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「トンデモ空幕長」爆発!

 沖縄戦「集団自決」訴訟の控訴審が大江健三郎氏・岩波書店側の勝訴に終わって安堵していたところに、とんでもないニュースが目に入ってびっくり仰天した。航空自衛隊の制服組トップである航空幕僚長の田母神俊雄氏が、懸賞論文で「侵略、植民地支配を正当化する歴史認識を示し、憲法にも異を唱えるような」主張を行い、しかもその論文が「最優秀賞」を受賞したという(共同通信2008/10/31 19:48)。

 問題の懸賞は「アパグループ」の第1回「真の近現代史観」懸賞論文で、確かに最優秀賞受賞者に田母神氏の名があり、「日本は侵略国家であったのか」と題する論文がPDFファイルで出ていた。

 アパグループ 第一回「真の近現代史観」懸賞論文募集
 http://www.apa.co.jp/book_report/index.html

 主催者がアパで、審査委員長が渡部昇一氏という時点で、この懸賞のねらいは明白だが、実際のところ田母神論文は中国出兵合法論、張作霖爆殺事件や日米戦争のコミンテルン陰謀説、植民地善政論、日本による有色人種解放論と「おなじみ」の歴史修正主義・陰謀論言説のオンパレードである。論文というわりには注もなく、文章量も少なく、論拠に提示しているのが黄文雄、櫻井よしこ、岩間弘、秦郁彦、渡部昇一各氏らの著作で、秦氏を除いて歴史研究者ですらないところが失笑もので、論文どころか大学のレポートでも不可になりそうな代物である。

 とは言え歴史学に対する無知と無礼はともかく、「自衛隊は領域の警備も出来ない、また攻撃的兵器の保有も禁止されている」と不満を述べて、集団的自衛権の行使を実質的に求めているとなるとさすがに笑えない。現行憲法遵守義務を有する国家公務員として、文民統制に服する制服自衛官として、決して許される発言ではない。

 田母神氏と言えば、今年4月に名古屋高裁が自衛隊イラク派遣差し止め訴訟で違憲判決を出した際、記者会見で「そんなの関係ねえ」と発言して物議を醸した人だが、ほかにも暴言や問題行動を引き起こしている。

 昨年5月のクラスター爆弾禁止プロセスのリマ会議に関し、「不発弾による(日本人の)被害も出るが占領される被害の方が何万倍も大きい」と発言し、各国の参加者から厳しい批判を浴びた(毎日新聞2007/05/26 11:18)。軍事行動を優先するためには自国民の犠牲も厭わないという姿勢は、戦前の軍国主義と何ら変わらない。

 今年1月30日には航空自衛隊熊谷基地での講話で、複数の国立大学総長経験者らを「脳みそが左半分にしかない人たち」と誹謗したという(田母神空幕長がまたまた暴言か - 『自衛隊員が死んでいく』暫定ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/jieijieitaitai/16673030.htmlによる)。そういう自分が「脳みそが右半分にしかない」と言われることを想定できないのだろうか。

 最近公表された昨年の政治資金報告書によれば、田母神氏を含む現職幹部自衛官7人が元自衛官の佐藤正久参院議員に政治献金を行っていたことも明らかになっている(MyNewsJapan 田母神空幕長ら自衛隊トップ7人に政治献金疑惑 自衛隊法違反か http://www.mynewsjapan.com/reports/924)。その法的・道義的正当性に疑念がもたれる。

 かの「そんなの関係ねえ」発言の時点ですでに更迭ものだったが、その後も悪びれずにこれだけ問題行動を繰り返しているのを放置しておいては、いくらなんでも政府の涸券にかかわるのではないか。自衛隊の要職者がこんな体たらくなのは、議会政治においても、国際関係においても有害でしかない。麻生太郎首相の首相就任後の姿勢とも齟齬をきたしている以上、今度ばかりは今までの問題行動をひっくるめて更迭するべきであろう。

