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「造反有理」

 東京で27歳の男が派遣会社「インテリジェンス」に「殺害予告」のメールを送ったとされる件。賢明な読者なら当ブログの過去ログから私の言いたいことは容易に推測できるだろうから、多くは語るまい。

 「『日雇い』禁止に反対しているようだがてめぇじゃ絶対働かないシステムだろ?一度そこまで行った人がどうやって立ち直って飯食っていくんだ?」(毎日新聞2008/08/19 13:24)までだったら喝采ものだったのに。あと派遣会社だけでなく、派遣先の企業にも言及していたら良かったのだが。

 いずれにせよ、本当に特定の標的を狙う気があったら「予告」などしないのもまた事実。

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「日雇派遣」禁止議論に対するモリタクの警告
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by mahounofuefuki | 2008-08-19 17:59

「日雇派遣」禁止議論に対するモリタクの警告

 厚生労働省の日雇派遣禁止方針に関しては、同省「今後の労働者派遣制度の在り方に関する研究会」の報告書が不十分な内容であることを当ブログでも批判したが、昨日、森永卓郎氏がさらに厳しい見方を示していた。
 「日雇い派遣禁止」の裏に隠された巧妙なからくり / SAFETY JAPAN [森永卓郎氏] / 日経BP社
 http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/145/index.html

 森永氏は特に2つの問題を重視している。第一は、日雇派遣禁止に伴い、日雇労働者が大量に失業する可能性があること、第二は、報告書が派遣対象業務の規制を無視していることである。氏は今回の厚労省の動きについて「結局は大手業者の利権を守りつつ、世間の批判をかわすために出てきた措置ではないか」とまで指摘している。

 結論から言えば、森永氏の心配は決して杞憂ではない。
 第一の問題に関しては、単に日雇派遣禁止だけでは短期的には失業者が増えることは、すでにグッドウィル廃業で経験済みであって、当然何らかの手当てを行わなければならない。現在、厚労省では「しごと情報ネット」を拡充して、日雇などの短期雇用の求人を派遣会社に代わって紹介する事業を検討していると伝えられるが、実効的に機能するようなシステムが必要だろう。理論的には「日雇派遣」を禁止しても、「日雇」に対する企業の需要がある限り、求人はなくならないが、禁止前に派遣の時給引き上げが必要であるという氏の指摘は正論である。

 第二の問題に関しては、当ブログでも「最低でも同一労働の均等待遇を義務づけ、不安定な登録型派遣を廃し、派遣対象業種を制限するところまでやらなければ、雇用待遇差別の解消のスタートラインにすら立てない」と指摘したが、特に派遣の製造業への解禁が貧困を拡大したことは『労働経済白書』も認めているほどで、派遣対象業種の規制は絶対必要不可欠である。
 森永氏は「証拠はないものの、製造業務への派遣労働禁止をしないのは、派遣労働を大量に利用している大手製造業と、大きな利益を得ている大手派遣会社に、政府が配慮しているからではないか」と指摘しているが、この点は製造業における「2009年問題」を考えれば、正しい見立てだろう。私は以前から直接雇用申込義務の廃止と日雇派遣禁止の「抱き合わせ」を警戒しているが、政府・財界は日雇派遣中心の新参派遣業者を切り捨ててでも、大手メーカーの利益を擁護しようとするだろう。今後の展開によっては「大手業者の利権を守りつつ、世間の批判をかわすために出てきた措置」になってしまう可能性がある。

 派遣労働問題に関しては、派遣それ自体の解消で完結するのではなく、正規雇用や他の非正規雇用(請負など)も含めた、この国の労働環境全般を視野に入れて、人間らしい働き方を確立する方向性につなげる必要性を、最近特に感じている。非正規雇用の正規化をもって雇用待遇差別是正の突破口にしたいという考えは変わっていないが、政府や財界が巧妙な罠を次々と仕掛ける中で、より戦略的な対応を求められているのも事実だろう。

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by mahounofuefuki | 2008-08-12 12:34

