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「羞恥や不安を与えるまなざし」をめぐって

 買い物中の女性の臀部をカメラ付き携帯電話で撮影した男が、迷惑防止条例違反に問われていた裁判で、最高裁は被告の上告を棄却し、有罪判決が確定するという。共同通信(2008/11/13 12:38)より。
(前略) 被告側は「条例で禁じられる『みだらな言動』の内容が不明確」と主張したが、藤田宙靖裁判長は「社会通念上、性的道義観念に反する下品でみだらな言動と解釈できる。ズボンの上からの撮影でも被害者が気付けば恥ずかしがり、不安を覚える行為で、条例違反は明白だ」と指摘した。(後略)

 なお5人の裁判中、1人は「のぞき見」などとは「全く質的に異なる」、撮られた写真は「卑猥」な印象はないと判断して、無罪判決を求める少数意見を出したという(朝日新聞2008/11/13 11:10)。

 この訴訟ではズボン姿でも撮影が「みだらな言動」「卑猥な動作」なのかどうかが争点だったわけだが、それ以前に、見ず知らずの人を背後から無断で「約5分間、約40メートルにわたり付け狙い」(共同、同前)撮影するという時点で、被写体が着衣だったか、スカートだったか、あるいは身体のどこを映したのかにかかわらず、すでに被写対象の人格を損ねる行為とみなさざるをえず、条令が定める「みだらな言動」だったかどうかは別として、道義的に問題のある行為だったことは確かだ。法的な合理性の是非は留保したいが、心情的には「そりゃまずいだろう」というところである。

 ところで今回の判決は、報道を読む限りでは「被害者が気付けば恥ずかしがり、不安を覚える行為」だから有罪だという論理展開のようだが、これに従えば、たとえば「監視カメラ」はどうなるのだろう。時と場合によっては街中・建造物中あちこちに散在する「監視カメラ」も同様の問題を抱えているのではないか。

 今回の事件は、撮る側の「まなざし」や「動作」に対し、撮られる側が羞恥と不安を感じたことが問題なので、それ自体は「まなざし」を発しない「監視カメラ」には今回の判例は適用できないのかもしれない。しかし、そのカメラが誰かに遠隔操作されていたり、撮影後に誰かが映像をチェックして偶然「卑猥」とみなせる映像があるなどで、いわば被写対象には可視化されない「性的なまなざし」があった場合はどうなるか。判決は「被害者が気付けば」と断っているので、要は被写対象が気付かなければ問題にはならないとも読み取れる。しかし、それが倫理的によいのか?と頭を抱えざるをえない。

 問題は「表現の自由」やプライバシーの保護と関係しているだけに非常にデリケートであり、こうすべきだ!という明快な結論は私には全然出せないが、今回の最高裁判決は期せずして氾濫する「監視カメラ」の危険性について考える材料を提供しているのではないか。

 もう1点。今回の件が有罪となると、よく新聞やテレビのニュースで恣意的に「若い女性」や「肌の露出の多い女性」ばかり撮っているのはどうなるのだろう。海水浴の報道では必ずと言っていいほど映るのは若い水着姿の女性である。台風の時にはこれまた必ずと言っていいほど短めのスカートを必死に抑える若い女性(たいていは女子中高生)が映る。最近もたまたま某私立大学の学生が大麻所持で逮捕されたというテレビニュースを見ていたら、資料映像としてミニスカート姿の女子学生が歩く様子を脚部だけ十数秒にわたって映していたのに出くわした。これらにエロティシズムを感じるのは、言うまでもなく既存の「男らしさ」に拘束された私の視線に起因するが、撮影者やその種の写真・映像を使用した関係者も同様の視線を持っていることは間違いない。これらが無断撮影で、かつ被写対象が羞恥や不安を覚えたなら、やはり有罪になるのではないだろうか。

 小さなニュースだが、いろいろな問題を考える素材になると言えよう。
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by mahounofuefuki | 2008-11-13 22:47

「橋下劇場」の原点としての光市事件懲戒請求扇動

 橋下徹氏が光市母子殺害事件の被告弁護団に対する懲戒請求を扇動した問題で、同弁護団所属の弁護士らが橋下氏に損害賠償を請求していた訴訟の判決が広島地裁で下った。これまでの公判の経過から原告の勝利は間違いないと確信していたが、予想通り橋下氏の扇動と多数の懲戒請求の因果関係を認め、橋下氏に賠償命令を下す原告勝訴の判決だった。

 判決骨子は次の通り(毎日新聞2008/10/02 10:21)。
◆名誉棄損にあたるか
 懲戒請求を呼びかける発言は、原告の弁護士としての客観的評価を低下させる。
◆懲戒制度の趣旨
 弁護士は少数派の基本的人権を保護すべき使命も有する。多数から批判されたことをもって、懲戒されることがあってはならない。
◆発言と損害の因果関係
 発言と懲戒請求の因果関係は明らか。
◆損害の有無と程度
 懲戒請求で原告は相応の事務負担を必要とし、精神的被害を被った。いずれも弁護士として相応の知識・経験を有すべき被告の行為でもたらされた。

 懲戒請求の本来の趣旨を逸脱し、単にバッシングを楽しむために行われた、法的にも道義的にも根拠のない請求を断罪し、弁護士の正当な活動を保障した判決と言えよう。他者を扇動するだけして卑怯にも自身は請求を行わなかった橋下氏のみを被告とする訴訟なので、一般の懲戒請求者については言及されていないようだが、橋下氏の罪は同時に扇動に乗じて光市事件弁護団を誹謗中傷した者すべての罪でもあり、これら無法者の反省を強く促しているとみなすべきである。光市事件そのものの訴訟の方は「外野」の介入で著しく歪められたが、民事のこちらの方では正常な訴訟指揮が行われ、真っ当な判決が出たことに安堵している。

