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「戦争のおかげで日本は民主化された」論と「新しい戦争のカタチ」

 以前、知人から次のような話を聞いた。

 ある中学校の社会科の授業のことである。テーマは第2次世界大戦。教師は戦争の経過を説明し、戦場の非人間的な状況や銃後の苦しい生活について熱く語っていた。ある生徒が挙手して発言する。「戦争があったおかげで、日本国憲法の平和主義も民主主義も実現できたのではないか」「戦争がなければ大日本帝国による専制が続いていたのではないか」と。教師が他の生徒にもこの問題を問うてみると、圧倒的多数の生徒がこれに同調した。この教師は戦前の国家体制と戦争、さらには「戦後民主主義」との関係性についてうまく説明できず、子どもたちを納得させることはできなかったという。

 1990年前後のことだから、まだ「自由主義史観」も、小林よしのりの「戦争論」もない頃の話である。「平和主義」や「民主主義」に価値を置いているだけ相当ましで、今なら歴史修正主義派のプロパガンダで「理論武装」した生徒が、必ずしも歴史学を専攻してはいない知識不十分な教師をやりこめていることだろう。

 戦争のおかげで天皇制国家が倒れた、あるいは民主国家になったという認識は、現在の日本が平和主義・民主主義であり、それは占領軍によってもたらされたという捉え方を前提にしている。実は敗戦と占領が日本にデモクラシーをもたらしたという見方は戦勝国、特にアメリカの一般的な歴史認識で、日本の諸都市に対する無差別爆撃や広島・長崎への原爆投下などの非人道的軍事行動を正当化する論理につながる。よく歴史修正主義派が戦後日本の歴史認識を連合国の戦時プロパガンダに影響されているとかみつくが、前述の「戦争のおかげで~」とか「戦争がなければ~」という見方は、ある意味連合国側が付与した認識と言えなくもない。

 しかし、歴史学の大勢はこうした見方をとらない。私見では戦争と戦後体制の関係に対する認識は次の2つに大別しうる。1つは、「戦後民主主義」の源流は戦前・戦中の日本社会に胚胎していたという見方。もう1つは、そもそも戦後日本は民主主義でも平和主義でもないという見方である。前者は主に、自由民権運動や大正デモクラシーと「戦後民主主義」とのつながりを重視する考え方や、戦時下の総力戦体制の諸政策に「戦後改革」の先駆性を認める考え方などである。後者は占領改革が占領改革であるが故の不徹底を重視し、日米安保体制や長期保守政権の歪みを問題視する。両者は必ずしも矛盾しない。戦前からのデモクラシーの胎動が、「占領」という歪みを経ることで、戦後も不完全燃焼に終わったと解釈しうるからである。

 こんな話を突然したのは、今日が沖縄の「慰霊の日」(沖縄戦の戦没者を追悼する)だからである。はじめに紹介した中学生の疑問に対する答えは実は沖縄にある。戦争のために沖縄は戦後もアメリカの占領下におかれ、今なおアメリカ軍基地が密集している。「戦争のおかげで日本は軍部から解放された」などと沖縄では口が裂けても言えない。沖縄は今も軍事支配下にあるも同然だからである。戦争そのものにおいても沖縄は凄惨な地上戦を強いられ、軍による住民への虐殺や「死の強制」が相次いだ。沖縄の視座に立つとき、戦後日本の「平和」は全くのまやかしにすぎないことが見えてくる。

 「平和を守ろう」とか、逆に「平和が我々を苦しめる」と言う時、いずれも「現在の日本は平和である」という認識を共有している。しかし、沖縄に限らず日本の現況は「平和」と言えるのか。昨年、「希望は戦争しかない」とある社会的弱者は叫んだが(その叫びの前提となる「気分」は「氷河期世代」として共感できるが)、実はすでにわれわれはグローバル社会の「新しい戦争」の渦中にいるのではないか? 核時代となり第2次大戦型の総力戦が過去の遺物となった現在、戦争と平和を隔てるラインは限りなく透明である。いま多くの人々が苛まれている「過労」や「貧困」や「差別」を「新しい戦争のカタチ」としてひと括りにするべきなのではないか。

 日本社会を取り巻く「漠然とした不安」も、平和に倦んでいるというより、すでにこの国が戦争状態にあると理解するべきではないか。多くの日本の住民が直面している矛盾は「新しい戦争」として総括できるという仮説を提起したい。
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by mahounofuefuki | 2008-06-23 17:33

A級戦犯を分祀しても「靖国問題」は解決しない

 東郷神社前宮司の松崎暉男氏が近著で、靖国神社が合祀したA級戦犯を東郷神社に分祀するよう提言するという。毎日新聞(2008/05/25 02:30)によれば、松橋氏は「靖国神社に代わる新たな国立追悼施設反対の立場で、神社本庁と一致している」が、「A級戦犯合祀が中国などの反発を招いた問題は、首相参拝が行われなくても解決しない」という立場だという。
 政府や保守勢力の一部にある、A級戦犯分祀によって「外交問題としての靖国問題」を解決し、靖国神社の公共性を確固たるものにしようという考えと同じとみられるが、この考えは「外国さえ黙らせれば靖国問題は解決」という立場であって、日本国内の歴史認識の問題、あるいは政教分離の問題としての「靖国問題」を無視しているという点で問題である。