『めぞん一刻』は「格差恋愛」ではない

 今朝、新聞のテレビ番組欄に目を通していたら、次の一文が視野に入った。
「めぞん一刻~お金はないが愛はある!貧乏な就職浪人生と美しい管理人さんとの笑って泣ける“格差恋愛”!!」
 『めぞん一刻』は高橋留美子氏の1980年代の漫画で、「一刻館」という老朽アパートを舞台に、住人のさえない学生(当初は大学浪人)五代裕作と、美貌の管理人(20歳そこそこで「未亡人」になってしまったという設定)音無響子とのぎこちない恋愛を軸にしたラブコメディである。これまで何度かアニメ化や実写化がなされてきたが、今回はどうやら作品後半の実写ドラマ化らしい。作中の裕作は就職戦線で脱落し、大学卒業後「フリーター」を続けるので、そのあたりを指して番組欄の担当者はこのような惹句を書いたのだろうが、私には納得できない。なぜなら少なくとも原作は「お金はないが愛はある」という内容でもなければ、響子と裕作の恋愛は「格差恋愛」でもないからだ。

 作中、裕作と響子の恋は四角関係、五角関係が絡まり、それぞれの優柔不断のせいもあって、なかなか進展しないが、作品終盤最大の「障害」は裕作が「フリーター」で、定職に就いていないことにあった。一応はアパートの管理人という職にある響子が無職の裕作を食わせるという展開にはならない。裕作は保育士資格(当時の公式名称は男でも「保母」だった)を取り、(結果として)過去のコネで保育所に就職を決めてから響子にプロポーズする。響子はストーリーの序盤から経済面にシビアなところを見せている。作品を客観的に分析すれば「お金はないが愛はある」と言えるほど夢想的ではない。

 「格差恋愛」という「評価」は、そんな「負け組」だった裕作と「美貌」のヒロインである響子との立場の「格差」を前提にしているが、実は響子はその「美貌」以外には特に何のとりえもなく、「貧困リスク」さえ抱えている。実際、響子は母親に「あんたみたいに未亡人で若くもなくて、学歴も技術もないわがままな子をもらってくれる男なんて、これから先鐘や太鼓で捜したって、金輪際未来永劫現れない」とまで言われていたように、前夫とは高校卒業後すぐに結婚したために学歴も社会経験もなく、しかもサラリーマンの1人娘なので将来の「親の介護」というリスクを抱えている。漫画の終盤では20代後半にさしかかり、唯一の「利点」であった「顔面偏差値」も怪しくなっている。「一刻館」はいつまで存続できるかどうかわからないほど老朽化しており、大家である前夫の父親(かなり老齢)の死後の生活は極めて不透明である。「格差」と言えるほど裕作に対して優位に立っているわけではないのだ。

 ところで、現在の視点で『めぞん一刻』を読み返すと、雇用問題や「貧困」をめぐる環境の変化が読み取れる。作中で裕作が大学を卒業したのは1985年(この漫画の時間軸設定は雑誌連載時とほぼ一致する)だが、この年の雇用者の非正規率は16.4%で、昨年の33.7%のおおよそ半分である(『労働経済白書』2008年版)。現在新卒で正規雇用に就けないということは珍しくも何ともないにもかかわらず、非正規労働者に対する「差別のまなざし」は依然として厳しいが、当時は量的に今よりもはるかに少数派だったから今以上にみじめで肩身の狭い思いを強いられていたはずである。実際、作中の裕作はアルバイト時代にみじめな姿を響子に見られたくないと悩んでいる。その点で『めぞん一刻』は今日の雇用における「尊厳」社会の貧窮者への「差別のまなざし」の問題を先取りしている。

 一方で裕作は「人とのつながり」には恵まれている。彼の実家は新潟の定食屋だが、店は姉婿が継ぐことになっているため、地元に帰ることができない。しかし、彼の祖母は時々上京するなど常に裕作を気にかけていて、響子との結婚が決まった時も自らの預金を結婚費用として裕作に貸したりしている。裕作は大学時代に教育実習先を「一刻館」の大家に紹介してもらったり、就職先やアルバイト先を大学時代の先輩や友人に紹介してもらったり、変人ぞろいの住人には何だかんだ言って愚痴や悩みを聞いてもらっている。何より女性にもてている。つまり、彼は浪人時代も含めて孤独であったことがない。作中の裕作はホームレスになるかどうかというような瀬戸際までは行っていないが、仮にそうなっても何とかなるのではないかという感じがする。湯浅誠氏の貧困論に従えば「溜め」があるのである。この点は現在の貧窮者との決定的な差である。

