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「内乱を冀(ねが)う心を外に移して国を興すの遠略」という問題

 1873年のいわゆる「征韓論政変(明治六年の政変)」の直接的契機となった朝鮮国遣使問題に際して、「征韓」派の西郷隆盛は太政大臣の三条実美に対し、「征韓」論争が「内乱を冀(ねが)う心を外に移して国を興すの遠略」であると説明したという(西郷隆盛書簡、板垣退助宛、1873年8月17日付)。当時、明治維新の相次ぐ変革により既得の特権を失った士族層の不満は爆発寸前にあり、他方暴政に対する民衆の一揆も続発していた。西郷の「意図」については諸説あるが、少なくとも日本国内の社会不安や政府への反発を抑制するために、その矛先を朝鮮国へ向けようとしていたことは確かだろう。

 近代国民国家の本質は、自然状態では何者でもない人々に「国民」という属性を与えて囲い込むことにあるが、囲い込んだロープの「内側」の矛盾が拡大した場合、為政者はその矛盾を隠蔽するために、ロープの「内」と「外」の矛盾をフレームアップするのが常套手段である。この原則には専制政治も民主政治も資本主義も社会主義も関係ない。「囲い込まれている安心」や「囲みの外に出る(出される)不安」を「国民」に刷り込むことができれば「統治」としては「成功」である(これに「囲いを広げる野心」まで植え付けることができれば「大成功」となる)。「内乱を冀う心を外に移して国を興すの遠略」は国家が国家である限り有効な戦略なのだ。

 文部科学省が新学習指導要領の解説書に「竹島」の領有権を明記した問題の背後にも西郷と同じ「遠略」が浮かび上がる。同省の銭谷真美事務次官は今月14日の記者会見で、今回の改訂で初めて「竹島」問題を記述した理由として、「我が国と郷土を愛する態度を養う」と規定した改定教育基本法の成立を挙げ(朝日新聞2008/07/14/21:09など)、「竹島」問題と「愛国心」との関係を堂々と認めた。竹島=トクト(独島)は現在韓国の実効統治下にある。現実にロープの「外」にある領域を「内」に入れるには、当然「外」との軋轢が生じる。第2次大戦後一貫して日韓間の係争が続いている問題でわざわざ挑発ともとれる行動をとるのは、改めて「内」の矛盾から「国民」の眼を逸らす材料を増やそうとしているのではないか。領土問題は人々に「囲い」の存在を再確認させるには最適である。

 「拉致問題」ピーク時や「イラク人質バッシング」当時に比べて、社会一般のナショナリズム傾向は低下している。しかし、それは単に「ネタ」としての消費期限が切れただけで、むしろ国家権力の側が「国民」の「囲みから出される不安」を煽るためには、これまでの「ネタ」とはレベルの異なる「具体的な緊張」が必要になっているとも言える。不平等税制の拡大、労働環境の悪化、高齢者医療制度の失敗、物価の高騰と現在の日本の政治は行き詰まりを見せており、「囲い込まれている安心」はもはや多くの人々に共有されていない。作家の辺見庸氏(余談だが彼は既成の知識人では珍しく「氷河期世代」の苦しみを共有して同伴しようと努力している)が言うようにこの国が「新しい内戦」下にあるのならば、権力にとってはまさに「内乱を冀う心を外に移」す必要がある。「不安」の責任を転嫁する対象の需要が生じる。

 今月16日に自民党の伊吹文明幹事長が講演で、次期衆院選について「勝とうと思うと一種の目くらましをやらないとしょうがない」と発言したことが物議を醸したが(北海道新聞2008/07/19 10:26)、彼の言うような自民か民主かといった政局レベルの話とは異なる、もっと大きな意味での「目くらまし」をこの国の支配層が望む客観的状況が成立しつつあるのではないか。支配層の権益を維持しつつ(つまり民衆には分け前を増やさず)、それでいて「囲い込まれている実感」をなくした人々に再び「囲い込まれている安心」を与えるため、ロープの「外」に「不安の原因」を作り出すという古典的だが効果の大きい方法。それが具体的に何なのかはここで自信をもって言えないが、そういう危険が具現化する情勢にあるということは念頭に置いておいた方がいい。
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by mahounofuefuki | 2008-07-21 22:29

「北海道洞爺湖サミット」という悪夢

 北海道洞爺湖サミットが始まった。

 私は現在北海道在住だが正直悪夢をみているようである。

 動員させられ作り笑顔で「歓迎」する子どもたち。某国の大統領夫人の写真を撮ったとはしゃぐ若い人。夕食会の献立だの、某ホテルの装飾など、どうでもいいことに時間を割くテレビ。自画自賛の観光案内を垂れ流す地元メディア。どの報道も「食糧」や「環境」が問題だと伝えるが、普段にも増してつっこみが甘い。自らは手を下さずに何十万人も殺してきた権力者への批判もない。

 一応、サミットとグローバリズムに抗議するデモや集会も報道されているが、あくまでもそれは「われわれ」ではない「外部」の出来事というスタンス。地元の老人のデモ見る眼差しはまるで盆踊りを見ているかのよう。街中に溢れる警察官、それも他府県の制服が目立つ。検問や荷物検査で服まで脱がされていても、これを人権侵害だと認識すら人はほんのわずか。多くの住民は過剰警備の不自由さを感じているが、その不満を公には口に出すことが憚れている。

