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改正雇用対策法で本当に救われるのか?

10月1日より、改正雇用対策法が施行され、企業の募集・採用で年齢制限が原則としてなくなる。
学卒期が就職氷河期だった私たち「難民世代」にとっては、一歩前身ではあるが、果たして本当に効果があるのか未知数だ。
報道やネット上では、もっぱら「抜け道」が話題とされているが、むしろ問題なのは、この年齢制限撤廃が、単に中高年も若者も同じ土俵で争うだけで、必ずしも年長者に有利というわけではないことである。これまで若い世代が占めていた職に、中高年が入り込むことができるとすれば、その逆も可能だからである。

企業に対し、具体的に「30歳以上を年間○○%採用」というような義務が課せられているわけではないから、募集に応募はできても、採用は結局年齢により差別される可能性が高いのではないか。
森永卓郎さんは、企業が中高年の応募に応対しなければならない状態が続けば、中高年に対する人材評価が高まると予測しているそうだが、そううまくいくだろうか。

今後、労働市場は退職者の増加で人材不足が加速するので、求人そのものは増えるだろうが、問題はいくら非正規雇用ばかりが増えても、貧困と格差が増大するばかりだということだ。正規雇用を増やすか、もしくは正規・非正規間の待遇格差をなくすか、どちらかでなければ意味がない。
今回の雇用対策法改正は、あくまで「難民世代」救済の第一歩であって、これで終わりでは困る。

ところで、雇用対策法と同時に雇用保険法も改正される。
今回の改正により、「自己都合」による離職者の失業保険の受給資格が勤続6か月から1年に伸びてしまった。職場のいじめやセクハラで退職に追い込まれても「自己都合」とされる現状からすれば、この改正はまさしく改悪である。
10月から雇用保険、受給資格が厳しくなる (オーマイニュース)
政府もなかなかただでは転ばないというところか・・・。
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by mahounofuefuki | 2007-09-30 21:54

教科書改竄の「黒幕」

文部科学省が2008年度の高校用日本史教科書の検定で、沖縄戦における軍による住民の「集団自決」強制の史実を改竄したことに抗議する沖縄県民大会が、昨日宜野湾で開催された。参加人数は約11万人。知事や県議会を含む超党派による行動で、まさに沖縄全県の人々のこの問題に対する怒りが今や沸点に達していることを示していよう。
私もこの検定結果に怒りを感じていた1人として、沖縄県民の思いに全面的に共感している。

今回の教科書検定の不可解さは、同じような記述が前回の検定を通過しているのに、今回は修正されたことにある。
文部科学省の「高等学校歴史教科書に関する検定結果(平成18年度)」によると、沖縄戦に関し、日本軍による「集団自決」の強制や住民殺害を示す記述はいずれも「沖縄戦の実態について誤解するおそれ」があるという検定意見が付されている。たとえば「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」という記述が「そのなかには日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた」と修正されている。
軍の関与を少しでも隠蔽しようという意図が明確だ。

教科書検定制度は、教科書発行者(出版社)が申請した教科書を、まず常勤の教科書調査官が「調査」し、それをもとに教科用図書検定調査審議会が「審査」し、合否を決定する。その際、教科書の内容に「修正」が必要であると判断した場合、審議会は教科書発行者に検定意見を通知する。この通知に従って発行者は内容を修正し、再度審議会が審査して合否を決定して、文部科学大臣に答申する(教科書検定の手続)。検定意見に従わなければ合格できないから、この意見は絶対なのである。

問題はこの教科用図書検定調査審議会は有名無実化し、検定の実務を担う教科書調査官が決定的な役割を果たしていることにある。
検定 審議実態なし/小委、文科省意見を追認 (沖縄タイムス)
今回も審議会の日本史小委員会は、沖縄戦に関し特に議論することなく、調査官の検定意見原案を素通りさせたことが明らかになっている。しかもこの小委員会自体が2006年10月30日と11月13日の2回しか開かれていない。
官僚主導 黙る「素人」 (沖縄タイムス)
審議会が単なる「事後追認機関」と化していることがわかるだろう。要するに史実改竄の主役は教科書調査官なのである。

それでは、この教科書調査官とはいったいどんな人なのか。
この件について共産党の赤嶺政賢衆院議員が、7月3日に提出した質問主意書で調査官の氏名公開を政府に求めた。
沖縄戦の強制集団死(「集団自決」)をめぐる文部科学省の検定意見に関する質問主意書
これに対し、政府は7月10日付の答弁書で、日本史担当の調査官が高橋秀樹、照沼康孝、三谷芳幸、村瀬信一の4氏であることを明らかにした。
衆議院議員赤嶺政賢君提出沖縄戦の強制集団死(「集団自決」)をめぐる文部科学省の検定意見に関する質問に対する答弁書