 以前も書いたが、靖国問題の本質は、無数の戦没者の中から軍人・軍属だけを特権化し、しかもこれら戦死者・戦傷病死者が実際は国家の愚策によって死を強要されたのを、国家の繁栄のために死んでくれたと顕彰することで、日本国家の戦争責任を糊塗していることである。
 あえて極言すれば、国家指導者は本来「国家のせいで死なせてしまい申し訳ありません」と言わなければならないところを、「我々のために死んでくれてありがとう」と換骨奪胎してしまうのが靖国神社である。そこには戦争に対する反省も、民間人や外国人の戦争被害者への視点も、平和への祈願もない。
 A級戦犯を分祀すれば、韓国や中国をはじめ諸外国は「戦争指導者と民衆は違う」という立場から靖国参拝を問題としなくなり、「外交問題としての靖国問題」は確かに解決するかもしれない。しかし、日本の主権者にとっての靖国問題は何一つ解決しないどころか、かえって現在法的には一宗教法人にすぎない靖国神社を国家の戦争美化装置として復活させてしまう契機となりかねない。

 靖国神社が現実に果たしてきた戦争美化と兵士再生産の機能は、A級戦犯が合祀されていようといまいと何ら変わらない。いまいちど靖国問題を戦没者追悼の在り方の問題として捉え直す必要があるだろう。

【関連記事】
靖国神社とは何なのか
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by mahounofuefuki | 2008-05-25 12:34

自衛隊が「創設100周年」!?

 今日の「しんぶん赤旗」電子版に「陸自、銃携え街行進/『創設100周年記念』帝国陸軍を継承」と題する記事があって目にとまった。三重県津市にある陸上自衛隊久居駐屯地の「駐屯地創設100周年記念行事」の一環として、昨日(4月26日)駐屯部隊のパレードが行われたという。

 自衛隊の前身の前身である警察予備隊が占領軍の命令で創設されたのが1950年だから、今年は58周年のはずなのに、なぜ100周年?と思ったら、旧帝国陸軍の久居駐屯地の開設が1908年で、それから起算して100年だというからふざけた話だ。
 言うまでもないが、帝国陸軍と自衛隊はその設置の法的根拠は全く異なる。しかも敗戦による旧軍解体後、駐屯地は数年間とはいえ大蔵省が管轄し、制度上は断絶している。それを連続して100周年と称するのは厚顔無恥にもほどがある。
 今まではどうだったのか簡単に調べてみると、久居駐屯地の開設記念行事は毎年行われているが、昨年までは警察予備隊発足から起算していて、昨年は「57周年」となっていた。それが今年唐突に「100周年」と銘打って、40年ぶりに市中でのパレードを大々的に行ったのである。自衛隊の存在感と戦前と戦後の連続性を強調することで、「戦後的」価値観を否定する政治的パフォーマンスと言えよう。

 「赤旗」によれば、駐屯地司令で第33普通科連隊長の甲斐芳樹一等陸佐は、地元新聞に「創設百周年を迎えて」と題した一文を寄稿し、戦前久居に駐屯していた旧陸軍歩兵第33連隊を「日露戦争、支那事変に参戦し数々の戦果をあげ精強部隊として名をとどろかせた」「輝かしい歴史と伝統を後世に継承したい」と述べたという。
 危うくスルーしそうになったが、歩兵第33連隊といえば、日中戦争時に上海攻略戦や南京攻略戦に参戦した部隊である。笠原十九司『南京事件』(岩波書店、1997年)によれば、同連隊の「南京付近戦闘詳報」は1937年12月13日、揚子江上を逃げ惑う戦意を失った敗残兵に対し「前衛および速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す」と記している。
 無抵抗の敗残兵(実際は非戦闘員の難民を大量に含む)の一方的殺害のどこが「輝かしい歴史」なのか。そんな「伝統」を現在の自衛隊が引き継ぐなど言語道断だ。

 このニュースは「赤旗」以外では地元三重の報道だけで、全国向けには全く報道されていないようである。しかし、現在の自衛隊幹部の歴史意識を知る上で重要な事件である。帝国陸海軍の復活という時代錯誤を明確に批判する必要があるだろう。


《追記 2008/04/28》

 昨年は「57周年」となっていたと書きましたが、昨年は「開設55周年」と称していたという情報提供がありました。「57周年」というのは私の検索ミスだったようです。
 本文の「昨年までは警察予備隊発足から起算していて」を撤回し、「昨年は『57周年』となっていた」を「昨年は『55周年』となっていた」に訂正します。申し訳ありません。
 いずれにせよ昨年までは旧陸軍時代を加算していなかったことに変わりはなく、今年になって「100周年」と言いだしたのは唐突であることは確かです。

【関連リンク】
陸上自衛隊久居駐屯地創設100周年記念行事
陸自、銃携え街行進/『創設100周年記念』帝国陸軍を継承-しんぶん赤旗
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by mahounofuefuki | 2008-04-27 12:40