 そして最大の問題は、作中の裕作は貧しく不安定な非正規労働者から経済的に自立しうる社会人になり得たが、現在は一度貧困に陥るとそこから抜け出すことが困難であるということだ。裕作は保育士になったが、現在この職業は専門職にもかかわらず、保育所の民営化や外部委託など規制緩和政策のせいで派遣のような間接雇用やアルバイトのような有期雇用が増加し、低賃金(特に派遣はピンハネがすさまじい)で不安定かつ過酷な仕事になっている。介護業界もそうだが、本来公営事業として公費を投入して経営すべき福祉・教育分野に市場原理を導入した結果、これらの分野の労働者は不当に低く扱われるようになった。保育士で食べていけた『めぞん一刻』の時代と現在の相違は、この20年間の労働者の地位低下を象徴している。

 現代は一見、五代裕作のような男性は大勢いて、音無響子のような女性はほとんどいないように見えるかもしれないが(今回の番組欄を書いた人はそう考えて「格差恋愛」と指摘したのだろう)、本当のところは、自分を食わせてくれる都合のよい男をただ待っているだけの音無響子の方こそ大勢いて、貧困から抜け出してまともな仕事にありつき結婚もできた五代裕作の方こそ天然記念物並みの少数なのではないか。『めぞん一刻』は今日ではいろいろと読み替えが必要なようである。
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by mahounofuefuki | 2008-07-26 18:18

貧困のために学費を減免されている公立高校生は22万4000人

 本来、新自由主義という思想の中核は「自己決定の結果としての自己責任」「公平性と透明性を前提とする競争」にあるのだが、日本では支配層によって都合よく切り貼りされた結果、専ら「自己決定に帰せられないことこそ自己責任」「不公平で不透明な競争」という始末で、単なる無法社会を形成してしまった。競争というもの自体が人々を疲弊させ、排除と差別を生みだすのに、さらに輪をかけて「はじめから勝者が決まっているレース」を強要されているのである。

 その最たるものが学校教育で、仮に「努力」と「実力」を重視するのならば、競争の前提として誰もが同じスタートラインに立てるような制度的保障が必要なのに、実際はむしろ各人の家庭の経済力やハビトゥスに左右され、「失敗するリスク」の大きいものほど不利で、貧困の再生産に寄与している。この貧困は単なる経済的な貧しさにとどまらず、対人コミュニケーションや社会性といった領域にまで広がりを見せていることは、秋葉原や八王子の殺傷事件が象徴的に示している通りである。

 NHKの調査によれば、家計の貧窮などを理由に公立高校の授業料を減免された生徒の数が、一昨年は全国で約22万4000人、生徒全体の9.4%に達し、減免の多い学校ほど高校中退が多いことも明らかになったという。以下、NHKニュース(2008/07/23 18:20)より(太字強調は引用者による。一部改行した)。
(前略) NHKは、家計が厳しいことなどを理由に、都道府県が公立高校の授業料を免除したり減額したりしている減免措置について調べました。平成18年度に減免措置を受けた生徒は全国で生徒全体の9.4%、22万4千人で、10年前の2倍に増えて、家計が厳しい家庭が急増していることがわかりました。
 さらに、減免措置を受けた生徒の割合が全国平均とほぼ同じ埼玉県で、減免措置と高校中退の関係を調べたところ、減免措置を受けた生徒が10%未満の高校は中退した生徒の割合が3%でしたが、10%以上20%未満の高校は18%、20%以上の高校は31%に上りました。中には入学した生徒の半数近くが卒業していない高校もあって、家計が厳しい生徒が多い高校ほど高校中退が深刻な問題になっていることがわかりました。(後略)
 現在の日本社会では高校は「出てあたりまえ」と考えられており、高校中退者は就職できる職種も限定される。仮に学歴を不問にするよう規制しても、教育を受けていないこと自体が職業能力の低さにつながり、教育を受けた人と同じ土俵に立たされるのはどうしても不利になる。何よりも「家庭の経済力」という本人にはどうしようもない生得的条件のせいで、教育を受ける権利を阻害されているのは明白な人権侵害である。

