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文部科学省の教科書検定「改善」案について

 昨年の今頃は、文部科学省が高校用日本史教科書の検定で、沖縄戦の「集団自決」における軍の強制を隠蔽する修正を行ったことが大問題となっていた。検定意見の撤回を求める声は残念ながら届かず、記述の回復も一部しか実現できなかったが、一連の過程で教科書検定制度が孕む諸問題が多くの人々に可視化された意義はあった。

 この「集団自決」問題を機に、文部科学省は検定過程の見直しを検討していたが、昨日の教科用図書検定調査審議会(検定審)の作業部会で「改善」案が決定したようである。その概要が報道されている。

 時事通信出版局|最新の教育ニュース:教科書検定、議事公開へ=検定調査審議会(2008/12/04 20:10)*web魚拓
 http://s01.megalodon.jp/2008-1205-2005-57/book.jiji.com/kyouin/cgi-bin/edu.cgi?20081204-6
「事後公開するとしたのは▽教科別の部会や小委員会の決定事項、審議内容を記載した議事概要▽部会、小委ごとの所属委員名▽出版社に通知する検定意見書の原案として教科書調査官が作成する調査意見書-など。
 検定過程で専門性の高い記述や学説が分かれる部分について判断する場合には、部会、小委が追加で専門委員を任命したり、外部から意見を求めたりできるようにし、審査自体の運用改善も図る」

 一応「改善」と評価できるのは、検定終了後とはいえ、従来全く非公開だった教科書調査官による調査意見書の公表を明示したことであろう。検定申請された教科書に対する文部科学省の意見は、表向きは検定審が決定することになっているが、審議会は形骸化しており、常勤の教科書調査官の意見が事実上左右している。検定過程を第三者が検証するためにも、その公開は絶対に必要であった。また、昨年の訂正申請の際に実施した外部の専門家からの意見聴取を制度化するのも、実施基準に疑問は残るが一定の評価はできよう。

 しかし、それ以外の「改善」案はあまり意味があるとは言い難い。こう言っては何だが、議事の公開が検定中だろうと検定後だろうと、検定審自体が調査官の意見書を追認するだけで形骸化したままでは、何度でも昨年のような不当検定が起こり得る。審議会委員や教科書調査官の詳細な人事情報公開も、従来から「わかる人にはわかる」状態で、肝心の人選・採用の透明化・公正化の具体案を欠いているのは問題である。

 さらに、「改悪」を疑わざるをえない話も報じられている。

 沖縄タイムス:検定透明化 程遠く/教科書審査改善案/途中の情報規制は強化(2008/12/05朝刊)*web魚拓
 http://s04.megalodon.jp/2008-1205-2007-01/www.okinawatimes.co.jp/news/2008-12-05-M_1-031-1_001.html
「検定の途中で審査内容が申請者以外に漏れた場合、審議停止できる」
「文科省幹部は『どういう経緯であれ、情報が出たら何らかの措置を取らないといけない。静かな環境ではなくなるわけだから』と今回の見直し作業で、情報規制が重点の一つだったことを認めた」

 「情報規制」「審議停止」というのは物騒な話である。昨年の訂正申請の時に、一部の教科書執筆者や意見聴取を受けた専門家が、検定に関する情報を一般に公開したようなことを予防するための策としか思えない。これは主権者の「知る権利」を侵害し、検定の「密室化」を促進するものと言えよう。「審議停止」は申請教科書が検定を通過できないことを意味するから、いわば教科書会社に対するペナルティであり、文部科学省の統制強化策以外のなにものでもない。

 教科書検定制度の大義名分は教科書記述の学問的合理性と客観性の担保にあったが、昨年の事件はそれが機能していないことを白日の下に曝した。私見では政府機関による教科書検定制度は廃止し、教科書発行者の責任を明確にした上で、教科書の採択の段階で何らかの方法により専門家や教員が関与できるようにするよう改めるべきだと考える。家永教科書訴訟が終結して以来、すっかり検定制度の改廃自体は問題になっていないが、関係者には改めて検定制度の廃止を検討して欲しい。

【関連記事】
教科書改竄の「黒幕」
教科書調査官の系譜~「さるのつぶやき」より

【関連リンク】
教科書検定の手続等 - 文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/gaiyou/04060901/005.htm#z02
高等学校日本史教科書に関する訂正申請について(沖縄戦関係) - 文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106.htm
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by mahounofuefuki | 2008-12-05 20:23