 当の田母神氏は今春、東京大学の「五月祭」に招かれて講演した際に「将来リーダーとなる東大の学生の皆さんは高い志を持って燃えて欲しい。上が燃えないと組織は不燃物集積所になる」と述べたというが(産経新聞2008/05/24 16:42)、航空自衛隊を「不燃物集積所」どころか「火ダルマ」にしたくなければ、勝手に炎上している幕僚長にはご退場願うべきである。


《追記》

 ・・・という文を書いていたら、「dj19の日記」によると本当に更迭されたそうだ。当然の政治判断だろう。

 田母神俊雄・航空幕僚長「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である」→即クビw – dj19の日記
 http://d.hatena.ne.jp/dj19/20081031/p2


《追記》

 リマ会議「で」という記述を、リマ会議「に関し」に訂正した。田母神氏は会議で発言したのではなく、記者会見で発言したのが、会議参加者の間で問題になった。推敲不足をおわびする。
# by mahounofuefuki | 2008-10-31 22:14

貧乏人による追加経済対策寸評

総額2兆円の定額給付
 貧乏人に必要なのは何よりも現金なので、減税よりは給付の方がましだが、一回限りでは「景気対策」としては無意味。富裕層にとってははした金で、これでカネが回るわけではない。中間層は貯蓄に回して金融資本を援助するだけ。貧困層にとっては借金の返済の足しには少なすぎ。カネをばらまいた所で解散・総選挙という魂胆も見え透いている。

雇用保険料の引き下げ
 前々から「骨太の方針」で予告されている雇用保険の国庫負担廃止の露払い。今回は「埋蔵金」で引き下げ分を穴埋めするとしても、その後は失業保険給付が削減されるのは必定。必要なのは保険料引き下げではなく、国庫負担の増額なのに。これから失業者がますます増えるのは確実な情勢だが、またひとつセーフティネットが滅ぶようです。

非正規労働者を正規化する企業への奨励金
 そんなはした金で正規雇用のイスを増やす企業なんてあるのか? こうしている間にも派遣社員の解雇が続出しているが、そういう現在進行形の問題への対策はない。企業に丸投げしないで、政府が公務員を増やして「氷河期世代」の貧乏人を優先採用すべし。

住宅ローン減税
 住宅を買える幸せな人々より、今日寝床のない人のためにカネを出してほしい。とりあえず保証人がいない人や敷金を払えない人のための信用保証を政府が責任をもって行うべし。公営住宅の拡充も必要。

金融機能強化法の復活
 健康保険料を滞納すると保険証を取り上げられ、年金保険料を滞納すると将来の年金給付はなくなる。それに引き換え銀行への予防的公的資金注入は、いわば保険料を支払っていないのに給付がもらえるようなもの。貧乏人にはさんざん「自己責任」=「自力救済」を強要しながら、銀行にはこのサービスぶり! せめて「注入」ではなく返済期限のある「貸出」にするのが本来の市場のあり方なのでは?

証券優遇税制の延長
 この期に及んで金持ち優遇策! 前に歳出削減路線の帰結としての「タンス預金」30兆円で言及したように、いくら優遇しても「将来の不安」が大きいほど投資には回らないのは実証済み。もう金持ちたちのギャンブルのツケを貧乏人が支払うのはたくさんだ。

高速道路料金引き下げ
 土日に限り1000円という発想の貧しさ。流通経済における輸送コストの軽減なら平日の方こそ重点的にやらないと駄目でしょう。いずれにせよ高速で遠出できるような身分ではない私にはどうでもよい施策だが。

3年後の消費税引き上げ
 これで「景気対策」のすべてを台無しにしてしまった自爆政策。引き上げ時期を明言した首相は麻生氏が初めてだが、ついにこの問題で不退転の決意を表明したというわけだ。弊ブログでは昨年来何度もしつこく指摘したが、消費税増税は貧困拡大の愚策であり、必要なのは富の再分配を強化するための直接税(所得税・法人税・相続税)の増税である。