 家計の貧富と中退者の増減との関係性からは、家が貧しい→家庭教育力の貧弱→教室でみじめな思い(排除やいじめ)→学習意欲・登校意欲の低下→学力低下・社会的逸脱→偏差値秩序における没落→「底辺校」の劣悪化→中退→「表」社会からの排除、というサイクルが想定しうる。学校教育からの排除は社会的逸脱に結びつきやすく、それが貧困リスクを高める。表向きは「やる気の欠如」や「素行の不良」で片づけられることも、突き詰めれば貧しさに行き着くことが多い。すべて「自力救済」に任せていては、ますます社会の歪みは広がっていくだろう。

 学校教育については累進税の教育税を新設してでも全額無償にするべきだというのが私の持論である。「貧困と差別」を解消するためには教育の不平等は決して座視できる問題ではない。

【関連記事】
教育の「平等」をめぐる齟齬~和田中の夜間特別授業
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by mahounofuefuki | 2008-07-25 07:02

2月8日の志位質問の会議録がようやく出た

 2月8日の衆議院予算委員会において、共産党の志位和夫委員長が派遣労働の実態を告発し、労働者派遣法の全面見直しを求めた質疑は、多くのマスメディアの黙殺にもかかわらず、ネットの動画投稿サイトなどで話題となり、政府が派遣労働の規制緩和路線を見直す契機の1つとなったが、なぜかこの日の会議録は長らく作成されていなかった。それだけ政府・与党にとって痛いところを突いた歴史的質疑だったのだが、今日衆院のホームページを確認したらようやく会議録が公開されていた。現在の非正規雇用差別の問題が集約されており、改めて読み直して決して損はない。

 衆議院のホームページで「会議録」→「予算委員会」→「第169回(常会)」→「第5号」と進むと、2月8日の予算委の会議録が読める。ぜひ参照を。

 衆議院ホームページ
 http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index.htm

 共産党に限らず国会議員がいつもこういう仕事をしてくれれば政治不信も少しは解消するのだが・・・。

【関連リンク】
YouTube - 2/8 派遣法改正し"労働者保護法"に 志位委員長が質問/衆院予算委員会(全編)
http://jp.youtube.com/watch?v=6I_NTfz3RNs&feature=user
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by mahounofuefuki | 2008-07-12 20:42

物価高騰と貧困問題

 1990年代以降、日本では長らく物価の下落傾向が続き、一時はデフレスパイラルとさえ言われていたのだが、このところは物価の高騰が急速に進んでいる。昨日発表された日銀の生活意識アンケートでも、物価の上昇を回答した割合が92%を超え、過去最高を記録した(東京新聞2008/07/05朝刊ほか)。最近『エコノミスト』誌が「インフレ炎上」という強迫的なタイトルの特集を組んでいたが、これは必ずしも誇張ではなく、現実にインフレの進行で生活が「炎上」する不安を多くの人々が感じているだろう。

 2000年代前半の好況は、大企業の労働分配率の低下が端的に示しているように、人件費を削減した分が企業収益に回っただけの「見せかけの好況」だったが、その「好況」の踏み台になった非正規労働者や「周辺的正社員」が辛うじて生活できたのは、生活必需品が安かったからにほかならない。私はよく「100円ショップ」に行くのだが、その度に中国や東南アジア諸国の低賃金労働者の「犠牲」に心を痛めつつ、「こういう廉価品があるおかげで生きていられるのだな」という感慨を抱いていた。

 もちろん客観的に考えれば、モノが安すぎるが故にまわり巡って所得も低くなるのであって、異常なデフレ状況が完全に終焉して物価が上昇に転じるのは本来悪いことではない。しかし、今回の物価高騰は、新興工業国の台頭とサブプライムローン問題に端を発した原油や穀物相場の急騰という外部要因が基軸であり、どの産業にとってもコストは上昇するが収益が上がる要素はない。むしろ物価は上がる一方で、企業がさらなる人件費削減を進めることで、家計はますます苦しくなることが予想される。

 特に人間生活の基本である「食」において矛盾は顕著である。全国漁業協同組合連合会など漁業者団体は今月15日に、燃料高騰への対策を求めるために全国一斉休漁を行うことを予告している。北海道新聞(2008/07/05 07:42)によれば、北海道の農協連合組織である「ホクレン」は化学肥料の販売価格を昨年比75%も値上げするという。類似の事態は他の地方でも起きているだろう。農産物や水産物の価格高騰が当面続くのは間違いない。

