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天皇と皇太子の疎隔の深層

 宮内庁の羽毛田信吾長官が2月13日の記者会見で、皇太子徳仁親王一家が天皇・皇后を訪問する回数が少ないことに苦言を呈する発言をして以来、皇室をめぐってさまざまな憶測が囁かれ波紋を呼んでいる。羽毛田氏の発言は、表向きは敬宮愛子内親王を皇居に連れて来ないということを問題にしていて、皇太子も2月23日の誕生日前の記者会見で「家族のプライベートな事柄」と述べているように、一般常識から言えば「孫を祖父母に会わせない」というどうでもよいことである。
 その「どうでもよいこと」をなぜあえて宮内庁長官が公にしたのか。2004年に皇太子が雅子妃の「人格を否定する動き」が宮中にあったという暴露を行って以来、天皇と皇太子の間にある種の「疎隔」があるのではないかという疑いがあるが、その原因は「家族のプライベート」にとどまらないのではないか。羽毛田氏の皇太子「批判」については、いわゆる「千代田」(皇居・宮内庁)と「赤坂」(東宮職)の縄張り争いを指摘する向きもあるが、私にはもっと深刻な問題が横たわっているように思う。

 この問題を考えるヒントとして、今月発売された『論座』3月号に掲載された明治学院大学教授の原武史氏の論文「21世紀の象徴天皇制と宮中祭祀」を紹介したい。皇室における宮中祭祀の位置と現天皇の祭祀への熱意を明らかにしている。
(前略) 現天皇は、宮中祭祀に非常に熱心である。宮中祭祀とは、皇居内の宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)で行われる祭祀のことで、天皇が出るべき祭祀は、1年間に30回前後もある。
 昭和天皇の場合は、侍従長となる入江相政の判断により、60年代後半から徐々に掌典長による代拝を増やしていったが、現天皇は古希を過ぎても、一向に代拝させる気配がない。
(中略)
 宮中祭祀はいまも、1908年に制定され、47年に廃止された皇室祭祀令におおむねのっとって行われている。それによれば、祭祀には大祭と小祭がある。前者は女性皇族が出席できない新嘗祭を除いて、皇后や皇太子妃も出席が義務づけられるが、後者は天皇と皇太子だけが出席すればよいことになっている。
 だが実際には、新嘗祭を除く大祭はもちろん、一部の小祭にすら、天皇と皇后がともに出席している。天皇が前立腺がん手術に伴い静養していた2003年1月から5月にかけては、皇后がずっと出席した。ちなみに皇太子妃は、03年9月を最後に出ていない。(後略)
 宮中祭祀というのは、無知な右翼ナショナリストが信じているような古来続いたものではなく、明治維新後に創出されたものである。戦前「臣民」に強制された国家神道の中核は皇室による宮中祭祀だった。敗戦後、占領軍のいわゆる「神道指令」により国家神道が解体され、日本国憲法施行後は政教分離原則により、宮中祭祀は皇室の私的行事となった。
 しかし、原論文も指摘しているように、今も宮中祭祀は戦前の皇室祭祀令に準拠して行われ、「建国記念の日」=「紀元節」、「春分の日」=「春季皇霊祭」、「秋分の日」=「秋季皇霊祭」、「勤労感謝の日」=「新嘗祭」、「天皇誕生日」=「天長節」というように、いまだ宮中祭祀に起源をもつ祝日が多く現存している。天皇の行動は憲法に制約される以上、政教分離原則を厳密に適用すれば、限りなく憲法違反の疑いが濃厚な状態にあると言える。

 天皇が宮中祭祀に熱心なのは、戦前の天皇制が抑圧装置として民衆に君臨し、また建前においても実質においても天皇が「大元帥」として軍国主義に加担した過去を反省し、天皇の役割を「国民」の平穏を祈ることに求めているためと考えられる。政教分離への無自覚は別として、天皇は再三にわたり日本国憲法の遵守を明言し、機会をみて近年のタカ派傾向を批判もしてきた。天皇制の存続のためには「平和への祈り」が不可欠と考えている節がある。
 しかし、皇太子の方には祭祀への熱意はない。1950年代生まれの彼にしてみれば、旧態依然の祭祀は不合理に映っているのかもしれない。ましてや外国生活が長かった皇太子妃はなおさらだろう。宮中正殿に上がるたびに潔斎を要求されるような慣習にはついていけないはずだ。雅子妃の「適応障害」とは宮中祭祀に「適応」できないというのが原因ではないかとさえ私は思っている。

 羽毛田発言の背後には天皇の宮中祭祀継承への不安があるのではないか。表向きは愛子内親王をダシに使ってはいるが、実際は直接皇太子に自らが信じる宮中祭祀の重要性を説き、次代にも「祈る天皇」像を継承させたいのではないか。
 最近、天皇が骨粗鬆症に罹患している可能性が公表され、祭祀への出席も見直すことも明らかになった。皇后も近年病気がちであり、いよいよ宮中祭祀を皇太子が担わなければならなくなる。天皇は自らの健康に不安があるからこそ焦りがあり、それが異例の宮内庁長官の皇太子「批判」につながったというのは穿ち過ぎだろうか。