 北海道には「YOSAKOIソーラン祭り」という、企業利権まみれで運営が腐敗しきった、ただうるさいだけの下品なイベントが毎年あるが(余談だがこのイベントの発案者が次期衆院選で自民党から出馬する)、その時に匹敵する不愉快さを私は感じている。アリの入る隙間もないような檻に入れられ、歓迎せざる来客に無理やり付き合わせられている感覚。先行して行われた「先住民族サミット」や「市民サミット」の成果には敬意を持ちつつも、日常生活の息苦しさの代価としては安すぎる。

 わざわざ1カ所に、それも片田舎に集まって会議をやる必要性など本当にあるのか? 国際会議の場としては国連という常設の場があるではないか。そういう根本的なことを考えなければならない時が来ている。
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by mahounofuefuki | 2008-07-07 20:41

朝日新聞が「あすの会」に謝罪する必要はない

 朝日新聞2008年6月18日付夕刊「素粒子」が、「永世死刑執行人 鳩山法相。『自信と責任』に胸を張り、2か月間隔でゴールサイン出して新記録達成。またの名を、死に神」と記述したことに対し、「全国犯罪被害者の会」(「あすの会」)が朝日新聞社に抗議の上、公開質問状を提出していた問題で、朝日側が「厳粛に受け止める」という趣旨の回答を行っていたことが報じられた。

 一連の「死に神」問題に対しては、いつもの「朝日たたき」(もはやかの新聞には何の権威もないのに、いまだに朝日を中傷することでしか自己の存在意義を確認できない情けない輩が大勢いる)の一環で、ネット遊民の「ネタ」(それもかなり不謹慎な)以上でも以下でもなく、私は全くフォローしていなかったが、「あすの会」の抗議とそれに対する朝日の回答については、重大な問題をはらんでいるので問題とせざるをえない。

 問題の朝日の記事は一言も「犯罪被害者」に触れておらず、鳩山氏による「大量処刑」への揶揄はあっても、死刑制度や死刑執行自体への賛否すら読みとれない。質問状では「本記事は、法務大臣だけでなく、死刑求刑した検察官、死刑判決した裁判官、執行に関与した関係者等すべてを侮辱するもの」と決めつけているが、どうしてそんな解釈になるのか全く理解できない。

 鳩山氏が「死に神」と呼ばれたことに抗議するのは正当性があるが(ただし私は「死に神」が中傷だとは思わないが)、「あすの会」や犯罪被害者を侮辱したり、彼らの活動を否定するような文言が全くない以上、「あすの会」の抗議は私には単なる言いがかりにしか思えないのである。

 当然、朝日は「記事はあなた方について一切触れておらず、抗議を受けるいわれも、質問に答える必要もない」と回答して構わないのだが、社会の「空気」に敏感にならざるをえない商業新聞らしく、実際は「(被害者の)お気持ちに思いが至らなかった」「ご批判を厳粛に受け止め」(朝日新聞2008/07/02 03:14)などとピントの外れた回答をしてしまった。これではまるで、やってもいないことで謝っているようなものだ。

 犯罪被害者(正確には「被害者」ではなく「被害者の遺族」がほとんどだが)だからと言って、その考えがすべて正しいわけではない。この国では国家や企業の不法に異議申し立てをする被害者はむしろバッシングの対象になる一方、国家の暴力装置と同一化したがる「タカ派」的な「被害者」は過剰なまでに「英雄」扱いされる傾向がある。近年の「あすの会」は死刑制度に批判的ないし懐疑的な被害者を排除するなど政治性を強めている。今回の件も死刑に対する異論を一切認めないという専制的な同調圧力の匂いがする。

 共同通信(2008/07/02 16:25)によれば、「あすの会」は今回の回答に満足せず、再度抗議書を送るそうだが、この国の熱しやすく冷めやすい「空気」を恃んで無理をしすぎると、かえって傷を負うことになるのではないかと心配している。一方、朝日新聞はあまり弱腰にならず毅然と対応した方が長期的には得策である。世論のマジョリティーはなにしろ「毅然」が大好きなのだから。


《追記 2008/07/04》

 この問題に関してネット上では、法務大臣として刑事訴訟法に基づいた職務を遂行しているだけの鳩山氏への批判はおかしい、という意見があるそうだが、噴飯ものである。光市母子殺害事件の弁護団も「法律に基づいた職務を遂行しているだけ」だったのに、雨あられのような非難を浴びた。今回「素粒子」を批判している連中はほとんどが光市事件で弁護団バッシングに加担していた者たちだが、この矛盾をどう捉えているのだろうか。

 この国のマジョリティーは「安心して攻撃できる“公認の敵”」を求め、それらに苦役を与えることが「自己の救済」だと錯覚している。「被害者」に共鳴しているようで、実際は国家がお墨付きを与えた「敵」をいたぶることに快楽を見出しているにすぎない。改めて日本社会の病理の深さを痛感した次第である。


《追記 2008/08/01》

 結局、朝日新聞は「あすの会」に事実上謝罪したらしい。「被害者」をだしに凶暴化した大衆のバッシングに屈したと言えよう。鳩山氏にならともかく、なぜ関係のない「あすの会」に謝罪する必要があるのか。朝日の腰の弱さと同時に、やってもいないことを謝罪させられるこの国の現況に暗澹たる気分にさせられる。