 思い返せば、この光市事件での懲戒請求扇動こそが、一介のタレント弁護士だった橋下氏を政界に押し上げたきっかけでもあった。それまでもタカ派・保守的言説をしばしば吐いていたが、彼の本質は「場の空気を読むお調子者」にすぎず、特に政治的な人間というわけではなかった。
 それが一連の光市事件をめぐる「騒動」を機に一躍「ネット右翼」層のヒーローとなり、彼の時にリベラルな側面もあったことは忘却され、彼自身も「『左』を忌避するポピュリズム」の時流に迎合した。光市事件がなければ、自民党が橋下氏を大阪府知事に擁立することもなかっただろうし、彼もわざわざタレントとしての高額な稼ぎを捨ててまで、激務で(タレント業に比べれば)薄給の知事など引き受けなかっただろう。
 持ち前のサービス精神から信奉者の期待に応えようとして政界に飛び込んだのか、懲戒請求扇動訴訟の結果を見越して弁護士業に見切りをつけて政界に「逃げた」のか、判断のわかれるところではあるが(どちらの要素もあるだろう)、いずれにせよ光市事件が契機であることは間違いない。

 素朴な敵愾心や嫉妬心を煽り、「安心して攻撃できる公認の敵」への憎悪をかき立てる橋下氏の扇動方法は、古来使い古されてきたものだが、オーソドックスなだけに強力で持続性もある。
 先の大阪府知事選では、大阪で長年続いた与野党と府庁と財界・圧力団体(創価学会・有力労組・解同など)の談合政治に対する鬱屈が地滑り的な橋下大勝につながったが、現実の橋下府政は財政再建を口実に弱者切り捨てを敢行し、面倒なことはすべて市町村に丸投げする一方、大型開発や既成の利権(その中には右傾大衆が憎悪する「同和利権」も)には手をつけず、関西財界と中央官庁のパペットになりつつある。
 それにもかかわらず、多くの人々は府政の実際には眼もくれず、ただ表面上のパフォーマンスに踊らされて、橋下氏が既得権益を解体していると勝手に「信仰」している。まずいことに一般の人々だけではなく、マスメディアも意図的に橋下府政を「改革」と持ち上げていて、例えば朝日新聞は実際の橋下氏が府営ダム事業推進の立場をとっているのに、あたかも「ダム見直し派」であるかのような報道をしていた(この問題は、横田一「橋下改革劇場の舞台裏」『世界』2008年10月号に詳しい)。教育委員会を「安心して攻撃できる公認の敵」に仕立てて人々の目をくらます橋下氏の戦術が功を奏し、氏に不都合な事実を大衆の目に入れないような力学が働いているのである。

 今回の判決も多くの人々が橋下氏を擁護し、裁判所を誹謗中傷するだろう。橋下氏当人は今回の判決に理解を示し、原告にも謝罪の意を示したように伝えられているが(それなのに控訴するのが意味不明だが)、信奉者にはそんなことはお構いなしである(余談だが中山成彬氏の暴言の時も、ほかでもない麻生首相が任命責任を認め陳謝しているのに、中山発言を擁護する輩が後を絶たなかった)。残念ながら橋下氏はすでに多くの人々にとって「何をやっても許されてしまう人」になってしまっている。今回の判決をもってしても「橋下信仰」は弱まるどころか、むしろ「敵」に対する憎悪が再び高まり強化されるだろうが、少なくとも公的には橋下氏の誤りは永遠に記録される。何よりも今後別の誰かが懲戒制度を悪用して同じような真似をすることが難しくなる。懲戒請求を司法権の独立を脅かすバッシングという名のテロの道具にしてはならない、という当たり前のことを改めて明示した点にこそ、この訴訟の最大の意義があるだろう。

【関連リンク】
光市事件懲戒請求扇動問題 弁護団広報ページ
http://wiki.livedoor.jp/keiben/d/FrontPage
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by mahounofuefuki | 2008-10-02 18:28

日弁連の裁判員制度の緊急声明と「民主党への政権交代」論が似ている件

 裁判員制度に対しては、最近ついに共産党と社民党が実施延期を要請し、民主党からも制度を見直すべきだという声が出ている。国会で裁判員制度法案が成立した時は全会一致だったことを考えると隔世の感があるが、多くの人々が制度に不安を持っている以上、これらの動きは当然とも言える。

 しかし、日弁連はこのほど改めて裁判員制度を予定通り来春より実施するべきであるという緊急声明を発した。
 日弁連 - 裁判員制度施行時期に関する緊急声明
 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/080820.html

 「人質司法や調書裁判という刑事裁判の根本的な欠陥はそのままです。これを変えるためには、市民のみなさまに裁判に関与していただき、無罪推定の大原則の下、『見て聞いて分かる』法廷で判断していただくことが不可欠です」
 「市民のみなさまにはご負担をおかけしますが、是非とも裁判員制度に参加していただき、みなさまの健全な社会常識を司法の場に生かしていただきたいのです」

 この自信にいったいどんな根拠があるのか? 以前も述べたが、私が裁判員制度に危惧を抱くのは、まさにその「市民」の「健全な社会常識」に全く信を置けないからにほかならない。制度導入により「捜査も自白よりも物的証拠や科学的な捜査を重視する方向に」なると声明は主張するが、それは裁判員が「物的証拠や科学的な捜査を重視」するという前提がなければ成立しない。

 そもそも誰が見ても分かるような物的証拠があれば、裁判官だろうと裁判員だろうとその裁判結果に大差はない。問題は検察が物的証拠を隠蔽している場合、及び物的証拠が乏しい場合であって、今回の制度では前者については改善の保障はなく、後者についてはそれこそ慎重な検討が必要なのに、新制度によって「裁判員の負担を軽減するために」公判の期間が短縮され、性急な結論が出る危険性がある。

 声明は検察審査会を例示して、「市民」の抵抗感は実際に実施されれば緩和されると述べているが、「不起訴になった人を改めて起訴する」=「有罪になる可能性に道を開く」検察審査会と、「無罪になる可能性に道を開く」はずの裁判員制度とでは質的に異なる。この国では依然として「正義感」とは「敵」に「懲罰」「苦役」を与える方向で発揮される。被害者参加制度と合わせて考えると、裁判員制度導入がむしろ冤罪を増やすのではないか。