橋下徹における「組合嫌い」と「体罰好き」の相克

 橋下徹という人は次から次へとエキセントリックな行動を繰り返しては衆目を集め、そのたびに自らを「世間の敵」や「空気の読めないやつ」と戦う「フツー目線」の代弁者を気取って人気を獲得しているのだが、またしても彼にとって格好の舞台があったようである。以下、読売新聞(2008/10/27 00:33)より。
 大阪府の橋下徹知事と府教育委員らが教育行政について一般参加者と意見を交わす「大阪の教育を考える府民討論会」が26日、堺市の府立大学で開かれた。

 訪れた教職員の一部から再三ヤジを飛ばされて興奮した知事が「こういう教員が現場で暴れている」「(日教組批判などで国土交通相を辞任した)中山成彬前大臣の発言はまさに正しい。これが教育現場の本質」と述べる一幕があった。

 また、子どもの指導方法についても言及した知事は、「ちょっとしかって、頭をゴッツンしようものなら、やれ体罰と叫んでくる。これでは先生は教育が出来ない。口で言ってわからないものは、手を出さないとしょうがない」と、体罰容認とも受け取れる持論を展開した。

 橋下氏の主張に従えば、要するに組合教師はダメで、体罰を行う教師はよいということになる。

 私は小学生の時に日教組の教師に体罰を受けたことがあるんだけど。

 ・・・と不快な記憶が蘇るが、「毅然と」体罰を行う教師が組合員の場合も多々あるわけで、その場合橋下氏はどう応えるのだろうか。「組合嫌い」を重んじて体罰を批判するのか、「体罰好き」を重んじて組合を支持するのか、聞いてみたいところだ。

 世間的には教職員組合=左翼=民主的=「子ども」中心と誤解されているが、元来左翼の教育論は「教師の指導性」と「子どもの平等」を何よりも重視する。子どもは学校教育を受けない状態では悪しき資本主義社会のイデオロギーの影響下にあり、それを正しく矯正するのが教師の役目というわけである。実際、私が大学で教職課程をとっていた時、講師で来ていた全教(日教組の連合加盟に伴い分裂した組合、共産党系の人が多い)所属の教師は、基礎的知識はすべての子どもに教え込まなければならないと力説していた。また、教職員組合で熱心に活動していた教師がしばしば生徒を懲罰として殴っていた例も見ている。ある意味「教師の指導性」重視の当然の帰結である。

 一方、これに対して文部科学省は1980年代頃から「教師の指導性」を軽視するようになり、「子どもの平等」を否定した「新しい学力観」が幅を利かせていた時期には、教師を子どもの「指導者」ではなく「支援者」と位置づけていた。よく「ゆとり教育」と俗称された時代の学校教育の特徴は、学習内容の削減もさることながら、何よりも子どもの「個性」や「意欲」を重視し、教師は子どもの本来の属性を引き出すのが仕事であるとされたことにある。極端な話、子どもが問題を起こしても、それは「個性」であって矯正されるべきでないとなってしまったのである。そして、当然の結果として教師の地位は低下した。教職員組合は当初から教師の指導性を奪う「改革」に抵抗していたのは言うまでもない。

 以上のような経過を知っていれば、橋下氏やその背後に控える「世間」が求める、問題のある子どもを時には力でもって押さえつけ、「モンスターペアレント」の介入も跳ね返すような「強い教師」像は、実は左翼系の教職員組合のもので、文部科学省やその背後にいる中山成彬氏ら「文教族」こそが「組合つぶし」を通して教師を弱体化させたことは自明なのである。橋下氏がいかに思い込みだけで矛盾した行動をとっているか明らかだろう。

 正直なところ学校教育に関しては橋下氏に限らず「外野」が口を出し過ぎなのが現状である(素人ばかり集めた安倍内閣の教育再生会議がその典型)。政府も教師の立場を弱める政策ばかり続けている。そうではなく、医療の世界で医師免許のない者が医療行為を行えないように、教育の世界でも教師や教育学者の専門性と独立性を回復し、教育内容や教育方法については専門家に委ねることが、学校教育再建の唯一の道だと思う。

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「日本のがん」中山成彬が勝手に「ぶっ壊れる」
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by mahounofuefuki | 2008-10-27 20:22

「日本のがん」中山成彬が勝手に「ぶっ壊れる」

 就任以来、無知と思い込みによる恥知らずな暴言を繰り返していた中山成彬国土交通大臣が辞任するようだ。第一報が産経新聞とフジテレビというのが「いかにも」で、要するに中山氏と産経系メディアとの日常からの親交(癒着?)を如実に示していると言えよう。こんな輩を任命した麻生首相の責任は極めて重大である。