【関連リンク】
【朝日新聞社に公開質問状提出】- 全国犯罪被害者の会 NAVS
http://www.navs.jp/2008_6_25.html
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by mahounofuefuki | 2008-07-02 22:23

裁判員制度に対する私の本音

 刑事訴訟で起訴事実を否認した被告の一審無罪率が、昨年は過去10年で最高だったという。以下、共同通信(2008/06/02 18:13)より。
(前略) 最高裁刑事局の集計によると、全国の地裁が昨年、1審判決を言い渡した被告(6万9238人)のうち、公判で起訴事実を否認したのは4984人で、起訴事実のすべてが無罪となったのは97人、一部無罪が48人。
 このうち、殺人、強盗致傷、放火など裁判員裁判対象事件の否認被告は896人で、一部を含む無罪は19人(2・1%)。
 否認被告の無罪率は、1998年から2002年まで1・2-1・9%で推移したが、03年以降は2%台となり、06年は2・6%だった。
 一方、最高検の集計によると、裁判員裁判対象事件の1審で捜査段階の自白調書の任意性(強要や利益誘導などがなく任意に自白したかどうか)が争われ、調書の証拠請求が却下(一部含む)されたのは、05年が119件中3件、昨年は70件中10件。
 日本の刑事訴訟の政治性や自白偏重主義はつとに知られるところだが、裁判員制度開始を前に証拠評価が厳しくなり、無罪率が上がったということは、それまでは証拠評価が厳格に行われず、推定無罪原則が貫かれていなかったことを意味する。また、裁判員制度対象案件の自白調書の証拠不採用が昨年は70件中10件ということは、つまり依然として70件中60件(=約85%)で自白調書が証拠採用されているということになる。とてもではないが改善とは言えないレベルだ。

 裁判員制度に対しては多くの人々が抵抗感をもっていることが各種世論調査からも明らかだが、かくいう私も裁判員制度は不要かつ有害だと考えている。裁判員制度不要論の論拠はいろいろ出ているが、私が抵抗する理由はただ1つ。もし私が何らかの事情(冤罪とか)で逮捕・起訴された時、今の日本の大衆に裁かれたくないからである。
 なんだかんだ言ってこの国の大衆の多数派は自民党政権を支え、コイズミやハシモトに熱狂し、弱い者いじめが大好きで、長いものに巻かれたがる。そんな連中に公平な裁判など期待できるはずもなく、行政側のシナリオに追随するのが目に見える。裁判員の多数がまともな人で占められる確率は限りなく低い。

 裁判員制度反対者の中にはこのまま施行されたら裁判員に指名されても拒否すると公言している人が少なくないが、私は自分が裁判員になるのは構わない。私は裁判官にも検察官にも弁護人にも誘導されず、自己の良心と科学的認識に従って判断する自信があるからだ。何て傲慢な!と言われそうだが、少なくとも刑事訴訟を「被害者」の応報手段としか考えていない連中よりははるかに公平で客観的な判断を行い、訴訟を正常化する意思はある。

 自分が参審(本当は陪審の方が望ましいが)するのは構わないが、橋下徹が涙を流しただけで「知事をいじめるな」とかほざく人や、「ワーキングプアは自己責任」とかうそぶく人や、「靖国神社に参拝しないのは反日だ」とか叫ぶ人が裁判員になるのはとうてい容認できない。選別できない以上、制度そのものを葬るほかない。
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by mahounofuefuki | 2008-06-02 21:25

さあ「憎悪タイム」がまた始まりましたよ

 周知の通り、光市母子殺害事件の差し戻し控訴審判決が下った。
 この件については今さら新たに述べることもないので、過去の記事を加除訂正の上で再掲する。

大衆の「狂気」より
 殺人事件があまたある中で、光市母子殺害事件は異様な展開をたどった。
 まず、事件そのものが口にするのもおぞましいものであったこと。
被害者女性の夫が極めて攻撃的で堂々と復讐を宣言したこと(記者会見で、被告を死刑にできなければ自分が殺す、とまで言っていた)。
 マスコミが事件を興味本位で偏向した報道をしたこと。その結果、多くの大衆が被害者の夫に過剰なほど共鳴し、被告の死刑を求める世論が高まったこと。
 さらに、大衆の攻撃は被告にとどまらず被告の弁護団や死刑反対論者にまで及び、ついには新聞社に弁護団への脅迫状が送られる事態になったこと。
 このようにまさに「狂気」の連続である。

 実は私も事件当初は、なんてひどい事件だと憤りを感じていた1人であった。
 しかし、マスメディアや大衆世論の過剰なまでの凶暴性に、犯人とされる被告の「狂気」とは別種の「狂気」を感じるようになり、今は被害者の夫にまったく共感できなくなった。しかも、こともあろうに最高裁判所が大衆の攻撃に恐れをなしてか、無期懲役の控訴審判決を差し戻してしまった。裁判が報道や世論に左右されることなどあってはならないのに。