 日弁連声明の最大の問題は「裁判員制度を延期して今の刑事裁判を継続するのではなく、この制度を実施の上、欠点があれば、実施状況を見ながら改善していくという方法で進めるべきである」(太字強調は引用者による)という箇所である。要するに裁判員制度にはいろいろ欠陥はあるが、とりあえず実施して、それから問題を処方すればよい、と主張しているのである。

 これと似た論法を私は知っている。「政権交代を延期して自民党政権を継続するのではなく、とりあえず民主党に政権交代させて、民主党政権の様子を見て、問題があれば改善を求める」というありがちな「民主党への政権交代」論と瓜二つ! 両者に共通するのは「現行の欠陥の上にさらなる欠陥が増える可能性」を無視していることである(*)。

 「民主党政権」の話は今回の本題ではないので脇に置くが、裁判員制度の場合、「現行と同じ」どころか「現行より悪くなる」可能性がずっと深刻である。前述のように私には現行制度に比べて良くなるとはとうてい思えない。こうした疑問は私だけのものではないだろう。日弁連の主張はそうした疑問や不安には答えずに、「黙ってついて来い」と言っているように聞こえる。

 共産・社民両党の申し入れは「中止」ではなく「延期」である。少なくとも現在想定される数々の欠陥を、制度実施前に見直す時間を「延期」によって増やすことは、日弁連が望む司法改革とも矛盾しないはずだ。報道や漏れ伝わるところによれば、弁護士の間でも裁判員制度に対する不安は増えているようでもあるし、この際日弁連からも裁判員制度の施行延期に賛同の意を示して欲しい。


 *こう言うとまた「お前は自民党政権の継続を狙うスパイだ」とか言い出す人が出そうだが(笑)、私が抵抗しているのはあくまでも「政策転換なき政権交代」であって、「福祉国家への政策転換を伴う政権交代」はむしろ歓迎するところである。また「政策なき政権交代」についても「期待できない(正確には民主党政権では私は救済されない)」と考えているにすぎず、むしろ「民主党に問題があっても批判するな」という言論封殺や共産党を潰せという「反共主義」に対して怒っているのである。そこを見誤らないように。

【関連記事】
裁判員制度に対する私の本音
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by mahounofuefuki | 2008-08-21 23:31

米兵裁判権放棄に関する法務省文書の閲覧禁止について

 日本政府が1953年に、在日米軍の将兵による刑事事件に対する裁判権を放棄する密約をアメリカ政府と結んでいた、という報道を覚えているだろうか。
 同年締結の日米行政協定第17条は、米兵の「公務中」の犯罪はアメリカ側が、「公務外」の犯罪は日本側が1次裁判権を有すると定めていたが、実際の運用にあたっては「公務外」の場合でも衆目の集まる「重要」な事件を除き、日本政府は裁判権を行使していなかったことがアメリカの公文書公開で明らかになった件である(なお安保改定に際し、日米行政協定は日米地位協定に変わったが、裁判権条項は同じ17条に残っている)。
 今年5月に共同通信(2008/05/17 19:15)は次のように報じていた(太字引用は引用者による、以下同じ)。
 日本に駐留する米兵らの事件をめぐり、日米両国政府が1953年に「重要な案件以外、日本側は裁判権を放棄する」との密約に合意し、日本側がその後約5年間に起きた事件の97%の第1次裁判権を放棄していたことが、17日までに機密解除された複数の米側公文書で分かった。
 一連の米側公文書は58年から66年にかけて作成され、米国立公文書館で見つかった。
 このうち58年10月2日のダレス国務長官の在日米大使館あて秘密公電などによると、「日米安全保障条約改定に応じるに際し、日本側から裁判権放棄について意思表示を取り付けるべきだ」と秘密合意を公的にするよう提案した。
 これを受け、2日後にマッカーサー大使が岸首相と会談。大使は「53年の秘密議事録を明らかにせずに慣行として日本は裁判権を放棄してきたし将来も同様だと表明してほしい」と要請したが首相は応じなかった。
 また57年6月に国務省が作成した文書によると、53年以降、日本が1次裁判権を持つ約1万3000件の事件のうち97%の裁判権を放棄。実際に裁判が行われたのは約400件だけだった。
 安保改定に際してアメリカ側は「密約」を公にするよう要求したが、当時の岸信介首相は拒否、つまりあくまで内外に秘密にし続ける意思を示したという内容で、ここからその後も「密約」は効力を持ち続けていたことが容易に推定できよう。

 この件は他の「密約」と同様、アメリカの情報公開で明らかになったもので、文書管理と情報公開の遅れる日本側の関係文書はこの時点では一般には明らかにはなっていなかったが、先日、この裁判権放棄の「密約」の存在証明を補強する法務省の内部資料が明らかになった。
 以下、共同通信(2008/08/04 13:43)より。
 日本に駐留する米兵の事件をめぐり、1953年に法務省刑事局が「実質的に重要と認められる事件のみ裁判権を行使する」との通達を全国の地検など関係当局に送付、事実上、裁判権を放棄するよう指示していたことが、同省などが作成した複数の内部資料で分かった。
 法務省は地検に「慎重な配慮」を要請し、事件の処分を決める際は批判を受ける恐れのある裁判権不行使ではなく、起訴猶予とするよう命じていたことも判明。地検の問い合わせには日米地位協定に基づき、日本が第1次裁判権を行使できない「公務中の事件」の定義を広く解釈するよう回答していた。
 日本側の裁判権放棄については日米両政府による53年の秘密合意が明らかになっているが、合意を受けた具体的対応が分かったのは初。現在も米兵の交通事故など多くの事件が起訴されておらず、通達の効力は維持されているとみられる。
 内部資料は、法務省刑事局と警察庁刑事局が54年から72年にかけて作成した「外国軍隊等に対する刑事裁判権関係」などの実務資料。日米関係研究者の新原昭治氏や共同通信が入手した。
 しんぶん赤旗(2008/08/05)によれば、問題の通達は法務省刑事局長が1953年10月7日付で全国の検事長・検事正に宛てたもので、1972年3月に同局が作成した「合衆国軍隊構成員等に対する刑事裁判権関係実務資料」(マル秘指定)に収録されていたという。つまり、少なくとも1972年の時点でも「密約」は有効だったことがわかる。