 われわれ主権者としては、宮中祭祀が憲法の政教分離に違反しているのではないか、国税を費やして行うに値するものなのかという点こそ問題の本質と考えねばならない。マスメディアののぞき見趣味的な報道では見えない、皇室の「宗教性」を問題とする視覚が今後必要だろう。
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by mahounofuefuki | 2008-02-29 13:04

「あたご」航海長無断聴取は文民統制の逸脱だ

 いわゆる「フツーの人々」と軍事関係の話をしていると、「現場の自衛官」は「国のために一生懸命働いている」が、「背広の官僚」は「汗を流さず」甘い汁を吸っているという憤りに出会うことが多い。守屋武昌前事務次官の汚職容疑に端を発した防衛利権を巡る疑惑の影響もあるだろうが、デスクワークへの不信と表裏一体の「現場」信仰のようなものが、この国の社会には根強くあるような気がする。何となく(というのが実は曲者だが)「計算高そうな背広」より「純朴な制服」の方が信用できるという根拠のない信仰である。

 実際は戦前の日本軍の制服軍人たちが「統帥権の独立」を盾に「暴走」したのは周知の通りだし、先の大戦中に戦局が日本軍に不利となると、一般向けには虚偽の戦果を捏造して発表したりした。いわゆる「大本営発表」という言葉が誇大な虚偽言説を指すようになった所以である。「現場」の「制服組」ほど「国防を担っている」という自負が強く、それは容易に特権意識に転化し、「国を守るという崇高な仕事をしているのだから、何をやっても許される」という自己肥大化妄想に囚われやすかったのだ。
 戦後「再軍備」の過程では「文民統制」が最も重要な課題の1つであった。制服自衛官だけでは防衛庁長官には面会できない(必ず文民官僚が同席する)という慣行も戦前の反省から生まれた。大衆の素朴な信仰とは裏腹に現実の政治力学においては、「制服組」を野放しにはしないという意思は戦後長らく保守政権でさえも保持していた。

 海上自衛隊のイージス艦「あたご」が海上衝突予防法に違反して衝突回避義務を怠り、マグロ延縄漁船を文字通り「蹴散らした」事件で、防衛省の虚偽発表が次々と明らかになっている。
 特に事件当日、わざわざヘリコプターを差し向けてまでして「あたご」の航海長を東京の防衛省に呼び寄せ、防衛省首脳が事情聴取を行っていたことは重大な問題である。誰がどう見ても事件の真相を隠ぺいするために、海上保安部の聴取より前に「口裏合わせ」を密談していたとしか考えられない。

 しかも、「あたご」航海長の召喚と事情聴取を、海上幕僚監部は海保どころか防衛大臣の了承を得ずに行っていたというのは、文民統制上あまりにも危険である。イージス艦という最重要のセクションの、それも航海長という要職者の所在の変更を大臣の了承がなくとも行えるのである。これでは極端な話、大臣の知らない所で幕僚が任意に兵力を動かして反乱を企てることすら可能になる。
 海幕が大臣に了承を得ずに「あたご」航海長を呼んだことに加え、石破氏がそれを咎めるどころか自ら航海長との会談を望み、大臣室で事情報告を受けたことも問題だ。石破氏は国会で「(海幕に)呼べという指示は出していないが、呼ぶこと自体は不適切だと思わない」と答弁した(毎日新聞2008/02/28 22:16)。大臣(及び内局)が自ら「制服の暴走」を容認し、捜査妨害と隠蔽工作に加担したのだ。もはや国務大臣としての資質を疑わせる。

 事件から今日までの防衛省・自衛隊の発表はまるで「大本営発表」のようにウソだらけだった。そしてそれは現在も進行中である。福田首相は一連の失態を文民統制の危機と捉えねばならない。首相がまともな感覚の持ち主ならば、すみやかに石破防衛大臣を罷免し、後任の大臣には事務次官、統合幕僚長、海上幕僚長以下、今回の航海長召喚に関係した高官と幕僚すべてを更迭するよう命じるべきである。この国の「軍部」の体質は戦前から何も変わっていない。そんな連中にイージス艦のような「危険なおもちゃ」を持たせるのは言語道断だ。

【関連リンク】
防衛省・自衛隊
海上自衛隊
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by mahounofuefuki | 2008-02-28 23:25

ハローワークさらに削減へ~公務員減らしは行政サービスを悪化させるだけ

 この国では行政不信があまりにも深いため、「役所は小さければ小さいほどよい」という信仰が今も幅を利かせている。何かというと「民営化」「公務員削減」で、右も左も「行政改革」というと無条件で喜ぶ。昨年の独立行政法人「改革」の際も真っ向から反対した人が何人いたか。民営化=効率が上がるという「神話」が成立しないことは、すでに郵政民営化で学習済みである。
 「行革」の現実を如実に示すニュースがある。以下、日本経済新聞(2008/02/26 07:00)より(太字強調は引用者による)。
 厚生労働省は公共職業安定所(ハローワーク)を2008年度中に26カ所廃止する方針を決めた。廃止の内訳は安定所が8カ所、より規模の小さい出張所と分室が合わせて18カ所。また、16カ所を安定所から出張所に格下げする。ハローワークの数とともに職員の定員も減らし、人件費の削減につなげる。(後略)
 全国にハローワークは600か所以上あったが、小泉・安倍時代の2005-07年度に32か所が廃止された。そして「生活者重視」を掲げる福田政権になっても職安切り捨て路線を続けることが明らかになったのである。まさに看板に偽りありである。