グリーンカード兵士から見える軍隊の変容~「国民軍」から「グローバル軍隊」へ

 フランス革命前夜のヴェルサイユ宮廷を舞台とする池田理代子さんの漫画『ベルサイユのばら』で、フランス王妃マリー・アントワネットの愛人として登場するハンス・アクセル・フォン・フェルゼンは「スウェーデン軽騎兵大佐」という肩書で、スウェーデンの軍事貴族だった。
 ヨーロッパの封建王権において軍隊の主力は外国人傭兵であり、それ故に市民革命は「封建体制VS近代民主主義」という対立軸と同時に「世界宗教(キリスト教)的・国際的王権VSナショナリズム」という構図を兼ねていた。『ベルばら』でもフランス人の部隊は王権から離反しバスティーユ蜂起に参加する一方、王権に最も忠実だったのは外国人傭兵だった様子が描かれている。

 この挿話は前近代から近代への軍隊の変容を示している。外国人傭兵が王権を守る封建軍隊から、自国民が国家を防衛する近代軍隊への変容である。そして近代軍隊の「理念型」は「国民皆兵」であり、兵役は「国民の権利」を保障する代償としての「国民の義務」と捉えられていた。
 もちろんあくまでも「理念」なので、実際はフランスでは「外人部隊」が現在に至るまで存在するし、イギリスは最も早く市民革命を経験したのに長らく均質な徴兵軍隊を実現できなかったように、現実とのギャップはあるのだが、近代国家の軍隊は「国民軍」であるというのが少なくとも建前上の大原則であった。
 *ちなみに日本でも普通選挙導入後に兵役と選挙権を交換関係とする考え方が出てくる。アジア・太平洋戦争末期まで植民地で徴兵を実施しなかった理由の1つに選挙権問題がある。

 近代国家を構成する最も重要な要素であった「国民軍」は現在新たな段階へ移行しつつある。特に唯一の超大国アメリカでそれは顕著である。
 アメリカは現在徴兵制を停止し、志願兵制を採っている。問題は志願兵に占める移民系住民の割合が急増していることだ。アメリカ軍にはアメリカ国籍や市民権がなくともグリーンカードと呼ばれる永住権があれば志願できる。しかも、ブッシュ政権がグリーンカード兵士の市民権取得を優遇する措置を実施した結果、市民権の欲しい移民による軍への志願が増大した。
 軍隊勤務と「国民の権利」が交換関係にあるという点で「国民軍」の基本構造は変わっていないが、その交換関係が移民と貧困層だけに課せられているという点が徴兵制時代と決定的に異なる。いわば黙っていても「アメリカ国民」になれる「一流国民」と、軍隊を志願しないと「アメリカ国民」になれない「二流国民」の厳然たる差別が存在するのである。これがヴェトナム戦争における兵役忌避を軸とした反戦運動の帰結と考えると皮肉な話である。

 横須賀で起きたタクシー運転手殺人事件で、神奈川県警に逮捕されたアメリカ海軍の兵士はナイジェリア国籍のグリーンカード兵士だった。現在海軍の兵員の3分の1近くが彼らのようなアメリカ国籍を持たない人々だと言われている。今やアメリカ軍は「国民軍」ではなく、多国籍の兵員から成る「グローバル軍隊」と言っても過言ではない。
 この「グローバル軍隊」はアメリカの支配層にとって非常に「おいしい」システムである。巨大資本は搾取と収奪によって世界的に貧困を作り出し、貧者を軍隊に送り込む。その貧者の軍隊を巨大資本の利権拡大のための戦争に動員する。兵士がいくら死のうが痛くも痒くもない。しかも貧者は「自発的」に「喜んで」軍を志願してくれる。まさに新自由主義時代の軍隊の姿である。
 逮捕されたナイジェリア人兵士が本当に事件の犯人なのか、彼が脱走した原因は何なのか現時点では何とも言えないが、少なくとも彼もまたグローバリズムの犠牲者であることは確かだ。市民権目当てで軍に入隊したはいいが、厳しい仕事と暴力的な環境に苦痛を感じていたかもしれない。

 「傭兵軍」→「国民軍」→「グローバル軍隊」と変遷してはいるが、軍隊が「公認された殺人集団」であるという1点は不変である。またそこには「戦争のプロ」と「一般民衆」、「国民」と「非国民」、「貧しい人」と「豊かな人」という差別が必ず存在する。アメリカのグリーンカード兵士問題から見えてくるのは、どのような形態であっても軍隊は非人間的な存在であるという厳然たる事実である。
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by mahounofuefuki | 2008-04-04 19:57