 ところが、今日になって次のようなニュースが明らかになった。
 以下、しんぶん赤旗(2008/08/11)より(引用にあたり漢数字をアラビア数字に変換した)。
 日本に駐留する米兵の犯罪に関する日米間の密約を裏付ける法務省資料が、これまで国立国会図書館で閲覧可能でしたが、政府の圧力で6月下旬から閲覧禁止になったことが10日までに明らかになりました。
 利用禁止になったのは、1972年3月に法務省刑事局が作成した「合衆国軍隊構成員等に対する刑事裁判権関係実務資料」です。
 今年5月下旬、国会図書館に政府から、「(同資料を)非公開とする旨の発行者の公的な決定」が通知されました。同図書館は6月5日に関係部局長で構成される委員会で対応を協議し、「現時点では発行者の公的な決定と異なる判断を下す理由を見いだせなかった」として、同月23日に閲覧禁止を決定。同図書館のインターネット資料検索システム(NDL―OPAC)からも削除しました。
(中略)
 法務省資料には、米兵の犯罪に対して、第1次裁判権(日本側が優先的に裁判を行う権利)の大部分を放棄するよう指示した1953年の通達など、政府が存在を公に認めていない米兵に対する特権的事項が収録されています。同資料は「マル秘」指定になっていますが、古書店で販売されていたものを国会図書館が入手し、1990年3月に蔵書として登録しました。
 法務省資料の「発行元」である同省刑事局は本紙に対して、「本件についてコメントできない」としています。(後略)
 まず、5月の報道では不明だったマル秘資料の入手経路が明らかになった。1990年3月より以前に法務省(あるいは警察庁)もしくはその関係者から問題の資料が古書店に流出し、それを国立国会図書館が入手し、蔵書として登録したことがわかる。新原昭治氏らは国会図書館で正規の手続きを踏んで当該資料の複写を入手したのは間違いない。

 一方、新たな謎もある。アメリカ側文書の存在が報じられたのは5月17日。政府が国会図書館に非公開通知を行ったのは「5月下旬」。閲覧禁止が6月23日。政府の動きがいかにも早い。18年間も放置されていたのだから、政府が法務省資料の流出を知ったのは5月17日以降だろうが、どうやって国会図書館の資料の存在に気づいたのか。新原氏と共同通信の動きを知った上で、すぐさま隠匿工作を指示したと考えられるが、その具体的経過がよくわからない。

 一連の流れから、私が注意するのは次の2点である。

 第1に、政府がすぐさま閲覧禁止措置にしたように、この日米地位協定違反の「密約」は政府にとって何としても日本の主権者の目から隠したいもので、そして現在も効力を持っているということである。実際、現在も米兵の事件は相当数が不起訴となっている。問題の刑事局長通達が指示しているように、不起訴によって事実上裁判権を放棄する方法が一般的に行われているのは間違いのないところだろう。

 第2に、「廃棄された公文書」の扱いである。今回の場合、文書を所持していた関係者から流れたか(たとえば関係者本人の死後、遺族が保有文書を売りに出すことは多い)、法務省(あるいは警察庁)自体が現用でなくなって廃棄したのが古書市場に出たのかのどちらかだろうが、いったん廃棄ないし売却された文書を、いかに発行者とはいえ「閲覧禁止」を要求することが果たして正当なのかどうか。以前、ある歴史研究者が防衛省防衛研究所の所蔵資料で論文を書いたら、それが旧軍にとって不都合な内容だったために、その資料が閲覧停止になったという話を聞いたことがあるが、今回の場合、すでに法務省の手を離れた文書なのだから、より悪質である。

 現在公文書問題については、この問題をライフワークとする福田康夫首相の肝いりで、担当の国務大臣が置かれ、「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」が設置され、現行では事実上各省庁の恣意に任されている文書管理と情報公開の改革が検討されている。ここで想定されている中心課題は公文書の管理と公開の一元化で、省庁から文書館への移管を確実にする方策が重視されているが、今回の法務省の場合のようなケースはどうなのか。福田首相は今回の件を黙って見過ごすようでは、言行不一致の誹りを免れない。
 日米関係の「闇」の深さに戦慄を覚えると同時に、日本国家の文書管理の不透明さに改めて驚きを禁じ得ない「事件」である。

【関連リンク】
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定 – 外務省*PDF
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/pdfs/fulltext.pdf
国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/
公文書管理の在り方等に関する有識者会議 - 内閣官房
http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/koubun/index.html


《追記》

 本稿執筆後、「情報流通促進計画」が別のソースを用いて、法務省文書閲覧禁止の件についてのエントリを上げておられるのを確認した。

 てえへんだ、てえへんだ・・・国会図書館が裁判権放棄を裏付ける文書を急きょ閲覧禁止に! - 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)
 http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/39e42e5f941390a2fe28e0ca6fb7a1dd

 なお、ヤメ蚊氏の記事では、国立国会図書館の資料制限措置の内規が問題になっているが、そもそも国立国会図書館法が第21条で「両議院、委員会及び議員並びに行政及び司法の各部門からの要求を妨げない限り」とその活動に制限が加えられており、法律自体に問題があると言うべきだろう。

 国立国会図書館法 - 法令データ提供システム
 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO005.html
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by mahounofuefuki | 2008-08-11 21:42

社会保障切り捨て路線の是非と生存権裁判

 生活保護給付の老齢加算母子加算の廃止・減額は憲法第25条の生存権保障規定に反するとして、受給者らが自治体を訴えていた「生存権裁判」のうち、東京地裁の老齢加算廃止違憲訴訟の判決が下った。結果は残念ながら原告の請求棄却であった。

 この訴訟は単に生活保護受給者の問題ではなく、「構造改革」路線のもとで強力に進められている社会保障切り捨て政策そのものを問う意味を含んでいたが、今回の判決は厚生労働大臣の裁量権を広く認め、事実上切り捨てを追認したと言えよう。おそらく控訴するだろうし、まだほかの各地の訴訟もあるが、当面は政府の社会保障費抑制路線を後押しする効果を与えよう。以前、当ブログでは「この訴訟の帰趨は今後の社会保障政策全般に影響するだろう」と述べただけに本当に残念だ。