 私は一連の群衆心理に、排外主義と同じものを感じる。
 つまり、弱そうな「公認の敵」、いくら攻撃しても反撃されることはなく、権力も認めている「敵」を攻撃することで、絶対的優越感を得るという点で、両者は共通するのである。もし犯人が「少年」でなく「暴力団員」だったら、ここまで世論は高まっただろうか? メディアは報道しただろうか?
 否である。この国の大衆が「少年犯罪」となると、大人の犯罪以上に激昂するのは、自己より絶対的下位にあるべき「少年」が自己の存在を脅かしていると感じるからだ。あえて断言してもよいが、「少年法はいらない」「少年を死刑」にと叫んでいる人ほど、街中で未成年が不法行為をしていても注意のひとつもできず、内心で苦々しく思っているだけの臆病者だ。自分の弱さを誤魔化すために、「少年犯罪」をだしに使っているにすぎない。

 ましてや弁護士を攻撃するなどもってのほかだ。もし冤罪で逮捕・起訴された時、実際に助けてくれるのは誰か。今や大衆の憎悪を一身に浴びる「人権派」弁護士である。自分は逮捕されることがない、などといくら自信をもっていても、無実の罪で検挙される例はあとをたたない。最高検察庁でさえ冤罪防止機能が不十分であると認めたほどである。
 はっきり言ってしまえば、光市事件の被告が死刑になろうとそうでなかろうと、被害者ではない私たちの生活に影響はまったくない。厳罰にして見せしめにすれば犯罪はなくなると本気で信じているとすれば、ずいぶんお目出度い話だ。この事件に直接関係のない人間が拘る理由は何もない。


無題より
 実のところ私は光市事件の訴訟そのものにはさしたる関心がない。たくさんある殺人事件のなかで光市事件だけに関心を寄せる理由はないからだ。
 私が気になるのは、多くの人々が光市事件に大きな関心を寄せ、特に被害者の夫に過剰なまでに共感して、被告やその弁護団をバッシングしている「現象」である。被告や弁護団をバッシングしている人々は「義憤」にかられてというより、実際のところは「安心して攻撃できる"絶対悪"」を求めているとしか私には思えないのだ。

 繰り返しになるが、この事件の被告が「元少年」ではなく「暴力団員」だったらここまで世論は高まっただろうか? 実際、関西で大学院生が暴力団員に虐殺された事件に世論は沈黙した。光市事件の場合、被害者の夫がより戦闘的であることを差し引いても、ここまで人々が関心を寄せるのは、「犯人」が「少年」だったという点が大きい。
 つまり、自分より「絶対的下位」にいるべき「少年」の「横暴」に普段何もできないのを誤魔化し、他者(この場合は、被害者の夫)が自己の「代わりに」攻撃してくれることに喝采を送っているのだ。


橋下発言はツッコミどころ満載より
 以前も書いたが、私は光市母子殺害事件の訴訟そのものにはもはや関心がない。たくさんある殺人事件の中でこの事件に特別な興味を抱く理由が私にはない。極端な話、被告が死刑になろうとそうでなかろうとも私の生活には関係ない。彼が処刑されてもされなくても、私には何のメリットもない(関係者以外のほかの人々にもあるとは思えないが)。コンコルド広場にて国王や王妃をギロチンで斬首する光景に熱狂したパリ市民のようなグロテスクな趣味も持ち合わせていない。
 しかし、光市事件に異様に熱狂し、拘置所ですでに自由を奪われている被告や、自らの職務に忠実な弁護士をバッシングする人々の動きには関心をもたざるをえない。それは、この騒動が司法権の独立や訴訟の公平な進行を損ねているからで、1度でもこんな前例ができると、今後の刑事訴訟全体に悪影響を及ぼすことを危惧している。

 仮に将来、誰かが(私やあなたかも)無実の罪で逮捕・起訴された時、検察側の誘導でバッシングが行われ、被害者が無実の人を犯人と思い込み、弁護人の活動が阻害され、罪をなすりつけられるのを心配している。日本はただでさえ冤罪が多い。特に「痴漢」の冤罪は後をたたない。「それでも僕はやっていない」なんて映画が売れるくらいだ。
 光市事件は冤罪ではない。しかし、味をしめた検察が被害者を利用する可能性は否めない。それに何よりも、世論の関心度によって量刑が左右されることなどあってはならない。世論の関心の高い事件は刑が重いとなると、そうでない事案との不公平性が問題になる。それゆえ、光市事件そのものは私の関知するところではないが、バッシング現象の方は私の(そして多くの人々の)利害にかかわるのである。だから、面倒でも発言せざるをえないのだ。


今枝仁弁護士の解任についてより
 私から言えるのは、今枝氏は世論を気にしすぎた、ということだけである。
 最高裁の弁論欠席について釈明が必要であるとか、法医学的見地に偏りすぎであるといった今枝氏の主張は、要するにマスコミ報道による世論の誤解を解こうという意図から発していると思われる。
 しかし、私に言わせれば、そんな努力はまったく無駄である。この国では権力やマスメディアが「公認の敵」として認定した者には、どんな些細なことでも攻撃する。中途半端な小細工は火に油を注ぐようなものである。
 むしろ「世間」なるものに余計な「弁明」などせず、毅然と堂々と行動した方がいい。人々は光市事件に憤っているように見えて、その実「安心して攻撃できる絶対悪」をいじめることを楽しんでいるだけなので、余計な「弁明」はかえって弱みになり、いじめの対象となる。