 麻生内閣の追加経済対策を端的に評するならば「貧困対策には程遠く、景気対策ですらない、どさくさまぎれの金持ち救済政策」というところだろう。これでは貧困は拡大こそすれ、是正することはないし、そもそも麻生政権の視野には富裕層と巨大企業しか入っていないことが明示されたとも言える。政治における貧乏人の発言力を高めない限り(貧乏人の代弁者たりうる政党・議員を増やさない限り)、いつまでもこんな状態が繰り返されるだろう。

【関連記事】
消費税増税問題リンク集
非正規公務員の「ワーキングプア」化~貧困対策としての正規公務員増員政策の必要性


《追記 2008/10/30》

 「はてなブックマーク」で「税金の半分はトップ5%の富裕層が賄っていて、それを使って金持ちを救うのだから、そもそも貧乏人が俺たちにもっと寄越せと言うのは筋違い」というアホみたいなコメントがついていたが、その主張は「富裕層しか税を支払っていない」か、今回の対策の財源が「富裕層の支払った税だけ」でないと成立しないので全く論外である。そもそも貧困は自然発生ではなく、金持ちの経済活動自体が貧困を生んでいる以上、「被害者」たる貧乏人は「加害者」から補償を得る権利がある。「嫌なら金持ちに頭使ってのしあがれ」というに至っては、経済対策の話とは全く関係がなく(仮に私個人が金持ちになったところで景気が良くなるのか?貧困は是正されるのか?)、「頭使った」くらいで貧乏人の子弟が金持ちになれる社会だと本気で信じているとすれば、よほどおめでたいやつだ。お前こそそんなセリフはせめて本当に金持ちになってから吐けよ。
# by mahounofuefuki | 2008-10-30 21:11

「官僚主犯説」が財界の政治介入を促進する

 ずいぶん前から「政治改革」議論となると「官僚支配」の打破ということが叫ばれ、現在の「政権交代」論でも官僚の政策決定過程からの排除や民間人の登用を求めるオピニオンは多い。「世間」における公務員バッシングと併せて、あたかも官僚制さえ潰せば全てうまくいくというわけだが、果たして本当にそうなのか?

 この「官僚バッシング」について、法政大学教授の杉田敦氏が今月の『世界』で次のように指摘していた。私には至極納得できる内容だ。
 いまおっしゃったこととも関係してくるのですが、日本では従来は官僚が政策立案の中心になって、よくも悪くも官僚がやってきた。これに対して、とくにいわゆる90年代からの政治改革等の議論では、官僚支配から政治家中心へということが叫ばれ、選挙制度改革とか、内閣機能の強化が行われ、政治家、なかでも総理大臣に権力を集中させることは正しくて、官僚と言う、選挙で選ばれたわけではない人たちに政策機能をもたせるのはおかしいという話になった。これ自体は、もちろんそういう側面はあるし、官僚が独走するようなことはたしかによくない。
 ただ、官僚を独走させないためには、政治家がそれだけの政策機能を高めていく、あるいは政党中心で政策立案していく、そういうシステムをつくることが必要なのに、そちらはほとんど進まないで、官僚批判ばかりやっていたわけです。
 とくにこの数年は、官僚とか公務員を叩くことが主要な政治的なテーマになってしまっている。もちろん腐敗した官僚は叩かなければいけないし、必要な批判はしなければいけないのですが、ポジティブなかたちで、では、官僚中心でないならばどうするのか、それにはやはり政党とか政治家とかそれを支える市民の意識も含めて、大きく変わらなければいけない。それにもかかわらず、たんに官僚を批判すればいいという非常に瑣末な議論に陥ってしまっている。 (杉田敦の発言より、石田英敬・杉田敦「『政治』をどう建て直すか――メディアポリティクスの果てに」『世界』2008年11月号、p.132、太字強調は引用者による)