 貧困や不平等税制の解消を訴えてきた側にとっては、物価高騰が貧困拡大や税制改悪に利用されるのを何よりも恐れている。政府や財界は好況時にはさんざん「痛みを伴う構造改革」やら「国際競争力の強化」といった題目を唱えては貧困と不平等を拡大してきたが、今後は物価高騰によるコストアップを理由に労働者への「痛み」を正当化するだろう。特に非正規雇用の拡大がさらに進むことを警戒しなければならない。庶民の側も「不況だから仕方ない」という奴隷根性が広がる可能性がある。さらには「仕方ない」という思考が一種の政治的マゾヒズムとなり、進んで「痛み」を受け入れる素地すらあると言わざるをえない。

 今後、日本の貧困の解決を図る上で、現在進行中の物価高騰は暗い影を落としている。物価高騰そのものが貧窮者の生活を破壊することは言うまでもないが、それだけでなく貧困解消のための施策を要求・実施する上で、物価高騰がある種の「抵抗要因」となることも念頭に置かねばなるまい。物価問題は政治状況の変容の重要な因子ともなるだろう。
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by mahounofuefuki | 2008-07-05 16:23

「無保険の子どもが大阪府だけで約2000人」という衝撃

 大阪社会保障推進協議会がこのほど大阪府内で国民健康保険証を取り上げられた世帯の子どもの数を調査した。以下、毎日新聞2008/06/28大阪夕刊より(太字強調は引用者による)。
 国民健康保険(国保)の保険料を滞納したため、保険給付を差し止められ、医療費の全額自己負担が必要になった世帯の子ども(中学生以下)が、大阪府内17市町で3月末現在、628人に上ることが民間団体の調べで分かった。大阪市、堺市など6市は「データがない」としている。給付が差し止められている世帯数は府全体で約3万世帯あり、この団体は、大阪市などを含む府全体では子ども約2000人が「無保険」に陥っていると推計する。
(中略)
 民間団体の大阪社会保障推進協議会(大阪社保協)が府内43市町村に質問状を送り、回答を集計した。17市町が「いる」とし、20市町村が「いない」と回答した。大阪、堺、寝屋川、守口、茨木、柏原の6市は「データがない」などとして回答しなかったが、大阪市も、差し止め対象に子どものいる世帯があることは認めており、大阪社保協は府全体で約2000人と推計した。(後略)
 現行の国民健康保険では保険料を1年以上滞納すると、市町村は保険証を回収し、代わりに「被保険者資格証明書」を交付することができる。この資格証明書で受診すると医療費の窓口支払は全額自己負担になってしまう。昨年、厚生労働省が公表した調査によれば、2006年6月現在でこの資格証明書の発行を受けた世帯は、全国で35万1270世帯にものぼる。彼らはいわば「国民皆保険制度」の枠組みから排除された存在であるが、当然その中には子どももいるわけで、今回の調査はその実数を(地域限定ではあるが)初めて推計したものである。

 全額自己負担では風邪の受診でも莫大なカネが必要になる。当然、医療の受診を控えようとする。全国保険医団体連合会の調査では、2006年の資格証明書被交付者の受診率は一般の被保険者に比べて51分の1だという。ただでさえ低所得で保険料を払えないのが、さらに保険証を取り上げられ、高額な医療費を請求されるというのは、理不尽以外のなにものでもないが、特に子どもの医療を受ける権利が侵害されているのは非常に問題である。大阪府だけで約2000人ということは、全国では数万人にのぼるのは間違いない。

 国保については支払能力がない場合、分割納付や支払猶予の制度があるが、国保財政の悪化によりなかなか認められない。毎日新聞の前記記事によれば、昨年度の東大阪市の場合、40代夫婦と子ども2人の年間所得200万円の世帯で年間の保険料は約45万円だという。これはもはや「超重税」というレベルである。国保はもともと会社員や公務員などの給与所得者ではない、いわば収入の不安定な人々の保険であるが、それにもかかわらず1980年代以降、国庫負担率の削減が続いている。この国の社会保障制度がいかに強者に手厚く、弱者に冷たいかを最もよく示していると言えよう