(以下は今日の書き下ろし)
 最高裁が大衆の「リンチ」に屈して控訴審に差し戻した時は、私の頭の中でレオンカヴァルロの歌劇「道化師」の“No, pagliaccio non son”が鳴り響いていたが、今はフォーレのレクイエムの清澄な調べが聞こえる。もちろん鎮魂の対象は被告ではなく、道化芝居にもならない「光市まつり」に熱狂する人々である。
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by mahounofuefuki | 2008-04-22 12:11

犯罪報道は本当に変わったのか

 今日の朝日新聞電子版に「事件報道、扇情・過熱減る 『ロス疑惑』四半世紀」と題する記事が載っていた(朝日新聞2008/04/06 03:02)。1980年代と現在の「ロス疑惑」報道を比較し、センセーショナルな見出しが躍った四半世紀前から、容疑者を「犯人視」せず関係者のプライバシーに配慮するようになった現在への変容を取材する側が「自画自賛」した内容だ。以下、同記事より。
(前略) 「ロス疑惑」以降も大きな事件が起きるたびに、報道と人権の問題がクローズアップされる。
 ロス事件当時、既に容疑者呼称を始めていたNHKを除き、朝日を含む多くの報道機関は逮捕された人を呼び捨てにしていた。
 転機は89年。都内で起きた女子高校生コンクリート詰め殺人事件や、首都圏で4人の女児が殺害された連続幼女誘拐殺人事件を巡り、「過剰報道」批判が再び巻き起こった。東京都足立区の母子強盗殺人事件では、逮捕された3少年の「非行ぶり」がしきりに報道されたが、東京家裁は結局不処分の決定を言い渡す。
 この年に死刑囚の再審無罪もあり、朝日新聞の警視庁クラブサブキャップだった清水建宇さん(60)は「容疑者呼称は不要だと主張していたのが根拠を失った」と振り返る。この年から多くのメディアが容疑者呼称に踏み切る。容疑者を「犯人視」しない報道への取り組みも本格化した。
 しかし94年、松本サリン事件では、各社が被害者の河野義行さんを容疑者のように報じる問題が生じた。98年の和歌山カレー事件では逮捕前の容疑者の自宅を報道陣が40日間も取り囲んだ。
 メディア側では00年以降、報道検証の第三者機関を設ける試みが広がった。日本新聞協会は01年、集団的過熱取材(メディアスクラム)対策の見解を出した。
 三浦元社長の今回の逮捕報道は、四半世紀にわたる報道の変化を反映している。(後略)
 記事中で弁護士の喜田村洋一氏が指摘するように、容疑者だった三浦和義氏がマスメディア各社を名誉棄損で提訴し、多くの勝訴を勝ち取ったことで、事件報道の質がこの四半世紀である程度変化したのは確かだろう。
 しかし、推定無罪原則の無視関係者(被害者や容疑者やそれらの家族など)の戯画化集団的過熱取材(メディアスクラム)捜査当局発表への無批判など事件報道の問題の根幹は、「ロス疑惑」の頃から何も変わっていないように思う。光市母子殺害事件などの報道に至っては「ロス疑惑」よりも悪質になってさえいる。
 冷めた見方をすれば、今回の「ロス疑惑」再燃報道がかつてほど過熱していないのは、もはや三浦氏のキャラクターとしての賞味期限が切れる一方、新たな「エサ」もなく(何しろ今さらジミー佐古田氏のような「老兵」が引っ張り出される始末だ)、数字が取れる要素に不足しているからにすぎないのではないか。

 朝日の記事は触れていないが、この四半世紀で変わったのはむしろインターネットのような「報道の受け手」側が発信できる手段が存在するようになったことで、それらに露出した大衆のナマの欲求がマスメディアのセンセーショナリズムと共鳴していることである。 
 不特定多数が共時性を持ってコミュニケーションしうるインターネットは、一種の「祝祭」空間である。そこで大衆がメディアに求めるのは、「みんな」が「楽しめる」あるいは「泣ける」ような「ネタ」を提供してくれることである。そして単純な犯罪報道ほど「祝祭」的な「ネタ」はない。被害者でも加害者でもない「絶対的な第三者」として安心して楽しめるからだ。
 このような構造の下では、客観的な報道や冷静な報道は「祝祭」に水を差す「空気の読めない」行為としか映らない。マスメディアが大衆の要求に応えようとすれば、容易に過熱報道は激化する。

 容疑者の呼び捨てをやめたとか、自主規制機関が作られたといった形式的な事象の水面下では、むしろ事件報道を単なる「ネタ」として消費する社会状況が進行しているのである。「何のために事件報道があるのか、根本的に議論すべき」(青山学院大学教授の大石泰彦氏、前記記事より)であるなら、このことを見落としてはなるまい。
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by mahounofuefuki | 2008-04-06 13:22

「コイズミ」的な「空気」が拡大する危険は続く

 どの世論調査でも生活・医療・教育などへの不安や福祉国家への待望が高まっているし、だからこそ明確に「構造改革」路線を放棄しない福田内閣の支持率は下落を続けているのだが、一方で今も「構造改革」=新自由主義路線の張本人である小泉純一郎元首相への人気は高い。いや正確には人気がメディアによって煽られていると言うべきだろう。