 今年の経済財政諮問会議の「骨太の方針」も、相変わらず社会保障費の自然増分の2200億円削減を継続し、歳出削減を「最大限」続けるという内容になる見通しだし、「上げ潮」派の巻き返しで政府・与党内の歳出抑制批判の声も抑えられ、またしてもしばらくは生活に直結した公的給付が削られたり、負担が増えたりする状況が続くだろう。

 庶民への負担増となる消費税増税は先送りされたものの、「無駄遣い」削減とたばこ税増税では再分配効果はなく「庶民いじめ」に変わりない。以前も指摘したが、現在の政界における「無駄」とは、軍事費や需要の低い大型開発のような「本当の無駄」ではなく、専ら人件費と社会保障費を指す。人件費といっても高級官僚の給与が減るわけではない。だいたいが福祉や医療や教育などの民生分野で下の職員が有期雇用や民間委託に置き換えられるのがオチだ。行政能力を落とし、不安定雇用を増加させるだけである。いいかげん騙されるのはやめて欲しいが、相変わらず「居酒屋タクシー」のような目くらましで、またしても世論は歳出削減路線に流れてしまう。

 社会保障の切り捨てと非正規雇用の増大が「官製貧困」の原因である以上、これらをやめることが急務であるにもかかわらず、裁判所までが自民・公明政権の悪政を追認してしまった。改めて日本の司法権の存在意義を問い直す必要があるだろう。


《追記》

 原告団・原告弁護団が東京地裁判決について声明を発している。
 東京生存権裁判の判決について*PDF
 http://www.news-pj.net/siryou/pdf/2008/tokyoseizonkensaibangenkokudan-20080626.pdf

 「本日言い渡された本判決は、第1に、生活保護基準以下の生活を強いられている国民(とりわけ高齢者)が存在する事実に対して、この貧困を解決するのではなく、この貧困状態に合わせて生活保護基準を切り下げ、格差と貧困を拡大する政府の不当な政策を是認したものであり、第2に、老齢加算が果たしてきた重要な役割を何ら理解することなく、老齢加算が廃止されることで高齢保護受給者の生存権を侵害している実態から目を背け、行政の違憲・違法な措置を追認した不当なものである」という批判は正鵠を得ている。

【関連記事】
生活保護と生存権
「無駄遣いがある限り増税はだめ」では消費税増税論に対抗できない

【関連リンク】
全国生活と健康を守る会連合会【生存権裁判】
http://www.zenseiren.net/seizonken/seizonken.html
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by mahounofuefuki | 2008-06-26 17:35

要するに「現場」の「表現の自由」より「お偉いさん」の「表現しない自由」を優先するという判決

 「従軍慰安婦問題」を民間で裁いた「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」を取材したNHK教育テレビのドキュメンタリー番組(2001年1月放送)の内容が、NHK上層部の指示で改変された問題をめぐって、取材対象・協力者だった「戦争と女性への暴力」日本ネットワークが「番組への期待・信頼を裏切られた」としてNHKを訴えていた訴訟で、最高裁は原告一部勝訴の控訴審判決を破棄する判決を下した。

 今回の最高裁判決の問題性については、管見の限りでは東京大学大学院教授の醍醐聡氏のブログが最も要領よく整理されており、そちらを参照したい。
 醍醐聡のブログ:まれにみる稚拙で悪質な最高裁判決――ETV番組改編事件に対する最高裁判決への論評
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/etv_b991.html
 今回の判決について「国民の知る権利に背く番組改編を憲法が保障した『表現の自由』の名の下に免罪した支離滅裂な判断」、「政治介入に起因する番組改編をNHK内部の検討にすり替える歪んだ事実認定」と評しているが、おおむね肯定できる評価である。

 訴訟の争点は取材協力者の「期待権」であったが、私見では問題の本質は「報道現場の『表現する自由』」と「政治権力に影響されたメディア上層部の『表現しない自由(編集する自由)』」の対抗にあったと解釈していた。判決は「法律上、放送事業者がどのような内容の放送をするか、すなわち、どのように番組の編集をするかは、表現の自由の保障の下、公共の福祉の適合性に配慮した放送事業者の自立的判断にゆだねられている」ということを前提に(その前提は正しい)、放送事業者の編集権を「期待権」より優先したのだが、むしろ現実問題としては「報道現場の『表現する自由』」より「上層部の『表現しない自由』」を優先する効果を与えたことが問題である。

 それ以上に問題なのは、そもそもNHKの上層部が番組を改編させたきっかけが、放送直前の2001年1月末に、自民党の歴史修正主義派の国会議員が番組内容に注文をつけたこと、特に当時内閣官房副長官だった安倍晋三氏にNHKの放送総局長と国会担当役員が面会し、その場で安倍氏が番組内容にケチをつけたことにあったにもかかわらず、最高裁の判決は控訴審判決とは異なりこの件を完全無視したことである。いわば「上層部の『表現しない自由』」の背後には予算編成への影響力をもつ国会議員の影があったことを全く問題にしていないのである。

 歴史修正主義派の国会議員による「表現の自由」への介入といえば、映画「靖国」に対する稲田朋美衆院議員らの事前検閲要求と上映妨害が記憶に新しいが、NHK問題はそうした「政治介入」を恒常化させた重要な事件である。今回の最高裁判決が「政治介入」を黙殺したのは「表現の自由」が危機的状況にある現状を鑑みればあまりにも不当である。
 *ただし、「政治介入」を「否定」したわけではないので、「政治介入」は「捏造」だという安倍氏の強弁は判例に根拠をもたない。少なくとも安倍氏の影響を指摘した控訴審判決は歴史的記録として残る。