「日の丸」「君が代」は格好悪い

 私は実に幸運なことに幼稚園、小学校、中学校、高校、大学のいずれにおいても入学式や卒業式で「日の丸」への拝礼や「君が代」の斉唱を強要されることがなかった。
 私が中学生くらいまではまだ教職員組合に一定の力があり、「上」からの締め付けも今ほどではなかった。高校の時には地元の公立校のほとんどが「日の丸」を掲揚し、「君が代」を演奏するようになっていたが、私が通っていた学校では校長が教育委員会の圧力に抗して「日の丸」を式場に掲揚せず、「君が代」も演奏させなかった(校長はキリスト教徒だったらしい)。大学は私立で校旗や校歌の方を重んじ国旗や国歌を歯牙にもかけない校風だったし、社会人になってからも「日の丸」「君が代」と全く無縁である。
 そんな私からすると、重要な公的行事で「日の丸」が掲揚されたり、「君が代」を起立して斉唱する光景は非常に奇異に映り、まるで朝鮮のマスゲームで「金正日将軍万歳」と歌っているのと大差ないように感じる。1999年の国旗・国歌法施行後、「日の丸」「君が代」の強制はどんどん進んでいるが、一般の人々は本当に「日の丸」「君が代」に疑問を持っていないのだろうか。

 共同通信(2008/03/31 19:33)によると、東京都教育委員会は今年の公立校の卒業式で「君が代」斉唱時に起立しなかったなどの理由で、教員20人をそれぞれ停職・減給・戒告に処した。この中には5回目の処分となる南大沢学園養護学校の根津公子教諭も含まれる。根津さんは昨年に続き停職6か月という重い処分だが、懲戒免職も取り沙汰されていただけに、彼女への熱心な支援活動が都教委にプレッシャーを与えたと言えよう。
 ただ、こうした処分が毎回重なることで、生活を賭けてまで抵抗することができない人々との分断が進むのも事実で、根津さんの存在自体がいわば見せしめとして同調圧力の道具になるという一面は否定できない。多くの人々は「日の丸」「君が代」の来歴を学ぶ機会もなく、何だかよくわからないけどトラブルは面倒なのでとりあえず歌っておこう、という消極的な理由で「君が代」を歌っていると思われるが、この「何だかよくわからないけど」ということこそ「国家の奴隷」の第1歩であり、どんな理不尽な命令にも唯々諾々と従う前提となる。

 「日の丸」も「君が代」も古来存在したわけではない。日本の伝統どころか、むしろその歴史はかなり浅い。
 「日の丸」が国旗として法制化されたのは、1870年の郵船商船規則(太政官布告57号)と海軍御旗章国旗章並諸旗章(太政官布告651号)が初例で、しかも前者は寸法が縦横比7:10で旗面の丸が竿側に少し寄っていて、後者は寸法が縦横比2:3で旗面の丸が中央にあるという違いがあり、その後長らく両者が併存した。これが統一するのは何と1930年まで下り、文部次官の照会に対する内閣書記官長(現在の内閣官房長官に相当)の回答は前者の太政官布告57号を妥当とした。
 ところが、1999年の国旗・国歌法では太政官布告57号の廃止を明記し、寸法と赤丸の位置は651号の方を採用している。この事実が意味するところは、「日の丸」を明治以来一貫した国旗だと考えている向きには悪いが、「日の丸」はその基本デザインからして一定せず、非常にあやふやな代物だということである。この問題はほとんど取り上げられることはないが、特に赤丸の位置の相違はそれぞれ思想的根拠も異なり、本来簡単には決定できないはずである。

 一方、「君が代」は当初イギリス人の曲を用いていた。また1882年刊行の『小学唱歌集』の「君が代」はやはりイギリスの古い民謡が原曲で、これは1900年頃まで歌われていた。日本の国歌であるはずの「君が代」の出発点は外国人の作曲だったのである。
 現行の「君が代」は1880年に宮内省雅楽課の林広守が作曲した(とされる)ものだが、これも長い間、調性やテンポやブレスが一定していない。1891年文部省学務局長が通知した「祝祭日用歌詞及楽譜」ではハ調と定めていたが、その後も実際の歌唱では歌い手によってバラバラであった。「君が代」のスコアが最終的に確定するのは、これまた1936年まで下り、『文部省撰定 祝祭日儀式用唱歌』でようやく現行の楽譜になった。

 以上のように「日の丸」も「君が代」も本格的に国旗・国歌として確立するのは15年戦争期になってからで、日本の伝統でも何でもないのである。また歴史が浅いだけに両者とも侵略戦争と密接な関係にある。国際的には依然として「日の丸」はドイツ・ナチスの「鉤十字旗」と同類の専制イメージを持つ人も少なくない。
 実際、「日の丸」の赤丸は日本や天皇を象徴し、日本や天皇が世界の中心であるという思想を表しているとされる。「君が代」の歌詞はどう読んでも「天皇の支配の永続」を願っていると解釈するほかない。戦争と専制に彩られた「日の丸」「君が代」が民主国家のシンボルとして相応しいだろうか。

 「日の丸」「君が代」については戦後長らく、国旗・国歌を利用した民衆の奴隷化を目論むパワーエリートや頭の悪い右翼を除いて、「正直ダサい」というイメージが潜在していた。「日の丸」の白地に赤丸という単純なデザインはともかく、「君が代」のあの沈鬱なメロディはあまり受け入れられているとは言えなかった。
 ところが、今や「ダサい」と言うのも憚れる世の中になってしまった。権力による強制で若い世代ほど「日の丸」「君が代」に疑問を持たなくなっている。プロ野球やプロサッカーの試合の度に「君が代」は演奏されるが、最近はすっかり起立して斉唱しなければならない雰囲気が醸成されてしまっている。私は今でも「『君が代』なんてカッコ悪い歌なんか歌えねーよ」と放言しているが、顔をしかめられることが多くなった。