 インターネットで求人を検索できるようになったため、職安の規模は縮小するべきであるという見方があるが、職安の仕事は職業紹介だけではない。企業側への行政指導や雇用保険業務や労働者からの相談に応じる仕事もある。「貧困と格差」が拡大し、有期雇用が増える中で、ハローワークの役割はかつてよりも重要になっている。
 ハローワークの削減は何より弱い立場にある人々のことを全く考慮していない。たとえば雇用保険による失業給付を受ける手続きを行うには、必ず職安へ足を運ばねばならない。削減されるエリアの失業者は今までよりも遠方の職安まで行かなければなくなる。交通費が支給されるわけでもないのに、とんだ理不尽な仕打ちだ。

 「行政の無駄を省く」という美名のもとで実際に進行しているのは、行政サービスの悪化である。主権者は行政のコスト削減を要求するのではなく、コストに見合った行政サービスの充実を要求するのが筋である。いいかげん公務員が少ないほどよいという「行革神話」から目を覚ましてほしい。

【関連リンク】
ハローワークインターネットサービス
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by mahounofuefuki | 2008-02-27 13:18

プリンスホテルのお粗末~「イドメネオ」事件と比較する

 2006年9月、ドイツのベルリン・ドイツ・オペラがその年の11月に予定していたモーツァルトの歌劇「イドメネオ」の上演を中止することを決定して、大問題になったことがあった。この上演では最終場でブッダ、キリスト、ムハンマドの切られた「首」を並べるという演出があり、2003年に同劇場で初上演した時は芸術的な評価においては賛否両論だった。
 (*本来の台本ではそんな演出を指示していないが、現在の特にドイツ語圏のオペラ上演はいわゆる「読みかえ」が行われるのが普通で、問題の上演の演出家ハンス・ノイエンフェルスは前衛的(というより過激)な演出で知られている。)

 2006年の再演中止の理由は、ベルリンの警察当局から問題の場面をイスラムの創始者ムハンマドを冒涜していると考える「イスラム過激派」によるテロの危険があるという警告を受けた自主規制だった。当時、デンマークの新聞がムハンマドを風刺する漫画を載せたことが、イスラム教徒の反発を呼び、国際問題になっていたことも影響していた。
 中止が報道されるやいなや、ドイツでは大きな議論を呼び、その多くは歌劇場が潜在的暴力に「屈伏」して、表現の自由を曲げたことへの抗議であった。特に政治家たちが歌劇場の判断を強く批判した。メルケル首相も当時「中止は間違いであると思う。イスラム教の下で暴力を使いたがる人々と戦うためには、自己検閲は助けにはならない」「暴力を使おうとする過激主義者たちを怖がって、どんどん譲歩していくようにならないために注意すべきだ」と「テロとの戦い」の観点から自粛を批判した(ベルリンのオペラの臆病?-OhmyNewsによる)。また何よりドイツ国内のイスラム指導者らが上演中止を批判したことも注目に値する。

 ここからが日本とは異なり民主主義の成熟した国らしいのだが、歌劇場は上演中止の是非に関する公開討論会を開き(テレビで中継された)、そこでの議論を経て、結局歌劇場側は中止を撤回し、年内に「イドメネオ」の上演は混乱なく(警備が通常よりかなり厳重ではあったが)行われた。ドイツでは「目の前の聴衆が負うリスク」よりも「テロに屈して表現の自由を失うリスク」の方を重視したのである。


 日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会の会場に予定していたグランドプリンスホテル新高輪が、日教組との使用契約を一方的に破棄し、東京高裁がホテル側に契約の履行を命じる判決を下したにもかかわらず、ホテル側は判決を無視し、結局集会が中止になった問題について、ホテルの経営陣が記者会見を行った。
 毎日新聞(2008/02/26 19:55)によれば、プリンスホテルの親会社である西武ホールディングスの後藤高志社長は「憲法は集会の自由を保障しているが、個人の尊重もうたっている。集会当日には周辺の学校で7000人が受験に臨んでおり、街宣車が押し寄せたら取り返しのつかぬ事態になった」と述べたという。日教組に対する右翼団体の「街宣」という名のテロに屈したことを改めて正当化したと言えよう。
 法を破り、裁判所の命令も無視し、「7000人の受験生」をダシに使う。暴力団は宿泊させているくせに。とんだ無法者で卑怯者だ。

