかっただろう。そして、ここからが重要なのだが、それにもかかわらず「瀬戸内が」という先入観があるので、これといって何でもないような「ケータイ小説」でも、「やはりプロットが素人ではないな」とか「文法が間違っていないな」とか「本当の若い人の言葉ではないな」と思わされてしまうのである(正確にはそこに「プロらしさ」や「年寄りらしさ」を探そうとしてしまう)。

 最近、これと同じような現象を目撃している。民主党大会での小沢一郎代表の演説に対する民主党系ブロガーの反応である。私は前のエントリでも述べたように、あの演説全文を精読した時、「自分ら『氷河期世代』の『負け組』は視野に入っていないのだな」という疎外感を味わったが、多くの支持者は私の率直な感想とは裏腹に小沢演説を絶賛している。社会民主主義的だという評価さえある。しかし、これら支持者の反応は、「民主党が自公政権の政策を否定してくれる」「小沢は我らの味方だ」という先入観があって、政治家によくありがちな単なる抽象的内容であるにもかかわらず、すべて善意に解釈し、まるで「良かった探し」のように、都合のいいように解釈しているとしか思えないのである。

 これは断言できるが、同じような内容の演説を自民党や公明党の人がしても、彼らは絶対に評価しないだろう。自民党や公明党にあんな演説ができるわけない? いやいや政治家というものは、その気になれば嘘八百並べてでも有権者の心をつかもうと形振り構わずリップサービスをする。実際、麻生首相は今日の記者会見で「雇用の安定の確立」なんて口にしているが、本気でやる気があるとは誰も信じまい。小沢演説も先入観を極力取り除いて聞けば、実はこれまでと同様たいして具体性はない。

 表面的な言葉だけで物事を判断することはやはり慎まなければならないのだろう。たとえば私も、今年の『労働経済白書』を過大評価しすぎたと最近反省している。昨年の白書との違いを過剰に高く評価しすぎた。「何を言ったか」ではなく「何をやったか」をしっかりと把握しなければならない。

 結局、話がそれて政治オチになってしまった・・・(苦笑)。

【関連リンク】
あしたの虹 - ケータイ小説野いちご
http://no-ichigo.jp/read/book/book_id/89873?noichigo=r56gd3a171pbu5ft8t74pmb3sc976gcm
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by mahounofuefuki | 2008-09-24 22:53