 仮に親の怠慢で無保険になったとしても、子どもは親を選択できない以上、子どもには罪はない。自己が決定していないことに自己責任は決して及ぶべきではない。一方、憲法や児童福祉法に従うならば、行政は子どもが健やかに育つための施策を行う責任を有する。まず厚労省は全国で無保険の子どもがどれだけいるか正確な調査を行い、すべての子どもが医療を受けられるようにしなければならない。

【関連リンク】
大阪社会保障推進協議会
http://www2.ocn.ne.jp/~syahokyo/index.html
08年2月19日 国保資格証者の受診率低下-全国保険医団体連合会
http://hodanren.doc-net.or.jp/news/tyousa/080219kokuho/080219kokuho.html
国保証取り上げ35万世帯/「滞納」480万世帯に/貧困・格差拡大で最多更新/厚労省調査-しんぶん赤旗
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-02-23/2007022301_01_0.html


《追記 2008/08/19》

 しんぶん赤旗(2008/08/18)によれば、大阪府内で無保険状態にある子ども(乳幼児と小中学生)の数は1728人と判明したという。
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by mahounofuefuki | 2008-06-29 12:47

社会保障切り捨て路線の是非と生存権裁判

 生活保護給付の老齢加算母子加算の廃止・減額は憲法第25条の生存権保障規定に反するとして、受給者らが自治体を訴えていた「生存権裁判」のうち、東京地裁の老齢加算廃止違憲訴訟の判決が下った。結果は残念ながら原告の請求棄却であった。

 この訴訟は単に生活保護受給者の問題ではなく、「構造改革」路線のもとで強力に進められている社会保障切り捨て政策そのものを問う意味を含んでいたが、今回の判決は厚生労働大臣の裁量権を広く認め、事実上切り捨てを追認したと言えよう。おそらく控訴するだろうし、まだほかの各地の訴訟もあるが、当面は政府の社会保障費抑制路線を後押しする効果を与えよう。以前、当ブログでは「この訴訟の帰趨は今後の社会保障政策全般に影響するだろう」と述べただけに本当に残念だ。

 今年の経済財政諮問会議の「骨太の方針」も、相変わらず社会保障費の自然増分の2200億円削減を継続し、歳出削減を「最大限」続けるという内容になる見通しだし、「上げ潮」派の巻き返しで政府・与党内の歳出抑制批判の声も抑えられ、またしてもしばらくは生活に直結した公的給付が削られたり、負担が増えたりする状況が続くだろう。

 庶民への負担増となる消費税増税は先送りされたものの、「無駄遣い」削減とたばこ税増税では再分配効果はなく「庶民いじめ」に変わりない。以前も指摘したが、現在の政界における「無駄」とは、軍事費や需要の低い大型開発のような「本当の無駄」ではなく、専ら人件費と社会保障費を指す。人件費といっても高級官僚の給与が減るわけではない。だいたいが福祉や医療や教育などの民生分野で下の職員が有期雇用や民間委託に置き換えられるのがオチだ。行政能力を落とし、不安定雇用を増加させるだけである。いいかげん騙されるのはやめて欲しいが、相変わらず「居酒屋タクシー」のような目くらましで、またしても世論は歳出削減路線に流れてしまう。

 社会保障の切り捨てと非正規雇用の増大が「官製貧困」の原因である以上、これらをやめることが急務であるにもかかわらず、裁判所までが自民・公明政権の悪政を追認してしまった。改めて日本の司法権の存在意義を問い直す必要があるだろう。


《追記》

 原告団・原告弁護団が東京地裁判決について声明を発している。
 東京生存権裁判の判決について*PDF
 http://www.news-pj.net/siryou/pdf/2008/tokyoseizonkensaibangenkokudan-20080626.pdf

 「本日言い渡された本判決は、第1に、生活保護基準以下の生活を強いられている国民(とりわけ高齢者)が存在する事実に対して、この貧困を解決するのではなく、この貧困状態に合わせて生活保護基準を切り下げ、格差と貧困を拡大する政府の不当な政策を是認したものであり、第2に、老齢加算が果たしてきた重要な役割を何ら理解することなく、老齢加算が廃止されることで高齢保護受給者の生存権を侵害している実態から目を背け、行政の違憲・違法な措置を追認した不当なものである」という批判は正鵠を得ている。