 この問題については、発言内容が虚偽のオンパレードであること、いかに彼の「本音」とはいえ、新内閣発足直後にわざわざ挑発的言辞を弄する政治センスの欠如に、あきれてものも言えなかった。詳細な分析はできれば後日改めて行いたいが、当面指摘しておきたいのは、彼が最後まで撤回しなかった日教組への中傷は、そのまま文教族の有力議員で元文部科学大臣である中山氏に跳ね返ってくる、ということである。

 中山氏は「学力の低下」の原因を何の根拠もなく日教組に転嫁しているが、実際には「学力の低下」が言われるようになったきっかけは、1989年の文部省学習指導要領で指導要録(学校の学籍と指導の記録原簿)に観点別評価が導入され、「知識」や「理解」よりも、「関心」や「態度」や「意欲」を重く評価するようになったのが始まりで、これを「新しい学力観」と称して推進したのは文部省の方であって、教職員組合は反対していたのである。つまり「学力の低下」なるものに「主犯」がいるとすれば、それは文部省とそれを支持した自民党文教族であり(保守派の彼らは「新学力観」を通して「できる子」と「できない子」を選別することを狙っていた)、中山氏もその1人であった。

 中山氏は日教組を「教育のがん」と言い放ったが、私に言わせれば、中山氏のような右翼政治家こそ「日本のがん」である。これまでも数々の歴史改竄発言で知性の欠如を曝け出し、今また意識的かどうかは別として日教組を「安心して攻撃できる悪」として大衆に供し、ポピュリズムを扇動した罪は万死に値する。今回の件で私が警戒したのは、中山氏が居座り「ウヨホイホイ」の役割を演じて、総選挙を前に「『左』を忌避するポピュリズム」を強化することであったが、辞任に追い込まれたことで、辛うじて日本社会にわずかに残る良識の力が発揮されたと言えよう。

 「日教組をぶっ壊す」と言っていた「日本のがん」が勝手に一人で「ぶっ壊れた」。こんな輩を議員に選出している宮崎1区の有権者は徹底して反省するべきである。
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by mahounofuefuki | 2008-09-27 22:50

「教育委員会=関東軍」という「釣り」

 弊ブログでは大阪府知事選以降、あまり橋下徹に言及していないが、それはいくら批判しようと、批判自体が橋下のある種の「釣り」に乗せられた形になってしまい、実際「反橋下」の抵抗が強ければ強いほど橋下信者を結束させ、「敵」と闘う橋下のカリスマ性が強化されるという悪循環にはまってしまうからである。

 橋下のやり口は力量のない芸人みたいなもので、瞬発芸のようなエキセントリックな言動で衆目を集めては、大衆に潜在する「良識」や「弱さ」や「優しさ」に対するアンチ思考(過酷な環境にいる人ほど、そうした環境を変えようとする勇気のない臆病をごまかすために、「過酷でない」ものを攻撃する)を引き出し、そのエネルギーを政治力の源泉にしている。
 この方法は伊丹空港問題のように、大衆のアンチパワーが低いと失敗するが(「アンチ伊丹空港」なんて人はそんなにいない)、彼が常軌を逸するほど熱中する学校教育問題では、最近大分県の教員採用汚職がクローズアップされただけに、橋下が自らへの支持の調達に成功する危険性が高い。正直なところ、私にはこれを防ぐ手立ては思いつかない。

 橋下がテレビ番組で、全国学力調査の結果公表に反対する市町村教育委員会を「関東軍みたいになっている」と罵倒したというが(朝日新聞2008/09/15 01:53)、これとて都道府県教育委員会は市町村(教委ではない)に「指導」「助言」「援助」はできるが、市町村教委に「命令」はできない以上、天皇が司令官を任免し命令権限をもった関東軍とは全く次元が異なり、教委の独立性と関東軍の逸脱を同一視するのは法的におかしい、というツッコミは入れられる。

 しかし、橋下とて弁護士である以上、そんなことは百も承知の上で、「教委=関東軍」というレッテルを張って「釣り」行為をしているのである。これを右傾大衆が面白がって教委を「関東軍」と貶める「空気」が醸成されれば(毎日新聞を「侮日新聞」と貶めたように)、橋下の狙い通りである。「面白さ」の前には、冷静なツッコミは水を差す行為となる。