 「日の丸」「君が代」の強制は、中華人民共和国がチベットなどで五星紅旗を押し付けているのと全く同じだということに気づかなければならない。私は日本が多種多様な文化の共存する国であって欲しいからこそ、「日の丸」「君が代」を踏み絵のように使うことに抵抗する。

*本稿執筆にあたり、籠谷次郎「日の丸・君が代」(原武史、吉田裕編『岩波 天皇・皇室辞典』岩波書店、2005年)を参照した。ただし、文責が当ブログ管理人にあることは言うまでもない。

【関連リンク】
国旗及び国歌に関する法律-法令データ提供システム
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by mahounofuefuki | 2008-03-31 22:53

「大江・岩波裁判」1審判決~史実の勝利

 大江健三郎『沖縄ノート』(岩波書店、1970年)及び家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)の沖縄戦「集団自決」に関する記述が、沖縄戦下で座間味島の戦隊長だった梅沢裕氏と渡嘉敷島の戦隊長だった故・赤松嘉次氏の名誉を棄損したとして、梅沢氏本人と赤松氏の弟が大江氏と岩波書店に慰謝料支払いと出版差し止めを訴えていた訴訟(いわゆる「大江・岩波裁判」)で、大阪地裁は原告の請求を棄却する判決を下した。
 この訴訟はそもそも沖縄戦下での「集団自決」を軍が強制したという事実を隠蔽したい勢力が唆して起こしたと言っても過言ではなく、原告側の主張は史料の裏付けがない非学問的なもので、裁判官に先入観がない限り、今回の判決は当然の結果と言えよう。文部科学省は先の教科書検定で、この訴訟の原告側主張を根拠に教科書から「軍の強制」の記述を削除させたが、司法は検定の根拠を全面否定したのである。

 判決で重要な要点は次の通り。

①梅沢・赤松による「集団自決」命令説は、援護法の適用を受けるための捏造であるという原告側主張を、援護法の適用が意識される以前から、アメリカ軍の「慶良間列島作戦報告書」や沖縄タイムス社編『鉄の暴風』(朝日新聞、1950年)のような軍命令の証言を示す資料が存在したこと、原告側の証言が合理性を欠くことなどを理由に退けた。

②手榴弾が交付されたこと、住民らがスパイ容疑で処刑されたこと、日本軍が駐屯していなかった地域では「集団自決」が発生しなかったことなどを理由に、「集団自決」に日本軍が深く関与したことを認定し、座間味・渡嘉敷それぞれで梅沢・赤松を頂点とする上意下達の組織があり、彼らが「自決」に関与したことを「推認」した。「自決命令」それ自体の認定は回避した。

③「集団自決」に関する学説の状況、根拠となる文献の存在と信用性の判断、著者の取材状況などから、問題の記述には「合理的資料もしくは根拠がある」と評価し、家永・大江が軍の強制を「真実」であると信じる「相当な理由」があったことを認め、梅沢・赤松への名誉棄損は成立しないと断じた。大江の赤松(書中では匿名)批判についても「意見ないし論評の域を逸脱し」ていないとした。

 細部に関して慎重だが、それだけに理路整然とした内容で、現在の通説ともほぼ合致する。軍による住民の処刑、「集団自決」の強制を事実として認め、原告の根拠なき主張をすべて退けた以上、大江・岩波側の全面勝訴と言っていいだろう。史実を隠蔽しようとする動きに一定の掣肘を与えたと評価したい。
 原告は控訴するのが確実なので、訴訟はまだ続くだろうが、控訴審で今回の判決から後退することのないよう陰ながら応援したい。

 なお原告側主張の元となっている作家の曽野綾子氏の言説のお粗末さについては、最近文芸評論家の山崎行太郎氏が精力的に丁寧な批判を行っている。山崎氏は保守派と目されているが、「集団自決」の争点は価値判断の前提となる事実認識であり、それには右も左もなく、彼が曽野氏を批判するのは真っ当である。今さら当ブログごとき弱小ブログが紹介するのも気が引けるが、念のためリンクしておく。
 文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』

【関連リンク】
「大江・岩波裁判」大江氏側全面勝訴の判決-JanJan
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沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会|大江・岩波沖縄戦裁判 原告棄却 隊長関与推認できる!
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by mahounofuefuki | 2008-03-28 21:06

「3月1日」の忘却

 人間の記憶のキャパシティには限界があるので、たくさんのことに関心を持続することは難しいし、忘却してしまうことも多々ある。次々と新しいニュースが登場することで、「古い」ニュースは書き換えられ、私たちの脳裏から消えていく。「ロス疑惑」の話が唐突に出てきた時に、在日米軍基地問題やイージス艦の事件が霧散してしまうのではないかという危惧を抱いた人々が少なくなかったが、そうした危惧を抱くのは、人間が複数のニュースに強い関心を寄せることが難しい事実を知っているからである。

