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同調圧力、「他者」の好奇のまなざし、そして「『自殺的』他殺」

 捜査中の事件報道というのはほぼ警察発表がソースで、特に留置・拘置中の容疑者の「供述」の取り扱いは注意を要するので安易に取り上げたくはないのだが、先月埼玉県で女子中学生が父親を殺害した事件で伝えられる話がどうしても気になったので、あえて取り上げる。

 当初、この中学生は父親が母親と弟を殺す夢を見たので殺そうと思ったと「供述」したと伝えられていたのだが、昨日になってそれは作為で、実は父親だけでなく、母親と弟も殺害した上で自殺するつもりだったと「供述」を変化させているという。
 「すべてがいやになった。特に人間関係に疲れ、家族(全員)を殺して自分も死のうと思った」(読売新聞2008/08/03 03:12)、「人に気を使って生きるのに疲れた」(朝日新聞2008/08/03 03:01)と述べ、さらに動機を作為した理由について「自殺すると残った家族が周囲から冷たい目で見られるので、みんな死ぬほうがいいと思った」(毎日新聞2008/08/03朝刊)と語っているという。
 要するに「娘による父殺し」という精神分析家好みの家庭内殺人ではなく、子どもによる一家心中未遂だった可能性が出てきたのである。

 私が思ったのは、15歳で「人に気を使って生きる」ことを悩まねばならない社会とはいったいなんなんだろう?ということである。自分の過去を振り返っても、そんな年頃に果たして他人に気を使っていたかと問われれば、否と答えるほかない。「子ども社会」ならではの人間関係の悩みは当然あったが、彼女の言葉には単なる「悩み」を超えた、人間関係のちょっとした失敗が自己の尊厳を完全に失ってしまうような「恐怖」が読み取れる。どこかで子どもが「教室は地雷原」と喩えていたのを読んだ記憶があるが、「子ども社会」における対人コミュニケーション能力の絶対化を伴った同調圧力はそれほどひどい状態にあるのだろう。

 大澤真幸氏は『不可能性の時代』(岩波書店、2008年)の中で、携帯メール時代には「家族のような親密な関係を食い破って、外部の〈他者〉と直接性の高い関係を結ぼうとする欲望」が生じると指摘しているが、その傾向は若い世代ほど顕著だろう。一方で彼女のようにそのような「直接性の高い関係」に疲れた者はどうすればよいのか。「自分と自分の愛する者が消えてゲームオーバー」以外の行き先を大人たちは提示しているとは言い難い。

 何より「子ども社会」は「大人社会」を反映している。それは彼女が当初虚偽の「供述」をした理由にも現れている。「残った家族が周囲から冷たい目で見られる」ということへの恐れは、まさに日本社会にける「異物」を排除しようとする同調圧力と「異物」への好奇の視線を下敷きにしている。彼女は同調圧力に苦しんで死を決意し、「他者」の好奇のまなざしを恐れて家族を殺そうとしたが、父親のみの殺害に終わり(つまり「失敗」し)、さらになお残された家族が社会から傷つけられるのを恐れて動機を糊塗する。そのナイーヴさはあまりにも痛々しい。

 彼女の思考は決して肥大した被害妄想とは言えない。実際、「被害者」や「加害者」や「自殺者」や、あるいは「障害者」や「外国人」といった「われわれ」とは違う、もっとひどい言い方をすれば「普通」ではない、「異種」の「属性」を付与された者に対する、この国の大衆の扱いは非常に冷たく厳しい。「異種」の烙印を押される者にとって、まさに「他者」は「自己」をひどく傷つけるものとして立ちはだかる場合があり得るのである。

 以前、自殺者の増加の件で、「『空気を読め』とか『日本人の誇りを持て』というような帰属意識を強要する社会風潮、あるいは『死んでお詫びする』とか『名誉の戦死』のような『死』そのものを特権化・美化する文化も、追い詰められた時に行き場を失わせ、自殺でしか自己の存在理由を守れないと考えさせる要因になっている」と述べたが、これは自殺のみならず、今回のような「『自殺的』他殺」とでも言うべき状況にも適応しうるだろう。他方で、帰属意識とか同調圧力とか「死」の特権化といったレベルを超えた「何か」がさらに隠されているような気もしている。

 この社会は病んでいる。しかし、その確実な処方箋は未だ見つかっていない。

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「無間地獄」と「死」の二者択一から逃れるために
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by mahounofuefuki | 2008-08-03 23:15