 橋下は少年期のトラウマから、とにかく学校を成績階級で分断することに執念を燃やしているだけなのだが、それにどれほどの人が気づいているか。先の知事選で、良識のある人々の声を聞かず橋下に投票した人々や選挙で投票権を行使しなかった人々が、暴君の暴政に傷めつけられるのは仕方のないことが(そんな目に遭ってもマジョリティがマゾヒストのごとく支持するのは石原慎太郎で実証ずみ)、そのとばっちりで正しい人々までも犠牲にさらされるのが忍びない。橋下当選は確かに「大阪滅亡のお知らせ」だった。

【関連リンク】
地方教育行政の組織及び運営に関する法律 - 法令データ提供システム
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S31/S31HO162.html
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by mahounofuefuki | 2008-09-15 12:07

奨学金の返済延滞2200億円くらい国庫で負担しろ

 国の奨学金返済の延滞額が増え続けているという。
 共同通信(2008/08/23 16:28)より(太字強調は引用者による)。
 国の奨学金の返済延滞が増えている。返済が3カ月以上止まっている延滞額の合計は2007年度末で、2253億円(元金残高ベース)と前年度末に比べて179億円増加、全体の7・0%を占める。
 返済できない理由として低所得や無職・失業を挙げる人が多く、卒業後に安定した職業が見つからないなど若者の雇用環境の悪化が背景にある。ただ、国の税金で穴埋めを強いられる可能性があることから、財務省は事業主体の日本学生支援機構に回収を急ぐよう求めている。(後略)
 全労働者の3分の1以上が不安定な非正規雇用であることを考えれば、奨学金返済の延滞が増えるのは当然である。現行の奨学金制度の返済の仕組みは、毎月連続で支払うのが基本で、新卒→終身雇用を前提としており、途中で職を失ったり、月によって所得が不定だったりすると、途端に延滞してしまう。「貧困と格差」の拡大の象徴的事例である。

 私もそうだが、「氷河期世代」の比較的貧しい階層の出身者にとってとかくやりきれないのは、奨学金を借りながら高校や大学に何とか通い、そこそこの成績で出たにもかかわらず、就職戦線でこぼれ落ちて正規雇用に就けなかったり、運よく正規雇用に就けても過労や低所得や劣悪な待遇に耐えられずドロップアウトしたり、務めていた企業が倒産したりして、結局は「ワーキングプア」になっていたということが普遍的な人生になっていることである。この層はただでさえ不安定・低収入なのに、国民健康保険やら国民年金やら住民税やら各種の公共料金はきっちり定額で支払わなければならない。その上に奨学金の返済など無理な話である。

 ただでさえ奨学金を受けなければならないほど、経済的に苦しい学生時代を送らされたあげく、さらに社会人になってもその返済で苦しめられることに不条理を覚える。安定雇用が「狭き門」の時代にあっては、奨学金を受けるような階層であること自体が、就職に不利に働く。子どもの頃には塾や予備校に通って教育水準の高い学校に入り、血縁・地縁をはじめとする諸々のコネと世渡りのノウハウに恵まれた金持ちたちと同じ土俵で勝負などさせられては、貧乏人に勝ち目はない。前借金としての奨学金を得ても、まともな仕事に就ける保障がない以上、あえて誤解を恐れず言えば、現代の奨学金(返済のいらない給付奨学金を除いて)は一種の「貧困ビジネス」と化している。

 政府は法的措置を含め、回収に躍起になっているようだが、延滞者の多くがカネを支払えないような経済状況にあるのは、これまでの国の貧困拡大政策に起因する以上、返済を免除し、国庫で負担するべきである。「たったの」2253億円である。ちょうど同程度のアメリカ軍への「思いやり予算」をやめれば賄えますよ。

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by mahounofuefuki | 2008-08-25 22:34

教員採用の面接官に財界人を使うな

 相次ぐ不正が明らかになった大分県の教員採用試験だが、こんなニュースが目に入った。
 毎日新聞(2008/08/15夕刊)より。
 大分県の教員採用試験(小中高)で、長年にわたり面接官を出していた大分経済同友会(代表幹事・高橋靖周大分銀行会長ら、会員240人)が、今年は協力を見合わせることが分かった。採点結果が合否判定にどう生かされているかなど県教委から十分な説明がなく、会員の間に以前から不信感が募っており、汚職事件で決定的となったという。
 県教委は05年以降、民間面接官派遣を同友会だけに頼っていた。(後略)
 教員採用試験の面接官に民間企業経営者!? 長年!? 恥ずかしながら今まで全く知らなかった。てっきり教員と教育委員会の人間だけで面接していると思っていた。