 たかだか数週間前の出来事でさえそうなのだから、本当に「古い」出来事ならばなおさらである。
 私は今朝新聞を読むまで、昨日3月1日が3・1独立運動の記念日であったこと、さらにビキニ環礁で第五福竜丸が被爆した日(ビキニデー)であったことをすっかり失念していた。知識として問われればいつでも答えることができる事柄でも、普段は記憶の片隅に追いやられていることを改めて自覚し、戦慄を覚えた。
 念のため説明すると「3・1独立運動」とは、1919年3月1日に、日本統治下の朝鮮で朝鮮民族代表による独立宣言が発せられたのを機に、朝鮮半島全土に広がった独立運動で、日本帝国主義の植民地支配に対する韓国・朝鮮の抵抗の出発点となった運動である。もう一方の「ビキニデー」とは、1954年3月1日に、アメリカがマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験により、日本の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が危険指定区域外で操業していたにもかかわらず被爆したことから名付けられ、この事件を機に原水爆禁止運動が本格的に始まった。

 いずれも単なる「過去の話」ではなく、すこぶる現代的な課題とリンクしている。3・1独立運動はいまだ日本に根深い韓国・朝鮮に対する侮蔑意識と排外思想の克服を問うているし、ビキニ被爆事件は今も続く核兵器の恐怖とアメリカ国家の「無法と横暴」を示している。決して忘却できない出来事である。
 3月1日は韓国・朝鮮では祝日で、国家的行事も催されるが、日本では全く軽視されている。それは今も多くの日本人が植民地主義的思考に拘束されていることを意味する。日本軍の武力弾圧により殺された3・1独立運動の死者を日本人が公的に追悼しない限り、「帝国日本」を克服することはできないだろう。
 また、ビキニデーは日本にとって広島、長崎に続く3度目の被爆経験である。それにもかかわらず、日本国家は事件当時からアメリカに賠償を求めることもせず、わずかな慰謝料だけで強引に幕引きを図った。「軍」が「民」を押しつぶした典型的事件であり、最近の在日米軍による犯罪や米軍再編に伴う騒音被害、またイージス艦の事件にも通じる。

 忘却を反省しつつ、1日遅れではあるが「3月1日」の意味を熟慮したい。過去を現在に生かすことにこそ歴史を学ぶ意味がある。
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by mahounofuefuki | 2008-03-02 13:42

ナショナリストが在日米軍に期待するもの

 日米安全保障条約をサンフランシスコ講和条約と抱き合わせで締結した当時、日本の政治家や官僚や資本家たちは、本心ではアメリカ軍が日本領土内に一方的に駐留を続けることを屈辱と感じ、日米安保体制をあくまでも将来の大日本帝国復活のための「臥薪嘗胆」と考えていたはずだ。
 なにしろ日本では敗戦を挟んで指導者が交代したわけではなく、「大東亜共栄圏」を唱え、「鬼畜米英」と呼号した連中が戦後すぐに国家中枢に復帰した。自己と国家を同一化し、自己肥大幻想を国家の膨張主義に「昇華」させる彼らが、在日米軍という「異物」を自らの体内に抱えることは矛盾以外のなにものでもない。

 そんな彼らがどうやって日米安保体制を自分自身に納得させたかというと、「共産主義」の「脅威」から日本を「守る」ためにはアメリカの力が必要だという論理を受け入れることであった。
 ソ連が消滅し、中国が今や新自由主義顔負けの競争社会になってしまった現在では想像しにくいが、1960年ごろまで「共産革命」は現実に「明日にもありうる」事態であり、明治・大正生まれの人々にはロシア革命の記憶はいまだ鮮明だっただけに、そうした論理は受容されやすかった。実際は講和交渉の過程を見れば、無期限・無制限に日本列島のどこにでも軍事基地を設置できる特権を離したくないアメリカに強引に押し切られたというのが真相だが、条文上ではあくまでも日本側が米軍の駐留を「希望」したという体裁で隠された。

 西園寺公望や牧野伸顕ら戦前の親英米路線を引き継ぐ吉田茂とその一党のように、日米安保体制を国際安全保障体制の延長ないしは代替のシステムとして理解した人々も多かったが(そして今もそれが主流)、一方で在日米軍を撤退させて完全な「自主防衛」の実現を目標とする人々も少なくなかったはずだ。
 たとえば日本がアメリカのために再軍備を進め、集団的自衛権を行使する代わりに、在日米軍に撤退してもらうという構想は、鳩山一郎内閣の外務大臣だった重光葵が1955年にアメリカ側へ提起したことがある。この時、ほかでもない昭和天皇が在日米軍の撤退に反対した。重光の日記に記された「日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」という昭和天皇の言葉を読んだ時、背筋が凍った記憶がある(象徴天皇制のもとでも戦前同様国政への介入を続けていたことにも驚かされた)。昭和天皇は確かに「革命」を恐れていたのだ。彼は日本の「国民」を微塵も信用していなかった。だから在日米軍に「国体」を守ってもらおうとしていたのだ。重光と昭和天皇、どちらの路線が生き残ったかは言うまでもない。