「差異」の識別と、可能性としての「愛のある批判」

 人間は強い興味や関心をもっているものに対しては、微妙な差異や些細な相違も識別するが、そうでないものに対しては十把ひとかけらで大きな概念として把握してしまい、その中の個体の違いを識別することができない。

 わかりやすく具体例を挙げると、鉄道マニアは同じ路線を走っている電車でも車体の違いを識別できるが、そうでない一般の人々は山手線と中央線の違いを車体のラインのカラーで区別はできても、車体の種類まではわからない。あるいは、ネコが好きな人々はどれがアビシニアンでどれがバーマンかといった種類の違いがわかるが、ネコに関心のない人々は種別がわからず、どれも同じ「ネコ」としか認識できない。またあるいは、アイドルグループ「AKB48」のメンバーをファンはきちんと誰が誰であるか識別できるが、そうでない人々にはその集団が「AKB48」であると認識できても、誰もが同じ顔に見えてしまい個別には識別できない。

 最もひどい例はナショナリストやレイシストで、彼らはおおむね敵視する対象を「○○人」とひとくくりで把握し、その中の個々人を独立した人格として認識しようとはしない。「○○人→卑怯だ」とか「○○人→犯罪者」と勝手に刷り込んでしまい、千差万別の人々を無理やり一つの鋳型にあてはめる。しかもこれが度を過ぎると、「卑怯だ→○○人」とか「犯罪者→○○人」と転倒してしまい、凶悪犯罪が起きるたびに「容疑者は在日系」というデマを流したりするような「イタい」輩になってしまう。

 逆に言えば、ある事象に対して強い関心や興味を持っている人は、何も知らない人には一見瑣末に思えるような差異でも、重大な問題をはらんでいると認識するのである。そしてその差異は実際に重大であることが少なくない。
 政界でも言論界でもネット言説でも、同一の、ないしは類似の志向を持つ者の間で「対立」や「内紛」が繰り返されるのは、それだけ批判対象に強い関心と場合によっては「愛着」を持っているからで(共産党離党者ほど激しい党批判を行うのがその典型例)、これがどうでもよい相手ならスルーするだけである。
 実際、最近私は「そいつは帽子だ!」でどうしても私が譲れない問題について批判を行い、結局溝を埋めることができなかったが、自分のブログのコメント欄をクローズしているほど記事の更新でいっぱいいっぱいの(よそでコメントする余裕がない)私が厳しい批判を行ったのは、彼のブログを更新されるごとに読み、相当な敬意を持っていたからで、これが端から自分とは合わない、ないしは関係ないと考えているブログならば平然と無視できただろう。ネット右翼に至っては私はいまだに個体識別すらできない。

 以上のように考察すれば、「愛」があればこその批判という図式が成り立つわけで、「愛」があるなら批判するな(あるいは「愛」があるから批判しない)という言説は論拠を欠く。「愛」が冷めてしまえばもはや進んで批判する気力もないが、その時は明白な決別(離別?)を意味する。つまり「愛のある批判」が成立する限り、それは決別してはいないとも言える。少なくとも私はそのように捉えている。
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by mahounofuefuki | 2008-05-31 13:26

高まる「平等」「安定」志向~「勤労生活に関する調査」を読む

 労働政策研究・研修機構が「第5回勤労生活に関する調査」の結果を発表した。
 この調査は勤労生活に対する意識について、1999年から同一の調査法(訪問面接)と同一の質問項目で継続して行っていること、調査対象がすべての世代、就業形態(労働者だけでなく、経営者や自営業者なども含む)にわたっていることに特徴があり、ほぼ日本社会を構成する人々の縮図と言ってよい。今回の調査は2007年に行われた。
 詳細はweb上で公開された資料を参照していただきたいが(下記関連リンク参照)、私が注目するのは次の4点である。

「平等社会」への志向が高まった。
 今回の調査結果で何よりも注目すべきは、これからの日本が目指すべき社会についての問いで、初めて「貧富の差が少ない平等社会」がトップに躍り出て(43.2%)、「意欲や能力に応じ自由に競争できる社会」(31.1%)を抜いたことである。1999年から2004年までは一貫して「競争できる社会」がトップで4割を超えていただけに、この数年で人々が新自由主義イデオロギーに嫌気を持ち始めたことをはっきりと実証している。