 今回の件に対する右翼系統のリアクションは忙しくて未確認だが、おそらく「勝利」に沸いているのだろう。しかし、マスメディア上層部の「表現しない自由」が過剰に容認されれば、その影響は歴史認識の報道にとどまらない。たとえばテレビに限っても、民放がスポンサーに配慮して「自粛」したり、ワイドショーが大手芸能プロダクションに配慮して「隠蔽」したりすることは日常茶飯事であるが、このように「企業としてのマスメディア」の「編集権」が専ら権力への迎合を正当化する方向に無制限に拡大すれば、結局は「左」も「右」もなくすべての視聴者にとって「知る権利」の侵害となり、多大な不利益をもたらすだろう。

【関連リンク】
平成19(受)808 損害賠償請求事件 平成20年06月12日 最高裁判所第一小法廷判決 – 裁判所
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=36444&hanreiKbn=01
NHK番組改変 東京高裁判決文 全文 – News for the People in Japan
http://www.news-pj.net/siryou/2007/nhk-kousai_zenbun20070129.html
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by mahounofuefuki | 2008-06-13 12:26

裁判員制度に対する私の本音

 刑事訴訟で起訴事実を否認した被告の一審無罪率が、昨年は過去10年で最高だったという。以下、共同通信(2008/06/02 18:13)より。
(前略) 最高裁刑事局の集計によると、全国の地裁が昨年、1審判決を言い渡した被告(6万9238人)のうち、公判で起訴事実を否認したのは4984人で、起訴事実のすべてが無罪となったのは97人、一部無罪が48人。
 このうち、殺人、強盗致傷、放火など裁判員裁判対象事件の否認被告は896人で、一部を含む無罪は19人(2・1%)。
 否認被告の無罪率は、1998年から2002年まで1・2-1・9%で推移したが、03年以降は2%台となり、06年は2・6%だった。
 一方、最高検の集計によると、裁判員裁判対象事件の1審で捜査段階の自白調書の任意性(強要や利益誘導などがなく任意に自白したかどうか)が争われ、調書の証拠請求が却下(一部含む)されたのは、05年が119件中3件、昨年は70件中10件。
 日本の刑事訴訟の政治性や自白偏重主義はつとに知られるところだが、裁判員制度開始を前に証拠評価が厳しくなり、無罪率が上がったということは、それまでは証拠評価が厳格に行われず、推定無罪原則が貫かれていなかったことを意味する。また、裁判員制度対象案件の自白調書の証拠不採用が昨年は70件中10件ということは、つまり依然として70件中60件(=約85%)で自白調書が証拠採用されているということになる。とてもではないが改善とは言えないレベルだ。

 裁判員制度に対しては多くの人々が抵抗感をもっていることが各種世論調査からも明らかだが、かくいう私も裁判員制度は不要かつ有害だと考えている。裁判員制度不要論の論拠はいろいろ出ているが、私が抵抗する理由はただ1つ。もし私が何らかの事情(冤罪とか)で逮捕・起訴された時、今の日本の大衆に裁かれたくないからである。
 なんだかんだ言ってこの国の大衆の多数派は自民党政権を支え、コイズミやハシモトに熱狂し、弱い者いじめが大好きで、長いものに巻かれたがる。そんな連中に公平な裁判など期待できるはずもなく、行政側のシナリオに追随するのが目に見える。裁判員の多数がまともな人で占められる確率は限りなく低い。

 裁判員制度反対者の中にはこのまま施行されたら裁判員に指名されても拒否すると公言している人が少なくないが、私は自分が裁判員になるのは構わない。私は裁判官にも検察官にも弁護人にも誘導されず、自己の良心と科学的認識に従って判断する自信があるからだ。何て傲慢な!と言われそうだが、少なくとも刑事訴訟を「被害者」の応報手段としか考えていない連中よりははるかに公平で客観的な判断を行い、訴訟を正常化する意思はある。

 自分が参審(本当は陪審の方が望ましいが)するのは構わないが、橋下徹が涙を流しただけで「知事をいじめるな」とかほざく人や、「ワーキングプアは自己責任」とかうそぶく人や、「靖国神社に参拝しないのは反日だ」とか叫ぶ人が裁判員になるのはとうてい容認できない。選別できない以上、制度そのものを葬るほかない。
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by mahounofuefuki | 2008-06-02 21:25

米兵の婦女暴行の賠償金を肩代わりさせられる日本政府

 日米安保体制の歪みについては、最近もアメリカ兵の公務外の犯罪に対する一次裁判権(日米地位協定第14条及び第17条による)を放棄する密約を1953年に締結していたことが明らかになったように(東京新聞2008/05/18朝刊など)、もはや何でもありの無法状態であることが「常識」となっている。日米安全保障条約や日米地位協定の内容自体が不均衡で不正であるのに、それすらも厳密に守られていない事実を前にすると暗澹たる気分に襲われる。
 そんないびつな戦後日米関係史に新たな1ページを刻むニュースがある。朝日新聞(2008/05/19 20:13)より。
 防衛省は19日、02年に神奈川県横須賀市で米海軍兵から性的暴行を受けたオーストラリア人女性に対し、見舞金300万円を支払った。民事訴訟で賠償金を支払うよう命じられた米兵はすでに帰国。米側も支払いを拒んだため、日本政府が肩代わりをする異例の決着となった。

 同省によると、女性は02年4月に米兵から暴行されたとして、同年8月に東京地裁に民事訴訟を起こした。同地裁は04年11月、300万円の賠償を命じたが、被告米兵は裁判途中に除隊・帰国してしまった。

 日米地位協定では、米兵が公務外に起こした事件事故で賠償金が支払えない場合は米側が補償する仕組みだが、今回のケースは発生から2年以内とする米国法の請求期限を過ぎているとして、米側が支払いを拒否。このため防衛省は、日米地位協定で救済されない米軍被害の救済を定めた64年の閣議決定を適用し、見舞金の支給を決めたという。
 この事件が示すところは、アメリカ軍人は日本で婦女暴行をしても、事件から2年以上裁判を引き伸ばせば、日本政府が賠償金を肩代わりしてくれるということである。朝日の記事中にあるように、日米地位協定第18条により、駐留軍人の公務外の賠償案件についてはアメリカ政府に慰謝料支払義務があるが、これが全く遵守されていないことが今回改めて明らかになったのである。これを「逃げ得」と言わずして何と言えようか。
 あいにく私は1964年の閣議決定について知らないので、2004年の判決から3年半以上たった現在までにどういう経過で日本側が肩代わりするのに至ったのか、なぜ外務省ではなく防衛省が支払ったのか、判決の「賠償金」を「見舞金」で代償する法的根拠が何なのか、わからないことだらけだが、少なくともアメリカ政府が自国の国内法を盾に請求権を認めないのは著しく不当である。