 その後、1960年の安保改定(この時はじめてアメリカの日本防衛義務が盛り込まれた。それまでは名実ともにアメリカは「義務なき特権」をもっていた)を経て、日本外交は「とりあえずアメリカに従っておけば間違いはない」という思考停止が常態化した。1950年代には集団的自衛権を行使する代わりに在日米軍を撤退させるという思考がパワーエリートにあったが、21世紀の今日では何の国家的な「見返り」もなく集団的自衛権の行使を推し進め、自衛隊とアメリカ軍の一体化を平然と容認する。
 それはこの50年ほどの間に米軍が日本駐留を続けることでの受益層が形成されたことを意味するが(昨年発覚した防衛省汚職でその一端は明らかになった)、「愛国」を自任する右翼ナショナリストの主流はなぜかそんな層を「売国奴」と攻撃しない。右翼ナショナリストは逆に日本社会では今やマイノリティである左翼を攻撃し、かつてのソ連の「爪の垢」ほどの力しかもたない「北朝鮮」に怯え、米軍基地に反対する動きを誹謗中傷する。アメリカに対峙する勇気のないとんだチキンぶりだ。米軍基地の存在を許容している者のどこが「愛国者」なのだ?

 今回の沖縄での忌まわしい事件に対する右翼メディアやその追随者たちの反応を見ると、ある意味で日本の近代ナショナリズムは終焉したのだという感慨をもたざるをえない。事件に心から怒っているのは、どう見てもナショナリストとは呼べない人々ばかりだ。元来ナショナリズムは「異人」に「邦人」が傷つけられた時にこそ噴出するノルマントン号事件以来それは一貫していた。まかり間違っても「暴行事件は基地反対派のハニートラップ」などという被害妄想的な発想は出て来なかった。
 沖縄という不当にも「内国植民地」として扱われた地域の事件だから、というわけではあるまい。「本土」で同様の事件があっても同じ反応だろう。自称「愛国者」たちは昭和天皇と同様、自国の民衆を「同胞」とは考えず、自らの妄想で過大評価している「狡猾な左翼」という仮想敵からアメリカ軍に守ってもらうことを期待しているのだ。そうでなければ、航空自衛隊の航空総隊司令部が横田の米軍基地に移転するという前代未聞の主権放棄行動をも支持するのは説明がつかない。

 人類に「異人」と「邦人」という線引きをするのがナショナリズムならば、現在のナショナリストにとってアメリカ軍人こそが「邦人」で、もはや日本の一般庶民は「異人」でしかないのだろう。一見矛盾するグローバリズムとナショナリズムの親和性を解くカギはこの点にあるのかもしれない。
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by mahounofuefuki | 2008-02-17 11:13

「建国記念の日」について

 今日2月11日は「建国記念の日」である。
 なぜこの日が祝日なのか、どういう起源をもっているのか、どういう過程で祝日になったのか、今やほとんどの人々が何も知らずに、単なる休日としか理解していないだろう。かく言う私もこれが戦前の「紀元節」を復活させたものということは知っているが、そもそも「紀元節」がいつどのように制定されたか、大学の講義で学習したはずなのに、すっかり忘れてしまったので、この機会に手元にある資料で調べてみた。

 「紀元節」の歴史はそう古くはない。他の祝祭日と同様、明治維新後に制定されたものである。
 宮中行事の「神仏分離」により、1871年10月29日に四時祭典定則が制定され、その中で記紀(「古事記」「日本書紀」)神話において初代天皇として創作された「神武天皇」を記念する日として、3月11日が「神武天皇祭」と定められたが、この時点ではまだ「紀元節」はなかった。

 次いで1872年11月15日に政府は太政官布告で、「神武天皇」の「即位」(「日本書紀」が記す「辛酉春正月庚申朔」)を紀元とする「皇紀」を定め、翌年の太陽暦施行に合わせて、旧暦(天保暦)の1月1日に相当する1月29日を「神武天皇」の「即位」記念の祝日とした。1873年3月の布告で、1月29日の祝日は「紀元節」と名付けられた。
 しかし、同年10月に太政官が布告した「年中祭日祝日等の休暇日」では「紀元節」は2月11日に変更されていた(「神武天皇祭」は4月3日に変更)。2月11日になったのは「神武天皇」在位当時の中国の暦を用いて算出した結果とされたが、暦の調査を担当した太政官地誌課長の塚本明毅は後に『三正綜覧』(1880年)の中で、孝元天皇紀9年(前206年)以前は対照する暦がなかったことを認めており、「2月11日」には全く根拠がなかった。
 政府は「紀元節」を重視し、大日本帝国憲法(明治憲法)も1889年2月11日の「紀元節」に発布した。その後1891年「小学校祝日大祭日儀式規程」の制定により、「紀元節」をはじめとする天皇関係の祝祭日には、小学校で「御真影」(天皇・皇后の肖像)への「拝礼」、「教育勅語」の「奉読」、唱歌の合唱などの儀式を行うよう定められ、次第に社会へ定着していった。