 実際、薬害を放置した厚生官僚とか、汚染米転売を黙認した農林官僚などはっきりと個人責任を問うべき例も少なくないのだが、問題はただバッシングを繰り返してはそれだけで自己満足に終始し、結局官僚制に代わる政策立案機能を全く確立できていないのが実情だろう。高級官僚を排除して、国会議員が直接行政の執行を指揮すると言っても、現実問題として全部合わせて数百人しかいない与党議員が中央行政すべてを仕切れるはずもなく、それを支える政党のブレーン機能はどの党も不十分である。

 杉田発言に付け加えるならば、「官僚バッシング」の帰結が、無能な議員による「政治主導」「官邸主導」と財界による政策決定過程への介入でしかないという現実を見過ごしてはならないことだ。前者に関しては安倍内閣がその典型で、公務員制度「改革」に熱心な一方で、「チーム安倍」なる無能なボンボン集団が政治をかき回したことは記憶に新しい。後者に関しては特に中曾根内閣の「行革」以来、財界人が政府の審議会や有識者会議などを通して直接政治に介入するようになり、また現場レベルでは大銀行や大企業のシンクタンクとの人事交流や「天上がり」も増大した。その最悪例が小泉内閣時代の経済財政諮問会議であったことはもはや誰も否定しえないだろう。

 近代日本国家の基軸は確かに官僚制であり、諸外国と比較して官僚の無責任は際立ってはいる。とはいえ現状では政財官三者の権力バランスの中で極端に官だけが弱まるのは、結果として他の二者を強化するだけで決して民衆の利益にはならない。特に「官」から「民」へという美名の実態は財界の政治介入である。官僚嫌いの人々は「官僚主犯説」をとりがちだが、私は「財界主犯説」で、一方で政治献金を通して大政党をコントロールし、他方で行政機構と直接人的関係を結ぶことで、巨大資本は自らの利益に沿った政策を行わせていると考えている。本当に必要なのは財界を政治から切り離すことである。

 最近の金融危機への対応や不況に伴う財政政策の転換、さらには衆院選の先送りに至るまで、政府はいずれも財界の希望に忠実に従っている。企業献金にどっぷりつかっている自民党ならば当然だが、民主党も相変わらず官僚制の解体を公約に掲げ、景気対策や金融救済では財界の歓心を買うことを与党と競っている。だいたい小沢一郎氏のブレーンは財界人ばかりである。民主党は財界を政治から切り離すどころか、官僚たたきに乗じて財界の政治介入を促進しそうである。

 財界批判なき官僚批判は危険であることを改めて強調しておきたい。
# by mahounofuefuki | 2008-10-28 20:01

橋下徹における「組合嫌い」と「体罰好き」の相克

 橋下徹という人は次から次へとエキセントリックな行動を繰り返しては衆目を集め、そのたびに自らを「世間の敵」や「空気の読めないやつ」と戦う「フツー目線」の代弁者を気取って人気を獲得しているのだが、またしても彼にとって格好の舞台があったようである。以下、読売新聞(2008/10/27 00:33)より。
 大阪府の橋下徹知事と府教育委員らが教育行政について一般参加者と意見を交わす「大阪の教育を考える府民討論会」が26日、堺市の府立大学で開かれた。

 訪れた教職員の一部から再三ヤジを飛ばされて興奮した知事が「こういう教員が現場で暴れている」「(日教組批判などで国土交通相を辞任した)中山成彬前大臣の発言はまさに正しい。これが教育現場の本質」と述べる一幕があった。

 また、子どもの指導方法についても言及した知事は、「ちょっとしかって、頭をゴッツンしようものなら、やれ体罰と叫んでくる。これでは先生は教育が出来ない。口で言ってわからないものは、手を出さないとしょうがない」と、体罰容認とも受け取れる持論を展開した。