 13日に静岡7区選出の片山さつき衆院議員への応援のために小泉氏が浜松市を訪れたが、翌日のスポーツ紙やワイドショーが一斉に大きく報じた。仮に福田康夫首相が応援に行っても一般紙はともかくスポーツ紙やワイドショーが報じることはあるまい。これは今も「コイズミ」がメディアで「数字(売上部数や視聴率)を取れる」キャラクターであることを意味する。
 当の本人は浜松での講演で「私は総理を辞めたんですよ。次の総裁選挙に出る気なんて、まったくありません」と「再登板」を否定したという(神奈川新聞2008/03/13)。小泉傘下に復帰したと言われる元首相秘書官の飯島勲氏や「構造改革」派の政治屋たちの思惑は別として、その言葉自体に偽りはないと私は思っている。小賢しい彼がわざわざ火中の栗を拾うような真似をすることはないからである。

 問題は本人に登板の意思がなくとも、「コイズミ」がメディアに露出することで、あたかも「改革が道半ば」とか「コイズミのようなやり方でないと危機を突破できない」というような認識が常に有権者の頭にインプットされることにある。
 実際は「コイズミのせいで社会保障は崩壊し、経済も弱体化した」し、前述のように有権者の多くも「構造改革はもうノーサンキュー」と考えるようになっているのだが、一方で依然として「小さな政府」論=「政府の役割は小さいほどよい」という信仰が未だに根強く、「既得権益の解体」を小泉、あるいは「コイズミ」的なもの(たとえば宮崎県の東国原英夫知事あたりが危ない)に託そうとする可能性は残存している。

 「貧弱な坊や」安倍晋三氏や「陰気なツンデレ」福田康夫氏に比べて、「陽気な独裁者」(by辺見庸氏)である小泉氏は、キャラクターとしては依然としてプラスのイメージを保有している。「政界再編」云々といった生臭いレベルではなく、もっと大きな社会を覆う「空気」として「コイズミ」的なものが再拡大する危険は依然として存在する。
 差別と競争を旨とする新自由主義の廃棄と、社会的公平の確立を希求する側は「コイズミ」対策を真剣に考えねばなるまい。その際、単に対抗馬として知名度の高いキャラクターを用意するというレベルの方法では、広告代理店を握る新自由主義勢力に返り討ちにされるだろう。真の勝負は有権者にそれぞれの自己の生活を見つめ直すことを促せるかどうかにかかっているような気がする。
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by mahounofuefuki | 2008-03-15 14:36

「橋下ショック」と「ポピュリズム」~反省の弁

 1月27日に書いたブログ記事「既得権益への反発と大衆の「本音」~大阪府知事選挙の結果」は、あまり評判が良くなかったようで(高い評価を与えてくださった方も少なからずいたが)、特にはてなブックマークでは批判的なコメントが多く寄せられた。当該記事は投票締め切りとほぼ同時に(まだ開票が始ってもいないのに)「当確」が出たことに腹を立てながら急ごしらえで書いたもので、普段にも増して粗雑で論理性に欠け、感情的な内容になってしまったのは確かである。
 非難が集中したのは、橋下氏に投票した人々を「深く軽蔑し、絶対に許さない」と罵倒した点で、これは彼の立候補表明時にも顰蹙を買ったので、同じ誤りを繰り返したことになる。とはいえそれが当時の私の正直な感情であったので取り消すつもりはない。そういう憎悪を撒き散らす物言いでは決して有権者には受け入れられないという批判もあったが、当ブログはいわゆる「政治ブログ」ではなく、他者を啓蒙しようなどという思い上がりはないので、全く筋違いである。「彼らが自分の首を絞める愚行だったことに早く気づくことだけを祈っている」というのは文字通り「祈っている」のであって、私の文章に「彼ら」を変える力などないことは、誰よりも自分が知っている。

 その点を誤解して、私に大衆を啓蒙できるような知性がないと批判したブログがあった。
 ネット左派リベラルはポピュリズムの反知性主義批判ができるか-手記
 批判の要点は、「ネット左派」(私を含む)は「知性ある自分ってステキ」と思い込んで「B層とかポピュリズム」を非難するが、「同じ左派であっても、堅牢な左派の知性と軟弱思想のネット左派の知性では雲泥の差がある」ので、ネット左翼には「反知性主義」を批判することはできない、ということである。
 しかし、少なくとも私は知性や理性を重視してはいても、それが「自分に十分な知性や理性がある」ということを意味しないと自覚している。当ブログに論理性も一貫性もなく矛盾もそのままにしているのも、それを修正するだけの能力が私にはないからだ。私が「“知”を忌避するポピュリズム」と指摘したのは、私の当該記事を読めばわかることだが、熊谷貞俊氏のような職業知識人を敬遠する大衆心理について言及した文脈の中であって、「ネット左派」のことは念頭にない。そもそも私はポピュリズム=「反知性主義」とは考えていないので、すべてのポピュリズムを「“知”を忌避するポピュリズム」とみなしてもいない。
 ただし、このブログ主がそう誤読したのは、私が「“左”を忌避するポピュリズム」=「“知”を忌避するポピュリズム」と書いてしまったからで、これは完全に「筆が滑った」と認めざるをえず、非は当方にある。当該記事の「『“左”を忌避するポピュリズム』は『“知”を忌避するポピュリズム』でもあり」という部分は撤回する
 なお、このブログ主は現代思想に詳しく、ミシェル・フーコーを信奉しているようで、「知性」の有無の判断基準はフーコーを読んでいるかどうかだそうだが、残念ながら(?)私は『性の歴史』(ご指摘の「知への意思」を含む)はずいぶん前に読んだ。フーコーの権力論も基本的な内容は知っている。また「言語論的転回」についても「初めて聞いたというネット左派たちばかり」と決めつけているが、こちらも私は歴史認識との関係で一家言ある。もちろん私の場合、ただ知っているという程度で、このブログ主の理解度にはとうてい及ばないだろうから、これで揚げ足をとるつもりはない(ただこのブログの物言いに「フーコーを語る自分ってステキ」という無自覚な自己満足が読み取れてしまうのもまた事実)。