 ドイツの「イドメネオ」事件と比較する時、言論・集会・表現の自由の重要性に対するこの国の人々の認識の低さに呆然としてしまう。前にも述べたが、問題を引き起こしているのは右翼団体の方であって、日教組ではない。街宣は言論活動ではなく、純然たる暴力であり、今国際社会がそれこそ目の敵にしている「テロ」そのものである。この国では「テロとの戦い」というとなぜかアメリカに従属して派兵することだと勘違いしている輩が多いが、むしろ本当のテロリストはわれらの足元に巣食う暴力的右翼ではないのか。
 ドイツの政治家は与野党、左右を問わず、「イドメネオ」の上演中止を非難するメッセージを発した。ところが日本の政治家はどうだ。政府サイドからは例えば法務大臣がプリンスホテルを批判する発言をしたが、ほとんどの政治家は黙殺している。日教組が支援する民主党もとてもこの問題に本腰を入れているとは言い難い。こうしたテロに対しては、本来与党も野党も右も左もなく、言論の自由を擁護するためのリアクションをとらなければならない。それができない国家は民主主義国家ではない。

 政界の暴力に対する消極姿勢がテロに勢いを与え、プリンスホテル側の弱腰を誘ったとも言える。後藤氏の言葉に引き付ければ、集会の自由や貸借契約の履行義務は「7000人の受験生」を犠牲にしてでも守らねばならない価値だ。これを理解できないうちはこの国はいつまでたっても保守専制国家のままだろう。
 プリンスホテルは集会参加者の宿泊予約を一方的に解除した件で、旅館業法違反に問われている。当然営業停止処分を下すべきであるが、ホテルだけでなく、街宣のテロリストにもペナルティを課さないと同じ事が繰り返されるだろう。自民党や公明党や民主党の政権には無理だろうけど。

【関連記事】
暴力的威嚇に屈するということ~日教組教研集会会場問題

【関連リンク】
【ドイツ】オペラ座、『イドメネオ』で厳戒態勢/NNA.EU
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by mahounofuefuki | 2008-02-26 23:46

米兵の暴行事件、イージス艦事件、「ロス疑惑」再燃の共通項

 『週刊文春』の「疑惑の銃弾」と題する記事をきっかけに、いわゆる「ロス疑惑」がマスメディアを騒がした当時、私は小学校に上がったか上がらないかという年齢であり、事件そのものについては全く理解できなかったが、「三浦和義」という名前とテレビに何度も映された彼のサングラス姿だけは鮮明に記憶に焼きつけられた。
 今にして思えば、あの事件こそ刑事事件を大衆の「娯楽」にするワイドショー型事件報道のはしりだったわけで、幼児の脳裏に残るほどテレビの影響力は絶大だったことを改めて認識しなければならない。

 周知の通り「ロス疑惑」の核心である三浦和義氏の当時の妻が銃撃された事件について、日本の最高裁では三浦氏の無罪判決が確定している。今になって突然アメリカの警察当局がサイパンに滞在していた三浦氏の身柄を拘束したことに疑念が出るのも当然である。
 特に在日アメリカ軍の軍人による暴行事件をはじめとする一連の不祥事や海上自衛隊のイージス艦「あたご」が漁船に衝突した事件から、マスメディアの矛先を変えさせるための「陰謀」を疑う声が出ている。たとえば日頃「陰謀論」を批判しているきまぐれな日々でさえ、「日本国民の目をそらさせたいであろうアメリカによる「陰謀」を疑いたくなってしまう」と述べるほどだ。

 私には「陰謀」説を肯定することも否定することもできない。ただ、私が思ったのは米兵の暴行事件、「あたご」事件、そして今回の三浦氏の逮捕の3つに共通するのは、「アメリカの横暴」が背景にあるということである。
 暴行事件については言うまでもない。日米安保体制と在日米軍の存在が「公認された殺人者」たるアメリカ兵を野放しにし、市民生活を脅かした。「あたご」事件は日本の自衛隊の問題だが、そもそもイージス艦は日米軍事一体化の過程で、特にアメリカ主導のミサイル防衛システムの構築と関わって建造されたことを考えると、結局はアメリカの軍事戦略が事件の遠因とも言える。いずれも日本に従属的軍事パートナーの役割を押し付けるアメリカの対日政策が通奏低音となっていることは疑いない。

 そして、今回の「ロス疑惑」の件。確かに事件そのものはアメリカ領内で発生したので、今もアメリカには裁判権があるし、ロスアンゼルスを含むカリフォルニア州の州法では殺人罪に公訴時効がない。逮捕や起訴の手続きは合法だろう。
 しかし、日本ではすでに無罪が確定し、時効も過ぎている。日本国憲法第39条は「同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない」と、国際人権規約もB規約第14条で「何人もそれぞれの国の法律及び刑事手続に従って既に確定的に有罪又は無罪の判決を受けた行為について再び裁判され又は処罰されることはない」と定めている。いわゆる一時不再理の原則で、条文上は別の国での裁判や処罰を妨げないが、本来刑事訴訟については慣習上、国際間でも適用されるべきである。
 さらに日米間には犯罪人引き渡し条約が存在する。条約第4条は「引渡しを求められている者が被請求国において引渡しの請求に係る犯罪について訴追されている場合又は確定判決を受けた場合」は引き渡しを行わないと定めている。この規定故にアメリカ側はたとえ「新証拠」があっても、日本側に「確定判決を受けた」三浦氏の身柄引き渡しを要求することができない。条約上身柄引き渡しができない者を、たまたま自国領内にいたからという理由で逮捕勾留するのは人道上疑問が残る。