 文部科学省のホームページに、昨年各地の教育委員会が実施した2008年度教員採用試験の概要が出ているが、確かにそこに「民間人」面接官のことも記載されていた。
 平成20年度公立学校教員採用選考試験の実施方法について(概要)- 文部科学省
 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/20/01/07121305.htm

 採用試験を実施した全64の都道府県及び指定都市の教委のうち、42の教委で民間企業から面接官を入れている。いつから行われているのか不明だが、こんなところで財界が教員人事に直接関与していたことに驚かされる。

 「外部」の「民間人」を面接官に起用すること自体は別に悪いとは思わない。不正を抑制するためにも、ある程度「外」の人間を入れる必要はあろう。しかし、それがなぜ企業経営者なのか。大分県の場合、2005年以降は地元の財界団体に依存していたそうだから、少なくともこの数年は財界人以外の民間人は起用されていなかったことになる。もちろんその中には教育に詳しく熱心な人もいたかもしれないが、本来利益の追求を至上命題とする企業経営とそうではない教育とは水と油である。企業のものさしでは優秀な人材が、教員として優秀であるとは限らない。

 たとえば、これが経営者ではなく、同じ企業でも労働組合の幹部が面接官に起用されることを想像してみよう。誰もが「おかしい」と思い「偏った選考」を危惧するだろう。あるいは、逆に教員が企業の採用面接者に起用されることを想像してみよう。誰もが「教員なんかに企業がわかるのか」と疑問を抱くだろう。財界人が教員採用の面接官を務めるのも同じようなものである。ところが、「民=善」「官=悪」という思い込みのせいもあって、財界人だけはスルーされる。

 そもそも「民間人」を入れていたのに、一連の不正を防ぐことはできなかった。むしろ捜査の手が伸びていないだけで、財界人が面接官になるルートが財界と教委の「口利きルート」になっていたのでは?と邪推さえしてしまう。そういえば某県では地元新聞社の経営者に教員採用の口利き疑惑が持ち上がった。汚職体質は官も民も変わらない。

 結局のところ「民間人面接官」も、この数十年続いている教育への市場原理導入の策動と、それを容易にするために教育の専門家(教員や教育学者など)の地位を貶めようとする政策の一環ととらえるべきだろう。

 私は昨今の教育問題なるものは、「素人」があまりにも教育政策に口出ししすぎることに起因すると考えていて、今一度「教育の専門性」を見直し、専門家が力を発揮できる環境を作ることが必要だとみている。その観点に立てば、今回の大分県の場合、いっそのこと民間企業からの面接官任用をやめてしまうべきだ。前記文部科学省の集計によれば、「民間人」でも臨床心理士やスクールカウンセラーを面接官に起用した教委が23ある。こうした教育に隣接する分野の実務者の任用枠を増やす方が、より「現場」に即した教員採用に寄与すると思う。

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by mahounofuefuki | 2008-08-17 12:06

貧困のために学費を減免されている公立高校生は22万4000人

 本来、新自由主義という思想の中核は「自己決定の結果としての自己責任」「公平性と透明性を前提とする競争」にあるのだが、日本では支配層によって都合よく切り貼りされた結果、専ら「自己決定に帰せられないことこそ自己責任」「不公平で不透明な競争」という始末で、単なる無法社会を形成してしまった。競争というもの自体が人々を疲弊させ、排除と差別を生みだすのに、さらに輪をかけて「はじめから勝者が決まっているレース」を強要されているのである。

 その最たるものが学校教育で、仮に「努力」と「実力」を重視するのならば、競争の前提として誰もが同じスタートラインに立てるような制度的保障が必要なのに、実際はむしろ各人の家庭の経済力やハビトゥスに左右され、「失敗するリスク」の大きいものほど不利で、貧困の再生産に寄与している。この貧困は単なる経済的な貧しさにとどまらず、対人コミュニケーションや社会性といった領域にまで広がりを見せていることは、秋葉原や八王子の殺傷事件が象徴的に示している通りである。