 はてなブックマークでも指摘があったが、本来「ポピュリズム」とはパワーエリートが大衆運動を侮蔑して用いた言葉で、日本でも長らく「左のポピュリズム」が主流だった(社会党の土井たか子ブームなど)。それが変化したのはここ10年くらいで、慶応義塾大学の小熊英二氏が「新しい歴史教科書をつくる会」の動きを「“左”を忌避するポピュリズム」と明快に分析したのもその頃だった。「草の根の保守主義」とかファシズム運動とは明らかに異なる「右」の新しい動きは、その後も紆余曲折を経ながら依然として日本社会の底流に定着しつつあると考えている。
 とはいえ、私も含めて最近のネット言説が「ポピュリズム」概念を濫用しているのは確かで、その歴史的経緯や政治学における研究史に無知のまま、単にアイドル的な政治家が有権者を組織化せずとも大量動員できる状況を「ポピュリズム」と斬って捨ててしまう風潮は反省せねばなるまい。昔の左翼が都合の悪いものを何でも「ファシズム」とレッテルを張ったような真似はしてはならないだろう。この問題は私のような「ネット左翼」の手に余るので、誰か本当の専門家が整理してくれるとありがたいのだが。

 本当は「橋下ショック」で野党も知名度の高いタレントを候補として擁立すべきだという動きが顕在化している状況に疑問を呈したかったのだが(むしろ無名だが実力のある現職を積極的に売り出して有名にする方が理に適っている)、時間も紙幅もなくなったので書かない。今回でもう懲りたので、しばらくは「ポピュリズム」問題には触れるつもりはない。

【関連リンク】
はてなブックマーク-世界の片隅でニュースを読む:既得権益への反発と大衆の「本音」~大阪府知事選挙の結果


《追記 2008/02/03》

 前記のブログ「手記」が拙文を受けて、丁寧なフォローをしてくださっていた。
 野党共闘の一極集中型の権力概念は自滅の道-手記
 いろいろ行き違いはありましたが、nichijo_1氏の真摯な批評に敬意を表します。
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by mahounofuefuki | 2008-02-02 12:54

既得権益への反発と大衆の「本音」~大阪府知事選挙の結果

 今日投票が行われた大阪府知事選挙は、選挙中の下馬評通り、タレントの橋下徹氏の圧勝に終わった(これを書いている時点では「当選確実」だが)。

 告示前の時点では、橋下氏は自民・公明両党の全面支援を受けられず、徒手空拳の選挙戦を強いられると私は予想していたのだが、創価学会の動向が誤算であった。蓋を開けてみれば自民・公明両党の支持者の大半を固め、民主党支持層の一部も取り込んだ。
 正直なところ、各種世論調査が橋下氏の優勢を伝えた時点で、よほど投票率が下がらない限り、橋下氏の勝利は間違いないと覚悟を決めていた。選挙戦終盤になって一部ブログが橋下氏へのネガティブキャンペーンを精力的に行ったが、「左」が騒ぎ立てるほど「“左”を忌避するポピュリズム」が作用して橋下氏に有利に働くという自覚に欠けていたと言わざるをえない(私も橋下氏の立候補表明時にやってしまったが「ネタ」として消費されただけだった)。
 ただし、後述するように橋下氏の勝利には確固たる必然性があり、いずれにせよ新聞やテレビの影響力の足元にも及ばないネット言論にできることはほとんどなかったと認めざるをえない。

 橋下氏の勝利を必然化した第1の要因は、今回の選挙戦の構図が結果として「既得権益」対「非既得権益」の形になったことである。
 民主党推薦の熊谷貞俊氏は既得権益をもつ(と一般の人々が敵視している)連合大阪や部落解放同盟の組織的支援を受け、さらに財界の一部も好意的であったために、橋下氏は利権から疎外されている人々にとって「不当に特権をもつ勢力」と闘うヒーローになりえた。これはかの小泉政権の「郵政選挙」と全く同じ構図であり、橋下氏の新自由主義的言説はすんなりと大衆に浸透したのである。
 昨年の参院選で世論は新自由主義的な考え方にノーを突きつけたとみられていたが、依然として既得権益への不満が噴出した場合には、「コイズミ劇場」のような事態が起こりうることを実証したと言えよう。