 「ロス疑惑」の再燃で在日米軍や自衛隊の不祥事が霞むのを心配するのならば、むしろこれらをつなぐ共通項である「アメリカの無法と横暴」を強調する必要があるだろう。

《追記》

 本文中「一時不再理」は誤字で、正しくは「一事不再理」でした。おわびして訂正します。

【関連リンク】
きまぐれな日々 突然の三浦和義氏再逮捕と「9.11」の因縁
日本国憲法-法庫
市民的及び政治的権利に関する国際条約(B規約)第三部-外務省
日本国とアメリカ合衆国との間の犯罪人引き渡し条約-国際法研究室
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by mahounofuefuki | 2008-02-25 12:31

再度答える。「正社員の解雇自由化」は社会の崩壊を招く。

 経済系出版社ダイヤモンド社の論説委員である辻広雅文氏が、正社員と非正社員の待遇差別を縮小するためには正社員の解雇自由化が必要だという珍説を公表したことに対し、当ブログは2月5日付エントリで全面批判を行った(「非正社員が正社員になりたかったら、正社員の解雇自由化に賛成しろ」という悪魔の囁き参照)が、その辻広氏がまたしても2月20付のコラムで持論を展開していた。
 再度問う。正社員のクビを切れる改革は本当にタブーなのか?|辻広雅文 プリズム+one|ダイヤモンド・オンライン

 辻広氏によれば前の記事には「轟々たる批判、非難が寄せられた」そうで(当り前だ!)、まずはそれらを整理し再反論を試みているのだが、いずれもトンチンカンで全く答えになっていない。
 第1に正社員と非正社員が入れ替わるだけでは、労働待遇の不均等自体は解消されないという批判に対しては、「労働市場の流動化を促し、人材の適材適所、最適配分が進み」「再挑戦の機会も多くなり、希望を失わない」としているが、これは再挑戦の機会があれば差別はあってもよいという意味である。
 しかし、再挑戦の機会があろうがなかろうが、差別を受けること自体が「希望」を失わせていることが問題なのであって、彼には差別そのものを問題にする意識は全くない。だいたいほとんどの企業が非正社員としての職務経験を全く評価していないという事実をどう考えているのか。仮に辻広氏の言う通りの方法を実施しても、中高年の非正社員を正社員にする企業などまずないだろう。

 第2に正社員の待遇を引き下げるのではなく、非正社員の待遇を引き上げることで均等待遇を実現すべきであるという批判に対しては、「企業に弱者救済の圧力をかけ続けたら、経営者はコスト増を恐れて、海外に拠点を移してしまいかねない」と新自由主義者お得意の主張を行い、「改革の矢は、非正社員を実態的に搾取している既得権者の正社員に向かわざるを得ない」と再び正社員=既得権益という構図を示す。
 まず「海外移転恐怖症」についてだが、なぜか「海外に移転する」ことのコストを度外視している。タダで海外に移動できるわけではない。単に個人の富豪が税金対策で海外に移住するのとはわけが違う。企業が拠点を定める時に考慮するのは労働コストばかりではない。日本の企業が全く日本に拠点を置かないということは考えにくく、「海外移転恐怖症」は根拠のない脅しにすぎない。
 次に、これは前のエントリの主張の繰り返しになるが、正社員は搾取者でも既得権者でもない。「非正社員を実態的に搾取」しているのは経営者と投資家であって、正社員ではない。その証拠にこの10数年、非正社員が増加しているが正社員の所得も減り続けている。もし正社員が非正社員を搾取しているのならば、正社員の所得が増えていなければおかしい。問題は労働分配率の低下にあり、そこでは正社員も非正社員も強欲な資本家に搾取されているのである。

 第3に実際に正社員の解雇自由化を実施したら、結局は非正社員が増えるだけだという批判に対しては、「労働法制を自由化したままメンテナンスをしなかった80年代、90年代の米国では、経営者が足元の業績を重視し、近視眼的なレイオフが頻発する一方で、いっこうに生産性が上がらないという二重苦に見舞われた」と批判を認めるものの、「米国でも反省を生かして、新しい労働ルール作りが始まっている」と強弁する。
 言葉は悪いが「こいつは正真正銘のバカ」と思ったのは、この部分である。アメリカの悲惨な労働環境は80年代、90年代の昔話ではなく、現在進行形の問題である。近年アメリカの労働問題を告発する良書が何冊も出ているが、この男は全く読んでいないのだろうか。労働法制の「自由化」の結果は長時間労働、無償残業、低賃金、潜在的失業の増大であり、過労やストレスによる病気や自殺、貧困に起因する犯罪、競争の激化による相互扶助機能の低下など社会の崩壊を招く
 社会が崩壊してでも経済成長を追い求めるというのが新自由主義であった(特に堀江貴文氏はそれを自覚していた)。しかし、それが結局失敗に終わったことはもはや周知の通りである。社会が崩壊しては経済成長などあり得ないのだ。太田弘子経済財政担当大臣が「もはや日本経済は一流ではない」と言ったが、その原因は新自由主義的政策のせいである。今は社会の持続可能性の回復こそ必要であり、労働法制の弱体化はそれに逆行することは言うまでもない。