 NHKの調査によれば、家計の貧窮などを理由に公立高校の授業料を減免された生徒の数が、一昨年は全国で約22万4000人、生徒全体の9.4%に達し、減免の多い学校ほど高校中退が多いことも明らかになったという。以下、NHKニュース(2008/07/23 18:20)より(太字強調は引用者による。一部改行した)。
(前略) NHKは、家計が厳しいことなどを理由に、都道府県が公立高校の授業料を免除したり減額したりしている減免措置について調べました。平成18年度に減免措置を受けた生徒は全国で生徒全体の9.4%、22万4千人で、10年前の2倍に増えて、家計が厳しい家庭が急増していることがわかりました。
 さらに、減免措置を受けた生徒の割合が全国平均とほぼ同じ埼玉県で、減免措置と高校中退の関係を調べたところ、減免措置を受けた生徒が10%未満の高校は中退した生徒の割合が3%でしたが、10%以上20%未満の高校は18%、20%以上の高校は31%に上りました。中には入学した生徒の半数近くが卒業していない高校もあって、家計が厳しい生徒が多い高校ほど高校中退が深刻な問題になっていることがわかりました。(後略)
 現在の日本社会では高校は「出てあたりまえ」と考えられており、高校中退者は就職できる職種も限定される。仮に学歴を不問にするよう規制しても、教育を受けていないこと自体が職業能力の低さにつながり、教育を受けた人と同じ土俵に立たされるのはどうしても不利になる。何よりも「家庭の経済力」という本人にはどうしようもない生得的条件のせいで、教育を受ける権利を阻害されているのは明白な人権侵害である。

 家計の貧富と中退者の増減との関係性からは、家が貧しい→家庭教育力の貧弱→教室でみじめな思い(排除やいじめ)→学習意欲・登校意欲の低下→学力低下・社会的逸脱→偏差値秩序における没落→「底辺校」の劣悪化→中退→「表」社会からの排除、というサイクルが想定しうる。学校教育からの排除は社会的逸脱に結びつきやすく、それが貧困リスクを高める。表向きは「やる気の欠如」や「素行の不良」で片づけられることも、突き詰めれば貧しさに行き着くことが多い。すべて「自力救済」に任せていては、ますます社会の歪みは広がっていくだろう。

 学校教育については累進税の教育税を新設してでも全額無償にするべきだというのが私の持論である。「貧困と差別」を解消するためには教育の不平等は決して座視できる問題ではない。

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by mahounofuefuki | 2008-07-25 07:02

教員採用・人事汚職の背景

 大分県の教員採用をめぐる汚職がにわかにクローズアップされている。新規教員の採用や管理職への昇格など県教委所管の人事において、教育委員会幹部や学校管理職らとの間に金品の贈収賄や口利きが常態化していたことが明らかになりつつある。県議会議員の口利きも表面化し、もはや問題は底なしに拡大している。

 教員や公務員の採用をめぐっては、特に地方に行けば行くほど「縁故採用」の噂が従来から絶えなかった。詳細は私にも実生活上の立場があるので述べられないが、地方の教員採用・異動でいくつか縁故優遇の具体的な疑惑を実際に見聞きしたこともある。私が大学時代、周りの教員採用試験合格者に小学校や中学校の校長の子弟が少なくなかったという事実もある。今回の大分県の場合はやり方があまりにも露骨で異常と言うしかないが、ここまで露骨ではない方法での口利きや工作は全国どこでも行われているのは間違いない。

 元来、地方の小中学校の教員採用は、ほぼ地元の旧師範学校系の教員養成大学出身者で固められていた。大学の教員養成課程を出ればまず間違いなく地元の教員に採用されていた時代は、受験の競争率も低く、採用過程では不正が行われる可能性は低かった(ただし臨時採用や非常勤講師の採用で縁故がモノを言ったり、採用後の人事をめぐり人事権をもつ校長が縁故者を優遇したことはあったと思われる)。

 しかし、少子化と学校統廃合の拡大による教員採用数の抑制と、長期不況による民間の就職難により、一般大学出身の志願者や地元以外からの越境受験者が増加して競争率が上がると、縁故を頼る傾向が高まった。実力主義を前提とする競争原理が強くなるほど、むしろコネの威力が発揮されるという新自由主義のパラドックスはここでも現れたのである。

 一方、教育行政の構造的な歪みも見逃せない。都道府県や市町村の教育委員は一応議会同意人事であるがほとんど仕事をしておらず、実際は都道府県庁や市町村役場の行政マンや文部科学省からの出向官僚から起用される教育長が教育行政の実権を握っている。教育長は都道府県の場合、知事・副知事・出納長に次ぐ幹部であることが多く、教育委員会は自治体の行政機構の枠内に組み込まれている。