 婦女暴行は親告罪で刑事上の捜査や訴訟そのものが被害者を鞭打つため、ただでさえ刑事事件になりにくい。しかも前述のように日本政府は一次裁判権を事実上放棄してしまっている。その上、民事訴訟でも賠償責任を問えないとあってはあまりにもやるせない。
 被害者が日本人ではないためか、あまり話題になっていないようだが、日本のアメリカへの従属ぶりがもはや極限にまで達している実例として見過ごすことはできない。

【関連記事】
ナショナリストが在日米軍に期待するもの
米軍の年間性犯罪2700件から見えるもの

【関連リンク】
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定 – 外務省*PDF
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/pdfs/fulltext.pdf
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by mahounofuefuki | 2008-05-20 17:47

偽装請負内部告発による解雇は無効

 松下電器産業の子会社「松下プラズマディスプレイ」の請負労働者が、偽装請負を内部告発後に解雇され、解雇無効と賠償を求めていた訴訟の控訴審で、大阪高裁は就労先の雇用責任を認める判決を下した。以下、朝日新聞(2008/04/25)より。
(前略) 判決によると、吉岡さんは04年1月から、松下PDPの茨木工場で「請負会社の社員」という形で働いていたが、翌05年5月、「実際は松下側社員の指揮命令のもとで働いており、実態は直接雇用だ」と大阪労働局に偽装請負を内部告発した。同8月、松下PDPに期間工として直接雇用されたものの、06年1月末、期間満了を理由に職を失った。期間工だった間、吉岡さんは他の社員と接触できない単純作業に従事させられた。
 判決はまず、請負会社の社員だった吉岡さんらの労働実態について「松下側の従業員の指揮命令を受けていた」などと認定。吉岡さんを雇っていた請負会社と松下側が結んだ業務委託契約は「脱法的な労働者供給契約」であり、職業安定法や労働基準法に違反して無効だと判断した。
 そのうえで、労働契約は当事者間の「黙示の合意」でも成立すると指摘。吉岡さんの場合、04年1月以降、「期間2カ月」「更新あり」「時給1350円」などの条件で松下側に労働力を提供し、松下側と使用従属関係にあったとして、双方の間には「黙示の労働契約の成立が認められる」と認定した。この結果、吉岡さんはこの工場で働き始めた当初から直接雇用の関係にあったと結論づけた。
 松下側が06年2月以降の契約更新を拒否したことについても「解雇権の乱用」で無効と判断した。
 さらに、吉岡さんが期間工として直接雇用された05年8月以降、配置転換で単独の作業部屋に隔離されたことについて、「松下側が内部告発などへの報復という不当な動機や目的から命じた」と認定した。(後略)
 松下プラズマの偽装請負問題については専門のブログがあり、この訴訟の経過についても詳しい(文末の「関連リンク」参照)。

 今回の判決の画期性は、就労先と請負会社の業務委託契約を「偽装請負」として違法で無効であると断じたのみならず、労働契約が「黙示の合意」でも成立するとし、契約が無効であっても実際に働かせていた就労先の雇用責任を認めたことだろう。表向きは「請負」でも実態としては直接雇用であった事実を認め、就労先の責任を法的に認定したことは重要である。
 そして何よりも、不正を告発したばかりに不当な扱いを受けた人が勝利を得たというのが素晴らしい。この国では「正義が負ける」のが常態化しているため、よほど勇気がなければ職場で不当な扱いを受けても「我慢する」か「辞める」場合がほとんどで、「闘う」という選択肢をとる人は極めて少ない。会社側からの報復だけでなく、「闘う」勇気のない奴隷に甘んじている同僚たちからのバッシングもあっただろう。
 黙って泣き寝入りしていても事態は動かない。味方は内部にいなくても外部には必ずいる。今回の原告もキャノンの偽装請負の告発者らと「偽装請負を内部告発する非正規ネット」を立ち上げ、他の労働運動や政党の支援があればこそ闘いを継続できた。声を上げないことにはどうしようもないことを改めて学んだ。
 今回の判決が労働者派遣法改正の追い風となることを期待したい。

【関連リンク】
松下プラズマディスプレイ社 偽装請負事件
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by mahounofuefuki | 2008-04-26 21:11

さあ「憎悪タイム」がまた始まりましたよ

 周知の通り、光市母子殺害事件の差し戻し控訴審判決が下った。
 この件については今さら新たに述べることもないので、過去の記事を加除訂正の上で再掲する。

大衆の「狂気」より
 殺人事件があまたある中で、光市母子殺害事件は異様な展開をたどった。
 まず、事件そのものが口にするのもおぞましいものであったこと。
被害者女性の夫が極めて攻撃的で堂々と復讐を宣言したこと(記者会見で、被告を死刑にできなければ自分が殺す、とまで言っていた)。
 マスコミが事件を興味本位で偏向した報道をしたこと。その結果、多くの大衆が被害者の夫に過剰なほど共鳴し、被告の死刑を求める世論が高まったこと。
 さらに、大衆の攻撃は被告にとどまらず被告の弁護団や死刑反対論者にまで及び、ついには新聞社に弁護団への脅迫状が送られる事態になったこと。
 このようにまさに「狂気」の連続である。

 実は私も事件当初は、なんてひどい事件だと憤りを感じていた1人であった。
 しかし、マスメディアや大衆世論の過剰なまでの凶暴性に、犯人とされる被告の「狂気」とは別種の「狂気」を感じるようになり、今は被害者の夫にまったく共感できなくなった。しかも、こともあろうに最高裁判所が大衆の攻撃に恐れをなしてか、無期懲役の控訴審判決を差し戻してしまった。裁判が報道や世論に左右されることなどあってはならないのに。