【関連記事】
生活保護と生存権
「無駄遣いがある限り増税はだめ」では消費税増税論に対抗できない

【関連リンク】
全国生活と健康を守る会連合会【生存権裁判】
http://www.zenseiren.net/seizonken/seizonken.html
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by mahounofuefuki | 2008-06-26 17:35

グッドウィル廃業と雇用待遇差別の根深さ

 派遣大手グッドウィルが厚生労働省より事業許可取り消し処分を受けるのが確実になり、ついに廃業に追い込まれた。事業停止処分を受けて以来、急速にシェアを失い、つぶれるのは時間の問題ではあったが、最後の最後まで経営側の身勝手に振り回され、労働者には苦しみしか与えられなかったと言えよう。

 グッドウィルユニオンが次のような声明を出している(太字強調は引用者による)。
(前略) 違法派遣や賃金不払など違法行為を繰り返してきたグッドウィルに対して派遣事業許可取り消し等の厳しい処分が出されるのは当然のことである。
 しかし、1995年以降、違法派遣を繰り返しながら拡大してきたグッドウィルを放置したばかりか、1999年の派遣法改正によりグッドウィルが行う事業を合法化して急成長に拍車をかけた国の責任は極めて大きい。
 もっと早くこのような違法派遣を取り締まっていれば、グッドウィルで働く労働者が数千人、数万人規模まで膨れ上がることはなかったし、許可取り消しによって大量の失業者を生み出すようなこともなかった。
 また、グッドウィルで働く日雇い派遣労働者が日雇い雇用保険に加入していれば、失業しても当面は「あぶれ手当」の受給により当面の生活を凌ぐことができたはずだが、厚生労働省は、グッドウィルが日雇い雇用保険に全く加入させていない状態を承知しながら、それさえも放置した
 許可取り消しまたは廃業により、雇用を失い、生活の道を立たれる労働者の救済が何よりも優先されなければならない。 (後略)
 廃業の直接的影響は言うまでもなく派遣労働者の失業である。しかし、日雇派遣については昨年雇用保険が適用されるように制度改正されたにもかかわらず、会社側が加入していなかったため、何の給付も受けられない。事業停止の時も遡及加入を求める動きがあったが、厚生労働省は何の実効的な対策をとらなかった。セーフティネットが貧弱どころか、皆無なのである。

 ところで、グッドウィルは廃業に際して、正社員もすべて解雇するようだが、その正社員の労組「人材サービスゼネラルユニオン(JSGU)」と上部組織のゼンセン同盟が昨日経営側を非難する会見を開いている(毎日新聞2008/06/25 22:22など)。一方的な退職通知に怒りを顕わにしていたそうだが、正直あまり同情はない。

 なぜならこの御用労組はこれまでさんざん会社側の手先として働き、労働者派遣法改正の骨抜きを民主党に働きかけたのも彼らだからだ(ゼンセン同盟は周知の通り旧民社党→民主党の支持母体である)。我々の世代の一般的な通念である「正社員が非正社員を搾取している」という見方を私はとらないが(あくまでも搾取者は資本家である)、経営側に同調して非正規雇用に対する待遇差別に加担している御用労組を免責することはできない。

 今回の件で改めて正規・非正規雇用間の差別の根深さを再確認した。もはや労働者派遣法を抜本的改正して直接・無期雇用原則を確立する以外に一連の問題の解決はない。厚労省はすでに日雇派遣禁止方針を決めているが、それだけでは全く不十分である(むしろ失業が増大する可能性すらある)。国会は1999年の派遣法全面改悪時、共産党以外の政党が賛成した罪を今償うべきである。秋葉原事件に続いて派遣労働の劣悪さが世上の注目を浴びている今こそ正念場かもしれない。

【関連記事】
労働者派遣法改正問題リンク集

【関連リンク】
グッドウィル許可取り消し・廃業方針に関する声明|グッドウィルユニオン
http://ameblo.jp/goodwillunion/entry-10109914801.html
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by mahounofuefuki | 2008-06-26 00:18