 かつてGHQの占領改革で地方の教育委員会は民選となり、文部省や自治体からの独立を担保されていたが、「逆コース」下の1956年に地方教育行政組織法が施行されて以降は、文部大臣を頂点とする上意下達の命令系統が整備され、教委は独立性を失った。その結果、教委幹部の官僚化が進み、同時に政府や自治体からの介入や議員の口利きに対する耐性も弱まった。

 もう1点、不正の温床として、教職員組合の弱体化も挙げなければならない。教育委員会や管理職と強力な教職員組合が緊張感のある対抗関係を保っていれば、相互に不正に対する抑止機能や監視機能が働くが、周知の通り現在の組合は組織率が低下する一方で、教育行政の抑圧に対する抵抗力はほとんどなくなってしまっている。近年は末端の教員に至るまで上意下達の命令系統に組み込まれており、「日の丸」「君が代」を踏み絵とした教員統制も強まっている。実は教委幹部や管理職の子弟の縁故採用には組合弱体化策としての機能があり(縁故採用者は教委にとって「安全分子」であり、さらには「管理職予備軍」となる)、その点でも教育行政の構造的な歪みは深刻である。

 いずれにせよ大分県はもちろん、他の都道府県も含めこの際は膿を出し切り、抜本的な是正策を行う必要あるのは言うまでもない。こういう事態が起きると、単に教育関係者の地位を貶めて、厳罰を与えることに自己満足したり、民営化万能論でかえって教育行政の非合理を進めたりしがちだが、これまで述べたように問題の本質は、教員採用試験の競争率の異常な高さと教育委員会の独立性の剥奪と教職員組合の弱体化にある。つまり、問題の解決には、教員資格取得の厳格化や試験選抜方法の改善、教育委員会の独立性回復、教職員組合の復活が必要である。特に組合は今や大衆の「公認の敵」扱いだが、大衆がバッシングで組合の弱体化に加担したことが不正の原因の1つになっていることを、きちんと理解してほしい。

【関連リンク】
地方教育行政の組織及び運営に関する法律 - 法令データ提供システム
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S31/S31HO162.html
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by mahounofuefuki | 2008-07-09 17:40

「戦争のおかげで日本は民主化された」論と「新しい戦争のカタチ」

 以前、知人から次のような話を聞いた。

 ある中学校の社会科の授業のことである。テーマは第2次世界大戦。教師は戦争の経過を説明し、戦場の非人間的な状況や銃後の苦しい生活について熱く語っていた。ある生徒が挙手して発言する。「戦争があったおかげで、日本国憲法の平和主義も民主主義も実現できたのではないか」「戦争がなければ大日本帝国による専制が続いていたのではないか」と。教師が他の生徒にもこの問題を問うてみると、圧倒的多数の生徒がこれに同調した。この教師は戦前の国家体制と戦争、さらには「戦後民主主義」との関係性についてうまく説明できず、子どもたちを納得させることはできなかったという。

 1990年前後のことだから、まだ「自由主義史観」も、小林よしのりの「戦争論」もない頃の話である。「平和主義」や「民主主義」に価値を置いているだけ相当ましで、今なら歴史修正主義派のプロパガンダで「理論武装」した生徒が、必ずしも歴史学を専攻してはいない知識不十分な教師をやりこめていることだろう。

 戦争のおかげで天皇制国家が倒れた、あるいは民主国家になったという認識は、現在の日本が平和主義・民主主義であり、それは占領軍によってもたらされたという捉え方を前提にしている。実は敗戦と占領が日本にデモクラシーをもたらしたという見方は戦勝国、特にアメリカの一般的な歴史認識で、日本の諸都市に対する無差別爆撃や広島・長崎への原爆投下などの非人道的軍事行動を正当化する論理につながる。よく歴史修正主義派が戦後日本の歴史認識を連合国の戦時プロパガンダに影響されているとかみつくが、前述の「戦争のおかげで~」とか「戦争がなければ~」という見方は、ある意味連合国側が付与した認識と言えなくもない。

 しかし、歴史学の大勢はこうした見方をとらない。私見では戦争と戦後体制の関係に対する認識は次の2つに大別しうる。1つは、「戦後民主主義」の源流は戦前・戦中の日本社会に胚胎していたという見方。もう1つは、そもそも戦後日本は民主主義でも平和主義でもないという見方である。前者は主に、自由民権運動や大正デモクラシーと「戦後民主主義」とのつながりを重視する考え方や、戦時下の総力戦体制の諸政策に「戦後改革」の先駆性を認める考え方などである。後者は占領改革が占領改革であるが故の不徹底を重視し、日米安保体制や長期保守政権の歪みを問題視する。両者は必ずしも矛盾しない。戦前からのデモクラシーの胎動が、「占領」という歪みを経ることで、戦後も不完全燃焼に終わったと解釈しうるからである。