 私は一連の群衆心理に、排外主義と同じものを感じる。
 つまり、弱そうな「公認の敵」、いくら攻撃しても反撃されることはなく、権力も認めている「敵」を攻撃することで、絶対的優越感を得るという点で、両者は共通するのである。もし犯人が「少年」でなく「暴力団員」だったら、ここまで世論は高まっただろうか? メディアは報道しただろうか?
 否である。この国の大衆が「少年犯罪」となると、大人の犯罪以上に激昂するのは、自己より絶対的下位にあるべき「少年」が自己の存在を脅かしていると感じるからだ。あえて断言してもよいが、「少年法はいらない」「少年を死刑」にと叫んでいる人ほど、街中で未成年が不法行為をしていても注意のひとつもできず、内心で苦々しく思っているだけの臆病者だ。自分の弱さを誤魔化すために、「少年犯罪」をだしに使っているにすぎない。

 ましてや弁護士を攻撃するなどもってのほかだ。もし冤罪で逮捕・起訴された時、実際に助けてくれるのは誰か。今や大衆の憎悪を一身に浴びる「人権派」弁護士である。自分は逮捕されることがない、などといくら自信をもっていても、無実の罪で検挙される例はあとをたたない。最高検察庁でさえ冤罪防止機能が不十分であると認めたほどである。
 はっきり言ってしまえば、光市事件の被告が死刑になろうとそうでなかろうと、被害者ではない私たちの生活に影響はまったくない。厳罰にして見せしめにすれば犯罪はなくなると本気で信じているとすれば、ずいぶんお目出度い話だ。この事件に直接関係のない人間が拘る理由は何もない。


無題より
 実のところ私は光市事件の訴訟そのものにはさしたる関心がない。たくさんある殺人事件のなかで光市事件だけに関心を寄せる理由はないからだ。
 私が気になるのは、多くの人々が光市事件に大きな関心を寄せ、特に被害者の夫に過剰なまでに共感して、被告やその弁護団をバッシングしている「現象」である。被告や弁護団をバッシングしている人々は「義憤」にかられてというより、実際のところは「安心して攻撃できる"絶対悪"」を求めているとしか私には思えないのだ。

 繰り返しになるが、この事件の被告が「元少年」ではなく「暴力団員」だったらここまで世論は高まっただろうか? 実際、関西で大学院生が暴力団員に虐殺された事件に世論は沈黙した。光市事件の場合、被害者の夫がより戦闘的であることを差し引いても、ここまで人々が関心を寄せるのは、「犯人」が「少年」だったという点が大きい。
 つまり、自分より「絶対的下位」にいるべき「少年」の「横暴」に普段何もできないのを誤魔化し、他者(この場合は、被害者の夫)が自己の「代わりに」攻撃してくれることに喝采を送っているのだ。


橋下発言はツッコミどころ満載より
 以前も書いたが、私は光市母子殺害事件の訴訟そのものにはもはや関心がない。たくさんある殺人事件の中でこの事件に特別な興味を抱く理由が私にはない。極端な話、被告が死刑になろうとそうでなかろうとも私の生活には関係ない。彼が処刑されてもされなくても、私には何のメリットもない(関係者以外のほかの人々にもあるとは思えないが)。コンコルド広場にて国王や王妃をギロチンで斬首する光景に熱狂したパリ市民のようなグロテスクな趣味も持ち合わせていない。
 しかし、光市事件に異様に熱狂し、拘置所ですでに自由を奪われている被告や、自らの職務に忠実な弁護士をバッシングする人々の動きには関心をもたざるをえない。それは、この騒動が司法権の独立や訴訟の公平な進行を損ねているからで、1度でもこんな前例ができると、今後の刑事訴訟全体に悪影響を及ぼすことを危惧している。

 仮に将来、誰かが(私やあなたかも)無実の罪で逮捕・起訴された時、検察側の誘導でバッシングが行われ、被害者が無実の人を犯人と思い込み、弁護人の活動が阻害され、罪をなすりつけられるのを心配している。日本はただでさえ冤罪が多い。特に「痴漢」の冤罪は後をたたない。「それでも僕はやっていない」なんて映画が売れるくらいだ。
 光市事件は冤罪ではない。しかし、味をしめた検察が被害者を利用する可能性は否めない。それに何よりも、世論の関心度によって量刑が左右されることなどあってはならない。世論の関心の高い事件は刑が重いとなると、そうでない事案との不公平性が問題になる。それゆえ、光市事件そのものは私の関知するところではないが、バッシング現象の方は私の(そして多くの人々の)利害にかかわるのである。だから、面倒でも発言せざるをえないのだ。


今枝仁弁護士の解任についてより
 私から言えるのは、今枝氏は世論を気にしすぎた、ということだけである。
 最高裁の弁論欠席について釈明が必要であるとか、法医学的見地に偏りすぎであるといった今枝氏の主張は、要するにマスコミ報道による世論の誤解を解こうという意図から発していると思われる。
 しかし、私に言わせれば、そんな努力はまったく無駄である。この国では権力やマスメディアが「公認の敵」として認定した者には、どんな些細なことでも攻撃する。中途半端な小細工は火に油を注ぐようなものである。
 むしろ「世間」なるものに余計な「弁明」などせず、毅然と堂々と行動した方がいい。人々は光市事件に憤っているように見えて、その実「安心して攻撃できる絶対悪」をいじめることを楽しんでいるだけなので、余計な「弁明」はかえって弱みになり、いじめの対象となる。


(以下は今日の書き下ろし)
 最高裁が大衆の「リンチ」に屈して控訴審に差し戻した時は、私の頭の中でレオンカヴァルロの歌劇「道化師」の“No, pagliaccio non son”が鳴り響いていたが、今はフォーレのレクイエムの清澄な調べが聞こえる。もちろん鎮魂の対象は被告ではなく、道化芝居にもならない「光市まつり」に熱狂する人々である。
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by mahounofuefuki | 2008-04-22 12:11