「終身雇用」「年功賃金」への志向が高まった。
 日本型雇用慣行への問いでは、「終身雇用」への支持が初めて8割を超えた(86.1%)。「年功賃金」への支持も初めて7割を超え(71.7%)、旧来の年功序列賃金体系への郷愁が強いことを如実に示している。ここでも成果主義を重視するイデオロギーが完全否定されつつあることがわかる。
 また、キャリア形成に関する問いでも、1つの企業に長く勤めキャリアアップするルートへの支持が過去最高となり(49.0%)、「独立して仕事をするコース」への支持は過去最低となった(11.7%)。もはや誰もが起業できるという「夢」が単なる欺瞞にすぎないことに気づき始めていると言えよう。「夢追い」型から「安定・堅実」型への変化を読み取れる。

「自由になるカネ」と「自由になる時間」への欲求が高い。
 「終身雇用」「年功賃金」を志向する一方で、企業の福利厚生の充実よりも給与を増やして欲しいという見解は一貫して増え続けている(64.5%)。これはますます企業福祉への不信が高まっていることを示すが、おそらく国家の福祉への不信も高いだろう。「平等」「安定」を志向しつつも、公的な福祉給付への不信は依然として強く、それよりは給与を増やして欲しいと考える人々が多いようである。
 また、どのような時間を増やしたいかという問いでは、「趣味やレジャーなどの自由時間」「家庭生活に費やす時間」が多く、「ボランティアや町内会活動など社会活動」はかなり低い。ここでも「公的なもの」への忌避感は強く、自己の個人生活の充実を至上とする傾向が強いことが窺える。
 これらから導けるのは「自由になるカネ」「自由になる時間」への渇望である。北欧型福祉国家の大前提である「社会参加による高負担・高福祉」は現状では受け入れられる見込みが低いことがわかる。

職場の人間関係に苦労している。
 勤務先を選べるとしたら何を最も重視するかという問いでは、「職場の人間関係」がダントツで高く(31.7%)、「仕事と家庭生活の両立支援」(18.0%)、「賃金」(13.6%)よりも上位である。これは職場の人間関係に苦労している人々が多いことを示す。賃金や社会保障の問題とは異なり、職場の人間関係の悩みは正社員も非正社員も、あるいは管理職やもしかすると経営者も共通して抱えているとみられる以上、この問題はもっと社会問題として取り上げられてしかるべきである。

 今回の調査から改めて新自由主義による競争社会がもはや支持されていないことは明らかになった。人々の「安定」志向を簡単には止めることができないだろう。一方で、「公」への不信が強すぎて、福祉国家確立の前提条件も依然として存在しないことも読み取れる。大阪府知事選挙のように「公」への不信を前面に押し出した場合、実際の投票においては「安定」を志向しながら新自由主義を支持するという矛盾した行動をとる可能性が依然として強い。
 福祉国家を目指すにあたっては、いきなり「高負担・高福祉」を提示するのではなく、まず所得再分配により「自由になるカネ」へ、長時間労働の法的規制の強化により「自由になる時間」への欲求に応える必要があることを示唆している。消費税の社会保障目的税化などの議論では、新自由主義への対抗軸にならないことはここでも明らかだろう。

【関連リンク】
「第5回勤労生活に関する調査」結果*PDF
独立行政法人 労働政策研究・研修機構
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by mahounofuefuki | 2008-03-25 12:15

私は「重度KY」だそうです(苦笑)。

ZAWA talkさんが、空気読み力テストというものを紹介していたので、早速やってみた。
結果は・・・
空気読み力:18(Cクラス/重度KY(空気読めない))
重度KY・・・ってどういうことやねん、と自分につっこんでしまうほどの散々な結果だった。
5項目あるうち、特に会話柔軟力(「必ずしも自分の本心とは異なっていても、相手に合わせたり、役割を演出することで柔軟に会話を運用することができる力」らしい)はゼロである。
自覚はしていたが、はっきりと「ゼロ」と言われると、さすがに不愉快だ。

ちなみに他の4項目を説明すると、空気支配力とは「自ら空気を作り出し、コントロールすることができる力」、人間洞察力とは「部分的な会話や表情から、他人の考えや感情を読み取る力」、文脈把握力とは「ある社会、集団、会話などの場で形成されている「コンテキスト(文脈)」を把握する力」、TPO力とは「TPOをわきまえた言動ができる力」だそうだ。