 こんな話を突然したのは、今日が沖縄の「慰霊の日」(沖縄戦の戦没者を追悼する)だからである。はじめに紹介した中学生の疑問に対する答えは実は沖縄にある。戦争のために沖縄は戦後もアメリカの占領下におかれ、今なおアメリカ軍基地が密集している。「戦争のおかげで日本は軍部から解放された」などと沖縄では口が裂けても言えない。沖縄は今も軍事支配下にあるも同然だからである。戦争そのものにおいても沖縄は凄惨な地上戦を強いられ、軍による住民への虐殺や「死の強制」が相次いだ。沖縄の視座に立つとき、戦後日本の「平和」は全くのまやかしにすぎないことが見えてくる。

 「平和を守ろう」とか、逆に「平和が我々を苦しめる」と言う時、いずれも「現在の日本は平和である」という認識を共有している。しかし、沖縄に限らず日本の現況は「平和」と言えるのか。昨年、「希望は戦争しかない」とある社会的弱者は叫んだが(その叫びの前提となる「気分」は「氷河期世代」として共感できるが)、実はすでにわれわれはグローバル社会の「新しい戦争」の渦中にいるのではないか? 核時代となり第2次大戦型の総力戦が過去の遺物となった現在、戦争と平和を隔てるラインは限りなく透明である。いま多くの人々が苛まれている「過労」や「貧困」や「差別」を「新しい戦争のカタチ」としてひと括りにするべきなのではないか。

 日本社会を取り巻く「漠然とした不安」も、平和に倦んでいるというより、すでにこの国が戦争状態にあると理解するべきではないか。多くの日本の住民が直面している矛盾は「新しい戦争」として総括できるという仮説を提起したい。
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by mahounofuefuki | 2008-06-23 17:33

藤沢市の中学校教師による「9・11自作自演」発言について

 「言語論的転回」以後、物事にはtruthもfactもないという考え方が主流になっているようだが、私はその点では保守的であって、実証可能で、すべての人々が共有する可能性を有する確固たる事実と個々のパースペクティヴに規定される解釈との間には、(両者の関係が相対的ではあっても)一線が引かれるべきで、解釈の多様性はあっても、共通認識としての「最も信頼できる真実」が存在しうると考えている。

 そして「多様な解釈」も「解釈の土台となる事実」の下敷きがあってはじめて成立するものであって、「捏造した『事実』」を下敷きにした解釈は決して容認しえないとみなしている。もちろん常にそうした厳しい姿勢を貫徹することは実際には難しいし、私自身も必ずしもできていないことは当ブログのこれまでのあやふやな記述が示している通りだが、少なくとも「解釈」で「事実」を歪めるようなことはしないという意思は持っている。

 藤沢市の中学校教師が授業で9・11テロを「自作自演」と発言した件について、藤沢市教委の学校教育課長は「教諭本人は、物事の見方は一つじゃない、と説明する例」として挙げたとフォローしているが(毎日新聞2008/06/05朝刊)、「9・11自作自演」説は「解釈の土台となる事実」さえ否定している以上、「物事の見方」以前の「1+1=3」というような話で、公教育においてこれをまともに取り上げるのは「ウソつき」の誹りを受けるのを避けられない。

 今回、たまたま問題が9・11陰謀論だったから表面化したが、この種の事例はたくさんあるだろう。「明治維新は無血革命だ」とか「ホロコーストはなかった」とか「南京大虐殺はまぼろし」とか「真珠湾攻撃はアメリカが仕組んだ」とか「沖縄の住民は自らの意思で集団自決した」といった「偽史」を振りまいている歴史改竄主義派の教師はかなりいるし、「血液型で性格がわかる」とか「ゲーム脳の恐怖」とか平気で教えている教師はさらに多いだろう。今回の教師が保護者に謝罪したのなら、そんな連中はみな同様に謝罪しなければならなくなる。

 一見たいした事件ではないが、「陰謀論」の根深さと浸透ぶりが改めて明らかになったという点で重要である。
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by mahounofuefuki | 2008-06-05 17:19