 第2の要因は、橋下氏の過去の横暴な発言の数々が実は大衆の「本音」だったことである。
 「買春=ODA」発言は、性産業の需要層たる一般大衆男性にとっては「普通の認識」であるし、売買春と無縁の中産階級女性にとっては「よその世界」の話である。「徴兵制」「皆兵制」発言や「体罰」発言は、自分のことを棚に上げて「最近の若者」の「モラル低下」に鬱屈を抱える中高年の「はけ口」となりえた。「核武装」発言は中川昭一氏や安倍晋三氏の前例があり、橋下氏の特異性を示すことにはならない。闇金融の弁護士をやっていた過去も、借金経験のない人々の多くが「借りる方が悪い」という認識なのが現状であり、橋下氏の威信低下にはなりえなかった。
 要するに、畏まった建前論に飽き飽きしている大衆にとって、橋下氏は「同じ目線」で「自分の言葉」を語る「同類」なのである。この点でも小泉純一郎氏に酷似している。

 第3の要因は、選挙運動の商業化である。
 現在の国政選挙において広告代理店が大きな役割を果たしているのは周知の通りだが、今回の大阪府知事選で橋下陣営を取り仕切ったのは自民党でも創価学会でもなく、橋下氏の所属芸能プロダクションだった。彼らは選挙運動の素人であるが故の基本的なミスもあったが、メディアの使い方と人心掌握には長けていた。この問題については今後各方面から詳報が出るだろう。私からは、日本の選挙における情報操作の在り方をさらに「進化」させる契機となったとだけ指摘しておく。

 第4の、そして最も決定的な要因は、失礼ながら対立候補筆頭の熊谷貞俊氏に知事候補としての魅力がほとんどなかったことである。
 弁舌巧みな橋下氏と比べるとお世辞にも雄弁とは言えず、何より「大阪大学教授」という肩書と隠せないインテリ臭が大衆への浸透を妨げた。前述した「“左”を忌避するポピュリズム」は「“知”を忌避するポピュリズム」でもあり、民主党は現在の世論の実情を完全に見誤ったとしか言いようがない。
 自民党は先の参院選で大敗しつつも「ヤンキー先生」とか「女性アナウンサー」とか「行列ができる弁護士」はしっかりと当選した。今回の橋下氏の勝利で、自民党はますます知名度とキャラクター性を重視した候補者選考を行うだろう。野党側はこれにどう対処するのか真剣に考えなければなるまい(対抗して野党もタレントを擁立するような安易な方法は不快だが)。

 ブログ開設当初から橋下氏の「社会人」としての資質を批判し続けた私としては、今回の結果は残念の一言である。同時に粗暴を好むこの国の大衆への不信感は改めて増した。
 なお以前「橋下徹の名を投票用紙に書くすべての人を私は深く軽蔑し、絶対に許しません」とブログに書いたが、その考えは今も変わっていない。彼らが自分の首を絞める愚行だったことに早く気づくことだけを祈っている。


《追記 2008/02/02》

 本文中の「『“左”を忌避するポピュリズム』は『“知”を忌避するポピュリズム』でもあり」の部分は撤回する。その理由は「橋下ショック」と「ポピュリズム」~反省の弁を参照。
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by mahounofuefuki | 2008-01-27 20:59

光市母子殺害事件の被告弁護団に対する懲戒請求却下

まだ詳細は不明なのだが、東京弁護士会が、光市母子殺害事件の被告弁護団の弁護士に対する懲戒請求を認めない決定をしたようだ(NHKニュース 2007/11/27 06:14)。

周知のとおり、タレントで弁護士の橋下徹氏が、テレビ番組で同弁護団に対する懲戒請求を扇動したせいで、一般の人々による約4000件もの請求が各地の弁護士会に集まっていた。
今回初めて東京弁護士会が懲戒請求の正当性を認めなかったことで、他の弁護士会の審議や、光市事件弁護団の弁護士らが橋下氏を訴えている訴訟にも影響するだろう。

《追記》

毎日新聞(2007/11/27 12:16)によると、東京弁護士会は「社会全体から指弾されている被告であっても、被告の弁明を受け止めて法的主張をするのは正当な弁護活動。仮に関係者の感情が傷つけられても正当性は変わらない」という理由で懲戒請求を退けたという。

まさに私が弁護団を擁護する理由はそこで、本当にまっとうな議決である。
弁護人が「世間」とは異なる考えで弁護を行ったからという理由で懲戒されるようになったら、もはや司法は独立を保てない。ましてやほとんどの人々が懲戒要件の何たるかも知らず、テレビの言うがままに請求を行ったのだから、却下は当然である。
事が大きくなり、今になって怖くなって請求を取り下げようとしている人々も多いようだが、請求者には自分がどれだけとんでもないことを仕出かしたかきちんと反省してほしい。
私たちはいつでも刑事・民事を問わず「弁護される側」になる可能性があることを理解してほしい。

ところで私はNHKの報道をもとに、一連の懲戒請求の議決が「今回初めて」と書いたが、毎日新聞電子版には、請求が「東京や広島など各地の弁護士会で計約7500件に達しているが、これまでに弁護士会が結論を出した十数件はいずれも「懲戒しない」と議決している」と書いており、毎日の方が正確なようである。

【関連記事】
マスメディアの偏向報道
橋下発言はツッコミどころ満載
無題
大衆の「狂気」

【関連リンク】
光市事件懲戒請求扇動問題 弁護団広報ページ
東京弁護士会
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by mahounofuefuki | 2007-11-27 13:19