 辻広氏の再反論の「前置き」部分に対する再々反論だけでずいぶん紙幅を使ってしまった。彼は前述の第3の問題を受けて、国家による労働法制を解体し、労使間の話し合いで新たな雇用ルールをつくるべきだと主張しているのだが、その問題は私が現在注視している労働者派遣法改正問題とも深く関係するので、日を改めて詳述したい。権力関係にある使用者と労働者が公的規制なしに対等の話し合いなどできるはずもなく、辻広氏の主張は「夢物語」にすぎないということだけは指摘しておく。

【関連記事】
東京新聞「ハケンの反撃」を読んで
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by mahounofuefuki | 2008-02-24 16:41

「せんたく」の唱える「地方分権」に要注意

 北川正恭氏や東国原英夫氏らの「せんたく」と連携する議員連盟が発足することについて、なぜかネット言説ではあまり重視されていないようで、私のアンテナが狭いせいもあるだろうが、これを問題視している人が少ないように思う。
 しかし、「せんたく」の動きは加速を続けていて、京都新聞(2008/02/21滋賀面)によれば、滋賀県の嘉田由紀子知事も参加するようである。「もったいない」のワンフレーズで市場原理主義に疲弊した人々を吸引した彼女の加入は「せんたく」に一層の厚みをもたせるだろう。かつての日本新党と似た軌跡をたどりつつあり、衆院総選挙が限りなく遠のきつつある状況で、無視しえない動きである。

 選挙で社民党の支援を受けた嘉田氏、本質的に歳出削減論者である北川氏、徴兵制の導入を主張する東国原氏、さらに国会議員まで広げると、一種のネオコンといっていい菅義偉氏や石原伸晃氏まで含む「烏合の衆」であり、どう見ても財政や外交や社会政策において一致点はない。前のエントリで「烏合の衆」だからこそ、権力闘争に特化した政策なき野合の「器」に適していると(ある意味自民党や民主党もそうだが)述べたが、それでも選挙においてはたとえタテマエであっても何らかの「主張」が必要である。一見バラバラな彼らをつなぎ、なおかつ有権者に好意的にアピールしうる政策は何か。

 それは「地方分権」をおいてほかにない。北川、東国原、嘉田という現職ないし前職の知事が揃っているということもあるが、すでに露骨な新自由主義を前面に押し出しにくい「空気」の中で、「地方分権」こそが「構造改革」の隠れ蓑に相応しいからである。
 私は基本的に「せんたく」の動きの背後には新自由主義政策の継続を狙う資本の動きがあると疑っているが、そこまでいかずとも、日本経団連など財界は何よりも政局の安定を欲しており、そのためには衆参両院で多数を制する政権が必要となる。民主党票を割るにせよ、自民党へ「構造改革」路線を継続するようプレッシャーをかけるにせよ、常に政界再編を意識させる政治力学を発揮する役割を「せんたく」に期待しているのではないか。

 「地方分権」と「構造改革」は「国の歳出を削減する」という点で一致する。「地方のことは地方に任せる」という「地方分権」と、「民間にできることは民間に任せる」という「構造改革」の類似性に着目しなければならない。
 要するに、一見聞こえが良い「地方分権」というスローガンの実態は、国の責任放棄であり、ただでさえ財政赤字に苦しむ地方自治体への丸投げであり、結局は「構造改革」と変わらない「弱い者いじめ」にしかならない可能性が濃厚である。「地方分権」を口実に行われた小泉政権下の「三位一体の改革」が、結局のところ国の地方への財政支出削減に終わったことを忘れてはならない。
 おそらく嘉田氏や東国原氏は「地方分権」が「構造改革」の隠れ蓑になるなど露知らずに「せんたく」に参加したのだろう。当事者もよくわからないまま新自由主義に操作されているような気がする。当事者でさえそうなのだから、有権者がイメージ操作に流される危険性はもっと高い。

 「せんたく」が選挙前の政界再編を狙って新党結成までいくのか、それとも選挙後の政界再編を睨んで自民・民主両党のシンパ議員を推薦するにとどまるかは、現状では何とも言えないが、「せんたく」には今後石原伸晃つながりで東京都の石原慎太郎知事や、東国原つながりで大阪府の橋下徹知事が参入することもありえよう。船頭には事欠かない。
 私は「できれば民主党左派、共産党、社民党による護憲連合政権を望みたいが、実現性は限りなく低いので、当面は組織がしっかりしている共産党の力を伸ばし、現行政府に対し所得再分配と労働基本権を確立するようプレッシャーをかけるしかない」という考えなので、自民党や民主党がどうなろうと知ったことではないが、自公政権の打倒を目指している人々が「せんたく」のような動きに取り込まれるのも面白くない。用心するに越したことはない。それが私の思いすごしならば、私が嘲笑を受けるだけの話である。