 橋下氏の主張に従えば、要するに組合教師はダメで、体罰を行う教師はよいということになる。

 私は小学生の時に日教組の教師に体罰を受けたことがあるんだけど。

 ・・・と不快な記憶が蘇るが、「毅然と」体罰を行う教師が組合員の場合も多々あるわけで、その場合橋下氏はどう応えるのだろうか。「組合嫌い」を重んじて体罰を批判するのか、「体罰好き」を重んじて組合を支持するのか、聞いてみたいところだ。

 世間的には教職員組合=左翼=民主的=「子ども」中心と誤解されているが、元来左翼の教育論は「教師の指導性」と「子どもの平等」を何よりも重視する。子どもは学校教育を受けない状態では悪しき資本主義社会のイデオロギーの影響下にあり、それを正しく矯正するのが教師の役目というわけである。実際、私が大学で教職課程をとっていた時、講師で来ていた全教(日教組の連合加盟に伴い分裂した組合、共産党系の人が多い)所属の教師は、基礎的知識はすべての子どもに教え込まなければならないと力説していた。また、教職員組合で熱心に活動していた教師がしばしば生徒を懲罰として殴っていた例も見ている。ある意味「教師の指導性」重視の当然の帰結である。

 一方、これに対して文部科学省は1980年代頃から「教師の指導性」を軽視するようになり、「子どもの平等」を否定した「新しい学力観」が幅を利かせていた時期には、教師を子どもの「指導者」ではなく「支援者」と位置づけていた。よく「ゆとり教育」と俗称された時代の学校教育の特徴は、学習内容の削減もさることながら、何よりも子どもの「個性」や「意欲」を重視し、教師は子どもの本来の属性を引き出すのが仕事であるとされたことにある。極端な話、子どもが問題を起こしても、それは「個性」であって矯正されるべきでないとなってしまったのである。そして、当然の結果として教師の地位は低下した。教職員組合は当初から教師の指導性を奪う「改革」に抵抗していたのは言うまでもない。

 以上のような経過を知っていれば、橋下氏やその背後に控える「世間」が求める、問題のある子どもを時には力でもって押さえつけ、「モンスターペアレント」の介入も跳ね返すような「強い教師」像は、実は左翼系の教職員組合のもので、文部科学省やその背後にいる中山成彬氏ら「文教族」こそが「組合つぶし」を通して教師を弱体化させたことは自明なのである。橋下氏がいかに思い込みだけで矛盾した行動をとっているか明らかだろう。

 正直なところ学校教育に関しては橋下氏に限らず「外野」が口を出し過ぎなのが現状である(素人ばかり集めた安倍内閣の教育再生会議がその典型)。政府も教師の立場を弱める政策ばかり続けている。そうではなく、医療の世界で医師免許のない者が医療行為を行えないように、教育の世界でも教師や教育学者の専門性と独立性を回復し、教育内容や教育方法については専門家に委ねることが、学校教育再建の唯一の道だと思う。

【関連記事】
教育再生会議最終報告について
教育の「平等」をめぐる齟齬~和田中の夜間特別授業
「日本のがん」中山成彬が勝手に「ぶっ壊れる」
# by mahounofuefuki | 2008-10-27 20:22

福祉国家の「あり方」と「道筋」をめぐる問題

 サブプライム問題に端を発した金融危機により、世界的に新自由主義の凋落が決定的になっているが、問題は世界恐慌以来とも言われる大型不況のために、結局はまたしても貧困層ほどダメージを受けそうなことで、それを最小限に抑えるためには早急な富の再分配と社会保障の再構築が必要である。

 貧困を解決するために、以前から私は福祉国家路線への転換を求めてきたが、新自由主義が終焉を迎えつつある以上、今後の焦点は福祉国家の「あり方」と「道筋」をめぐる問題に移らねばなるまい。その場合、忘れてはならないのは、過去の欧州の福祉国家路線がなぜ破綻し市場原理主義に敗れたのかという点で、福祉国家そのものに内在する構造的弱点を克服しない限り、ポスト新自由主義時代に福祉国家を蘇らせることは難しく、同じ失敗を繰り返すことになりかねない。