 「紀元節」は第2次世界大戦後、1948年の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)の制定により廃止されたが、右翼・保守勢力はその復活を終始望み、1957年以降、2月11日を「建国記念の日」とする祝日法改正案が何度か議員立法で国会に上程された。これは成立しなかったが、1966年、内閣提出の改正法案が野党の反対を押し切って成立してしまった。祝日法では通常「国民の祝日」の日付を明記するが、「建国記念の日」は「政令で定める日」と記され、法は日付を決めていない。政府がそんな異例の離れ業を使うほど、当時「紀元節」復活への良心的抵抗が激しかったのである。
 結局、政府お手盛りの「建国記念日審議会」の答申に従い、「建国記念の日となる日を定める政令」が発せられ、翌1967年より2月11日が祝日「建国記念の日」となったのである。

 以上の経過を見ればわかるように、「建国記念の日」及び前身の「紀元節」には何ら歴史的根拠がなく、近代国家が国家統合の手段とするために、古代の「神話」を曲解して「神武天皇」の「即位」日を捏造したのである。最近はこうした事実を語ること自体を「イデオロギー」的と敬遠する向きが強いが、むしろこんな反科学的な祝日を容認することこそ特定の「イデオロギー」に毒されていることをあえて強調したい。

*本稿を書くにあたり、村上重良『国家神道』(岩波書店、1970年)、朝尾直弘ほか編『角川新版日本史辞典』(角川書店、1996年)、高木博志「祝祭日」(原武史、吉田裕編『岩波 天皇・皇室辞典』岩波書店、2005年)等を参照した。ただし文責は言うまでもなく当ブログ管理人にある。

【関連リンク】
国民の祝日に関する法律-法庫
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by mahounofuefuki | 2008-02-11 17:54

教科書調査官の系譜~「さるのつぶやき」より

 今年度発行の高校用日本史教科書の検定で、沖縄戦での住民「集団自決」に対する「軍の強制」の記述を文部科学省が改変させた問題は、周知の通り、昨年末の教科用図書検定調査審議会が「軍の関与」の記述の復活は認めたものの、「軍の強制」の記述を結局認めずに、教科書が発行される結果に終わった。
 その後も沖縄の人々を中心にあくまでも審議会の検定意見撤回を求める動きが続いているが、一方で自民党沖縄県連が沖縄県民大会実行委員会の解散を提起するなど、昨年中は曲がりなりにも超党派でまとまっていた運動は綻びが出てきている。正直、保守派の離反は当初から予想していたので驚きはないが、こうした分断が教科書問題を結局うやむやにしてしまうと思うと非常に憂鬱である。

 ところで、教科書検定において決定的な役割を果たしているのが文部科学省の常勤職員である教科書調査官であることは、昨年の当ブログで何度も指摘してきたが、1月20日付の「しんぶん赤旗 日曜版」が戦後の教科書調査官の人事変遷について報じている。「赤旗」の日曜版は電子版には載らないが、さるのつぶやきさんが当該記事転載している。
 さるのつぶやき:教科書調査官、縁故採用の系譜━平泉澄→村尾次郎→時野谷滋→(伊藤隆→)照沼康孝・村瀬信一(・福地惇)
 詳細はぜひ「さるのつぶやき」さんの記事(過去の「赤旗」の教科書関連の記事を紹介したエントリもリンクされている)を読んでもらいたいが、教科書調査官の系譜をたどると戦前「皇国史観」を主唱した平泉澄に行き着くところに、戦後一貫した人事の偏向は明らかである。問題は「調査官は文科省専任職員=国家公務員なのに採用試験がなく、選考基準を文科省は明らかにしていません」というところで、そんな不透明な選考で任命された人物が教科書内容の決定権を事実上握っているのは「民主主義国家」にあるまじき事態である。

 教科書調査官については、昨年当ブログの記事のコピペがあちこちに出回ってしまったが、子どもと教科書全国ネット21事務局長の俵義文氏が、戦後の検定制度の歴史も踏まえてより正確なレポートを公表しているので、リンクしておく。
 俵のホームページより
  教科書調査官とは何か*PDF
  社会科主任教科書調査官はなぜ解任されたか*PDF
 また、現在の教科書調査官と教科用図書検定調査審議会委員については、昨年10月24日の衆議院文部科学委員会で共産党の石井郁子氏が質疑を行っている。
 第168回国会 文部科学委員会 第2号
 教科書調査官の人選の公正化と透明化については、社会科教科書執筆者懇談会が昨年末の声明で要求している。
 沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会|訂正申請の結果についての社会科教科書執筆者懇談会の声明

【関連記事】
教科書改竄の「黒幕」
教科書検定の徹底検証を
沖縄戦の「集団自決」に関する教科書検定問題の資料
教科書検定に関する石井郁子議員の質問
文部科学省はまだ「軍の強制」を弱めようとしている~「集団自決」教科書検定は訂正再申請へ
文部科学省は「軍の強制」否定に固執した~「集団自決」検定問題は終局へ
文部科学省はやはり「軍の強制」を認めなかった~「追いこまれた」と「強いられた」の差
教科用図書検定調査審議会が聴取した「専門家」の意見について

【関連リンク】(2008/01/22追記)
高等学校日本史教科書に関する訂正申請について(沖縄戦関係)-文部科学省
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by mahounofuefuki | 2008-01-21 16:51