 念のためあらかじめ忠告する。「せんたく」が唱える「地方分権」には要注意すべし。

【関連記事】
「せんたく」議連発足と二大政党制への幻想

【関連リンク】
低気温のエクスタシーbyはなゆー:嘉田由紀子・滋賀県知事が「せんたく」に参加へ
*嘉田氏の「せんたく」参加の件についてはこの記事にご教示を受けた。
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by mahounofuefuki | 2008-02-23 13:56

もはや日米地位協定すら守られていない現実

 在日米軍の軍人による相次ぐ刑事事件(フィリピン人女性への暴行事件まで!)により、改めて日米地位協定の問題性が浮き彫りになっているが、この植民地的な日米地位協定すらもはや守られていない現実を突きつけられるニュースがあった。
 以下、毎日新聞(2008/02/20 12:40)より(太字強調は引用者による)。
 在日米軍海兵隊の輸送船「ウエストパック・エクスプレス」(2025トン)が20日午前、北海道釧路市の釧路港に接岸した。29日に矢臼別演習場(別海町など)で始まる日米共同訓練に向けた装備を陸揚げし、数十人の兵員も上陸した。日米地位協定に基づき同市へ事前通告した寄港期限を既に過ぎている上、上陸予定者も通告の「7人」を大幅に上回る「約束違反」の入港となった。

 釧路市港湾空港課によると、米軍は8日、海上保安庁を通じて15~18日と22~25日の間に同港へ2回寄港したいと通告。市は受け入れた。ところが、米軍は15日になって1回目の寄港を18日正午~19日午後4時と変更したが、19日は入港せず、同課は情報収集に追われた。

 20日朝、同課に非公式に同日午前入港と情報が入り、同港西港区第3ふ頭西側岸壁に職員7人を配置した。輸送船は同午前10時半ごろ、入港し、同11時過ぎに接岸した。陸上自衛隊のトラックやバスが待つ中、ジープ型の車やトラックなどの車両十数台が上陸。兵員も徒歩で上陸した。(後略)
 日米地位協定第5条は、アメリカが公の目的で運航する船舶について「日本国の港に入る場合には、通常の状態においては、日本国の当局に適当な通告をしなければならない」と定めており、いつ入港し、何人上陸するか港湾管理者である自治体に事前通告しなければならない。
 ところが、今回海兵隊は釧路入港に際して、事前に通告した19日に入港せず、結局正式通告のないまま翌20日に入港したのである。しかも上陸人員は当初通告では7人のはずが、蓋を開けたら数十人。自治体に対し平然とウソをついていたのである。アメリカ軍がいかに地位協定を軽視しているか、まざまざと見せつけられた事件だ。

 北海道新聞2008/02/21朝刊によれば、釧路港の当該埠頭は当面商船の使用予定がないということだが、もし商船の入港とかち合っていたらどうなっていたか。以前、当ブログでも小樽港で商船の入港予定を変更させてまで、アメリカ海軍の艦船を入港させるよう外務省が小樽市に圧力をかけていたことを伝えたが、地位協定の遵守をアメリカ側に毅然と要求すべき政府がまったく責任を放棄しているために、地方自治体がそのツケを支払わされているのである。

 こうしたことは各地で日常茶飯事であり、特に米軍再編と日米軍事一体化が進むほど、ますます多発するだろう。日本列島そのものがアメリカ軍やりたい放題の「占領地」である実態を直視する必要があるだろう。

【関連記事】
商船を追い払ってまでアメリカ軍艦を寄港させる外務省
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【関連リンク】
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(日米地位協定)-外務省
ウエストパック.エクスプレスから下船のアメリカ国海兵隊.矢臼別演習場へ|動画投稿・動画共有 FlipClip
釧路港第3埠頭から公道を走るアメリカ海兵隊の車列|動画投稿・動画共有 FlipClip
*2月20日に釧路に上陸した海兵隊の様子を撮影した映像。
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by mahounofuefuki | 2008-02-21 12:35

「せんたく」議連発足と二大政党制への幻想

 先月発足した「地域・生活者視点で日本を洗濯(選択)する国民連合」(せんたく)と連携する超党派の議員連盟「せんたく議員連合」(仮称)の発起人会が今日行われたという。3月3日に正式発足するという。
 読売新聞(2008/02/20 13:14)などによると、発起人は自民党の河村建夫、石原伸晃、伊藤達也、小坂憲次、菅義偉、杉浦正健、園田博之、橋本聖子、民主党の野田佳彦、枝野幸男、小沢鋭仁、玄葉光一郎、松本剛明、浅尾慶一郎、郡司彰、広中和歌子、公明党の石井啓一、魚住裕一郎の各氏である。
 すでに多くの人々が指摘しているように、福田内閣の支持率が低下を続ける状況を見越した、政界再編へ向けた動きと見てよいだろう。自民党からは河村、菅、石原といった安倍晋三前首相に近い(福田首相に不満がある)人々が、民主党からは野田、枝野といった小沢一郎代表と距離のある人々が参加しているのは注目に値しよう。要するに両党の現在の「不満分子」が揃っているのである。