「戦争のおかげで日本は民主化された」論と「新しい戦争のカタチ」

 以前、知人から次のような話を聞いた。

 ある中学校の社会科の授業のことである。テーマは第2次世界大戦。教師は戦争の経過を説明し、戦場の非人間的な状況や銃後の苦しい生活について熱く語っていた。ある生徒が挙手して発言する。「戦争があったおかげで、日本国憲法の平和主義も民主主義も実現できたのではないか」「戦争がなければ大日本帝国による専制が続いていたのではないか」と。教師が他の生徒にもこの問題を問うてみると、圧倒的多数の生徒がこれに同調した。この教師は戦前の国家体制と戦争、さらには「戦後民主主義」との関係性についてうまく説明できず、子どもたちを納得させることはできなかったという。

 1990年前後のことだから、まだ「自由主義史観」も、小林よしのりの「戦争論」もない頃の話である。「平和主義」や「民主主義」に価値を置いているだけ相当ましで、今なら歴史修正主義派のプロパガンダで「理論武装」した生徒が、必ずしも歴史学を専攻してはいない知識不十分な教師をやりこめていることだろう。

 戦争のおかげで天皇制国家が倒れた、あるいは民主国家になったという認識は、現在の日本が平和主義・民主主義であり、それは占領軍によってもたらされたという捉え方を前提にしている。実は敗戦と占領が日本にデモクラシーをもたらしたという見方は戦勝国、特にアメリカの一般的な歴史認識で、日本の諸都市に対する無差別爆撃や広島・長崎への原爆投下などの非人道的軍事行動を正当化する論理につながる。よく歴史修正主義派が戦後日本の歴史認識を連合国の戦時プロパガンダに影響されているとかみつくが、前述の「戦争のおかげで~」とか「戦争がなければ~」という見方は、ある意味連合国側が付与した認識と言えなくもない。

 しかし、歴史学の大勢はこうした見方をとらない。私見では戦争と戦後体制の関係に対する認識は次の2つに大別しうる。1つは、「戦後民主主義」の源流は戦前・戦中の日本社会に胚胎していたという見方。もう1つは、そもそも戦後日本は民主主義でも平和主義でもないという見方である。前者は主に、自由民権運動や大正デモクラシーと「戦後民主主義」とのつながりを重視する考え方や、戦時下の総力戦体制の諸政策に「戦後改革」の先駆性を認める考え方などである。後者は占領改革が占領改革であるが故の不徹底を重視し、日米安保体制や長期保守政権の歪みを問題視する。両者は必ずしも矛盾しない。戦前からのデモクラシーの胎動が、「占領」という歪みを経ることで、戦後も不完全燃焼に終わったと解釈しうるからである。

 こんな話を突然したのは、今日が沖縄の「慰霊の日」(沖縄戦の戦没者を追悼する)だからである。はじめに紹介した中学生の疑問に対する答えは実は沖縄にある。戦争のために沖縄は戦後もアメリカの占領下におかれ、今なおアメリカ軍基地が密集している。「戦争のおかげで日本は軍部から解放された」などと沖縄では口が裂けても言えない。沖縄は今も軍事支配下にあるも同然だからである。戦争そのものにおいても沖縄は凄惨な地上戦を強いられ、軍による住民への虐殺や「死の強制」が相次いだ。沖縄の視座に立つとき、戦後日本の「平和」は全くのまやかしにすぎないことが見えてくる。

 「平和を守ろう」とか、逆に「平和が我々を苦しめる」と言う時、いずれも「現在の日本は平和である」という認識を共有している。しかし、沖縄に限らず日本の現況は「平和」と言えるのか。昨年、「希望は戦争しかない」とある社会的弱者は叫んだが(その叫びの前提となる「気分」は「氷河期世代」として共感できるが)、実はすでにわれわれはグローバル社会の「新しい戦争」の渦中にいるのではないか? 核時代となり第2次大戦型の総力戦が過去の遺物となった現在、戦争と平和を隔てるラインは限りなく透明である。いま多くの人々が苛まれている「過労」や「貧困」や「差別」を「新しい戦争のカタチ」としてひと括りにするべきなのではないか。

 日本社会を取り巻く「漠然とした不安」も、平和に倦んでいるというより、すでにこの国が戦争状態にあると理解するべきではないか。多くの日本の住民が直面している矛盾は「新しい戦争」として総括できるという仮説を提起したい。
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by mahounofuefuki | 2008-06-23 17:33