「空気を読む」という言葉が、このところすっかり定着してしまった。
私は「空気を読む」の意味を「多数に迎合し、強者に屈従する」と解釈しているので、「空気を読める」ことは単なる奴隷根性であって、有害なものとさえ考えているのだが、「世間」では逆に「空気を読めない」者を「KY」などという差別語を作り出してまで排斥している。

教室の「空気を読んで」いじめに加担し、職場の「空気を読んで」会社の偽装表示に目をつむり、ブロガーの「空気を読んで」小沢一郎を擁護する。そういうことを繰り返すと、そのうち「空気を読んで」戦争を賛美し、「空気を読んで」弱肉強食社会に賛成し、「空気を読んで」スケープゴートを攻撃することになりかねない(もうなっている!?)。

現代社会は「空気を読めない」人にとって非常に生きにくい。
私も「空気を読めない」ために、人間関係でトラブルを起こしたり、孤立したり、いろいろなことで不利な扱いを受けた。しかし、それでも自分を偽るストレスは、「空気を読む」ストレスより辛く、改めることはできなかった。
「成長していない」「昔から変わらない」とよく言われるが、こればかりは仕方ない。

あらゆる「悪」は孤立を恐れることから生じるとは、たしか三木清の言葉だが、現代の日本の人々は孤立を恐れるあまり、「空気」という同調圧力に屈しているように思える。
「空気を読まない」ことが「空気」になれば良いのだが・・・。

【関連記事】
「空気を読む」ということ

【関連リンク】
ZAWA talk 空気読み力テスト
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by mahounofuefuki | 2007-11-12 14:03

「空気を読む」ということ

爆笑問題・太田光「『空気読む』って何だよ? 周りの人間に振り回されるな!(livedoorニュース)
空気を読む」とは?爆笑問題・太田光さんの発言に関して(livedoorニュース)

私はテレビをほとんど観ないので、爆笑問題の太田光さんが普段どんな言動をしているのか、あまりよく知らない。この記事で取り上げられている「空気を読むな」という発言も、当のテレビ番組を観ていないので、詳細は不明だが、記事の通りだとすれば、まさしく「我が意を得たり」という発言である。

私は子どもの頃から「空気を読めない」人間だった。
小学生の時、担任教師が母親を亡くし、数日間忌引欠勤したことがあった。その日、私を含む数人の児童が掃除当番だったのだが、当番の中の1人が「先生が悲しんでいる時だからこそ、念入りに掃除しよう」と言い出し、私を除く子どもたちがそれに同調した。私には「先生の悲しみ」と「掃除」がどうつながるのかまったく理解できず、普通どおりの掃除をし、決められた時間に下校しようとしたが、他の子どもは帰ろうとする私を「薄情者」と非難し、罵倒した。私はそれを無視して学校を出て、連れ戻そうと追ってくる同級生を振り切り、家に帰った。つまり私は「空気を読めなかった」のである。
(ただし、この話には続きがある。私が下校した後も、遅くまで学校に残っていた同級生たちは、代理担任の教師に見つかり、叱られて帰された。翌日登校すると、その教師は事の顛末をただし、1人規則を守った私を褒め、他の子どもたちは「掃除」を口実に単に学校に居残りたかっただけだと喝破した。)

その後も、「空気が読めず」孤立したり、白眼視されることがままあった。今なら間違いなく「いじめ」の対象として迫害されていたであろう。私が子どもの頃は、今ほどコミュニケーションの巧緻が人間関係の決定的要因ではなかったから、何とか生きながらえて来れたが、「空気を読む」ことが絶対化している現在ならば、死に追い込まれていたかもしれない。

「空気を読む」ということは、「強者に従順」「多数派に迎合」ということである。
どんな不当なことでも、周りがみなやってたり、見逃しているから、という理由で容認したり、我慢する現代日本の病理の本質はここにある。
実際はそこに「空気を作り出す者」がいるのにもかかわらず、その姿は隠され、「なんとなく」流されている。しかも、たちの悪いことに、「空気を作り出す者」は無自覚である場合が少なくない。結果として無責任と無知と無抵抗が蔓延していくのである。

言いたいことを言い、やりたいことをやる、どんな権力にもはっきりものを言う。
そういうことを徹底しないと、それこそ「戦争」や「愛国」が「空気」になりかねない(そうなりつつあるが)。
「空気を読まない」人々がそれこそ多数になれば、「空気を読まない」のが「空気」になるのだが・・・。
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by mahounofuefuki | 2007-09-03 10:14