 ところで、山口二郎氏によれば「1990年代から始まった政治改革や政界再編の試行錯誤」は「最終段階」に入り、「新自由主義・保守」と「社会民主主義・リベラル」の二大政党制が完成に近づきつつあるそうだが(「金持ち増税」論は少数意見ではない~山口二郎・宮本太郎共同論文を読む参照)、「せんたく」や「せんたく議連」の動きはそんな甘い見通しを全面否定しているといえよう。
 「せんたく」は「地域・生活者」視点を打ち出してはいるが、そんな抽象的なスローガンなどどうとでも解釈でき、それが新自由主義だろうと保守主義だろうと何でもかまわない。だから「改革」をイメージさせながら、宮崎県の東国原英夫知事が道路特定財源の廃止に反対しても一向に問題にならないのである。
 そもそも「せんたく」の母体である「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)からして、その構成メンバーを見ればわかる通り、財界・法曹界・ジャーナリズム・アカデミズムなど各界の有力者がこれでもかというくらい集まっており、要するに明確な基本政策をもたない「烏合の衆」である。

 しかし、「烏合の衆」だからこそ、権力闘争に特化した政策なき野合の「器」には適している。
 本来、政権とは政策を実現するための手段にすぎないが、この国では逆に政権の獲得・維持そのものが目的で政策はそのための手段になってしまっている。だからこそ湾岸戦争時に自衛隊の海外派遣に消極的だった小泉純一郎氏が、アフガン・イラク戦争では自衛隊の派遣に固執したり、かつて著書『日本改造計画』で新自由主義的な政策を提唱していた小沢一郎氏が、昨年の参院選では「生活第一」と衣替えできるのである。故に安定した左右の二大政党制など幻想にすぎない。

 今後福田政権が「構造改革」路線を修正する場合、新自由主義勢力は「せんたく」を軸に「改革」派の結集を図ることもありえよう。その場合、福田・小沢の連立構想が息を吹き返すわけで、その時こそ自公政権を打倒するために民主党を応援する必要があると主張する人々は踏み絵を踏むこととなろう。「自公政権VS新自由主義」という対立軸が提示された時、彼らはそれでも政権打倒を優先できるのか。
 山口氏の言とは裏腹に1990年代以降の政党史が示すのは、共産党以外の政党はどこも確固たる基本政策をもたず、その時の状況によってコロコロと立ち位置を変える姿である。この離合集散はまだ続くのだろう。見せかけの対立軸に惑わされてはならない。本当の対立軸は先の京都市長選挙で提示された。「平和と平等」を希求する人々が採るべき政治行動はおのずと決まるだろう。

【関連リンク】
新しい日本をつくる国民会議-21世紀臨調-オフィシャルホームページ
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by mahounofuefuki | 2008-02-20 22:30

「自爆テロじゃなくてよかった」という渡辺喜美の暴言

 勝浦のマグロ漁船と海自のイージス艦「あたご」が衝突し、漁船が大破のうえ乗員が行方不明になっている事件。
 これを書いている時点ではまだ詳細は不明だが、海上保安部が業務上過失往来危険容疑で強制捜査に踏み切るようで、イージス艦側に非があるようだ。海上衝突予防法を調べてみると「2隻の動力船が互いに進路を横切る場合において衝突するおそれがあるときは、他の動力船を右げん側に見る船は、当該地の動力船の進路を避けなければならない」とあり、産経新聞(2008/02/19 11:59)などによると、今回の場合は横須賀へ北上するイージス艦の方が回避義務のある「避航船」だったという。漁船は左側面の損傷が大きいので位置関係はそれで間違いないだろう。

 自衛隊の艦船はこれまでも何度となく民間船と事故を起こしてきただけに、正直「またか」という思いは否めず、ましてや目視による見張りの怠慢などが報道されており、「凶器」を扱っているという自覚が自衛隊には不足しているとしか思えず、怒り心頭である。
 しかし、私が何よりも激怒したのは、渡辺喜美行革担当大臣の次の発言である。
 素人的に考えると、(漁船が)レーダーに映らなかったのか(と思う)。映らない場合もあるそうだが、万が一これが自爆テロの船ならどうするのか。(時事通信2008/02/19 10:58)
 「自爆テロの船ならどうするのか」という発言は、どう考えても「衝突したのが漁船だからイージス艦の損傷が軽微ですんだが、工作船の自爆攻撃だったら大損害だった」と解釈するしかない。つまりこの男はイージス艦のレーダーが漁船はともかく工作船を捉えられないことを何よりも心配しており、イージス艦さえ無事ならあとはどうでもいいと放言しているのである。

 自衛隊は建前上、住民を守るのが仕事ということになっている。しかし、実際は住民を守るはずのもが住民を傷つける事実に目を閉ざしてはならない。なお野党各党は国会で防衛大臣の責任を追及するようだが、大臣への連絡の遅さやらレーダーの技術的問題やらに論点をすり替えられないように注意してほしい。問題はあくまでもイージス艦が多額の国税をつぎ込むに値するのかという点である。

【関連リンク】
海上衝突予防法-法庫
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by mahounofuefuki | 2008-02-19 21:29