 福祉国家の構造的弱点と破綻の経過については、西川潤氏の次の指摘が非常にわかりやすい。
(前略) 従来、福祉は国家が担当していた。つまり、国内の貧富の格差、破産、失業など不平等が増大し、社会不安や社会紛争が起こるのを避けるために、政府が公共政策を通じて福祉政策をとってきたのである。しかし、グローバリゼーション時代になって、政府のこの役割が破綻することになる。「福祉国家の破産」である。これには二重の要因がある。
 一つは1973年の石油ショックに始まる南北関係の修正である。
 福祉国家はもともと南北の国際分業体制の上に利益を獲得してきた先進国が、その利益に基づいて構築したのだが、石油ショックに始まる原燃料価格の修正、一次産品国の分配要求の高まりによって、南から北への余剰移転を用いて先進国の福祉をまかなうことが難しくなった。
 第二は、福祉国家の高齢化である。所得が高まり、人びとが長命化すると子どもをせっせとつくって子孫を維持する必要も少なくなる。高齢化と少子化はセットなのだが、少なくなる子どもが増大する高齢者を支えることはだんだん難しくなる。これに福祉国家を支える官僚機構が肥大して行政コストもかかる一方となってきた。
 こうして1980年代に「小さい政府」の必要性が叫ばれるようになり、福祉サービスも民営化されてきた。だが民家企業は営利目当てで運営しているので、福祉サービスはお金のある人でなければ受けられない事態になる。(後略) (西川潤『データブック貧困』岩波書店、2008年、p.43)

 第二の点の方は公民権の取得を前提とした移民の増加で人口減には対応できるし、高齢人口はピークを過ぎれば減っていくので何とかなる問題だが、第一の指摘は決定的な弱点を突いている。つまり、20世紀の西欧・北欧型福祉国家は国際的な南北格差の存在を前提とし、「南」から「北」への富の転移(「南」からすれば収奪と言うべきだろうが)があってはじめて成立したということである。現在も国際的な分業体制自体は継続し、むしろ強化されている面もあるが、かつての「南」側から新興工業国が次々と出現している中で、従来のままの構造の福祉国家がそのまま復活することは難しいし、するべきでない。この点をどうするのか。

 もう一つ。福祉国家へのプロセスの問題がある。以前も消費税のエントリで言及したことがあるはずだが、福祉国家の「高負担・高福祉」は理論上は国家のすべての構成員が負担に耐えられるだけの所得を有していることが必要となる。そのためにはまず徹底した所得再分配を通して平等状態を形成することが必要だが、一方で富を手放したくない既得の支配層にとっては、負担に耐えられない弱者を切り捨てて、国家内で「高負担・高福祉」層と「低負担・低福祉」層を分断した方が手っ取り早いことになる。

 かつて北欧諸国で福祉国家草創期に障害者や少数民族などマイノリティに断種を施し、人為的に「均質な国民」を形成しようとしたことがあるが、同様に現状の貧乏人を排除して「現時点で税を負担できる人々」だけで「福祉国家」を形成する可能性なきにしもあらずである。今後は単に福祉国家の可否ではなく、福祉国家への道筋を巡る階級間対立が顕在化し、雇用待遇差別問題のように、中間層と貧困層の対立が煽られて、結局富裕層が漁夫の利を得るような危険もありえよう。

 もはや福祉国家に転換すべきかどうかという議論の段階は終わり、今後はどうすれば福祉国家を実現し維持しうるのかという問題が重要となろう。私は「素人」の分をわきまえずに「対案」を出さないと無責任だと言うような恥知らずではないので、ここでは批判と問題提起にとどめ、後は専門家の議論を待ちたいところである。

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# by mahounofuefuki | 2008-10-26 16:56