CiNiiReaDによれば、このうち、高橋秀樹氏は『中世の家と性』などの著作がある日本中世史の研究者、三谷芳幸氏は「令制官田の構造と展開」などの論文がある日本古代史の研究者である。専攻からしてこの2人はおそらく近・現代史の調査に関係していない。
問題は残る2人である。照沼康孝氏は「宇垣陸相と軍制改革案」「鈴木荘六参謀総長後任を繞って」などの論文がある。また村瀬信一氏は『帝国議会改革論』などの著作がある。いずれも日本近代史の研究者である。
この2人のどちらか、あるいは両者が沖縄戦史実改竄の「犯人」とみていい。

ところで、この照沼、村瀬両氏からある人物が浮かび上がってくる。両者とも東京大学大学院人文科学研究科の国史専攻の出身である。彼らの「師匠」が、現在政策研究大学院大学教授の伊藤隆氏である。
多少でも日本近代史をかじったことのある人で、伊藤隆氏の名を知らない人はいないだろう。1971年に東京大学文学部助教授に就任、81年には教授となり、93年に停年退官するまで、20年間も東大国史科の近代史専攻の教員として君臨し、多くの業績をあげ、後進を育てた「大御所」である。特に史料発掘の功績は大きく、政治家・官僚・軍人の日記や書簡をいくつも紹介、翻刻した。現在、昭和天皇研究に欠かせない『牧野伸顕日記』や陸軍研究の第1級史料である『上原勇作関係文書』など伊藤氏が中心となって発掘した歴史資料は数えきれない。その門下からは現在第1線で活躍する研究者が何人も輩出しており、「伊藤一門」というべき一大学閥を形成している。照沼、村瀬両氏もその伊藤門下である。

この伊藤氏は、東大史学の伝統である官学アカデミズム流の「実証主義」の系譜をひく研究者である。「実証主義」とは何よりも徹底して史料に基づいて事実を明らかにすることを重視するが、残存する史料はどうしてもエリートに偏り、民衆の史料は残りにくい。しかも政治史偏重になりがちである。
この「実証主義」固有の弱点に加えて、伊藤氏の場合、若い時から猛烈なナショナリストであり、学術概念としての「ファシズム」「大正デモクラシー」を否定し、左右を問わず「革新」を嫌い、「現状維持」を好んできた。
その保守的体質から、自民党タカ派(たとえば中曽根康弘氏)と結びつき、一貫して国家の側からの近代史像を打ちたててきた。
軍事史を得意としながら、日本軍の戦争犯罪の研究をまったく無視し、ついには「実証主義者」であるはずが、実証的研究よりも「国家の都合」を重視する「新しい歴史教科書をつくる会」に参加するまでになった。

「新しい歴史教科書をつくる会」と教科書検定の関係については、4月25日の衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会で、民主党の川内博史議員が、教科書調査官の村瀬信一氏が「つくる会」教科書の監修者である伊藤氏と師弟関係にあることを追及している。
166回国会 教育再生に関する特別委員会 平成19年4月25日
しかし、既に述べたように、伊藤門下なのは村瀬氏だけではなく、照沼氏もそうである。ついでに言えば、有名無実化している教科用図書検定調査審議会の委員・臨時委員にも、駿河台大学教授の広瀬順晧氏や九州大学大学院教授の有馬学氏といった「伊藤一門」の研究者が顔をそろえている。
ここから想定できるのは、伊藤氏が教科用図書検定審議会委員や教科書調査官の推薦を行っているのではないかという疑惑である。少なくとも文部科学省が伊藤氏に人選の相談をしている可能性は高い。そうでなければ日本史担当の教科書調査官の半数が同一門流出身というのは異常である。
「伊藤一門」のすべてが「つくる会」を支持していたわけではないが、学界における師弟関係は絶対的なものがある。彼らが伊藤氏を批判することなどありえない。要するに「つくる会」があろうとなかろうと、伊藤氏の影響力がある限り、今回のような検定がいつでも起こりうるのである。

周知の通り「つくる会」は血みどろの内部抗争を繰り返し、今年ついに分裂した。
伊藤氏は既に分裂前の昨年3月に「つくる会」の理事を辞任しており(つくる会の体質を正す会)、現在は八木秀次氏らの「改正教育基本法に基づく教科書改善を進める有識者の会」に参加している(産経新聞)。これまで「つくる会」の教科書を発行してきた扶桑社は、新組織の方に鞍替えした。今後は「つくる会」とこの新組織が競合し、共倒れになる可能性が強いが、伊藤隆と「伊藤一門」という存在がある限り、教科書検定の歪みは正されることはないだろう。

今一度、かつての家永教科書訴訟の原点に立ち返って、教科書検定制度の廃止を検討するべきではないか。

なお、沖縄戦の史実を学びたい人には、次の2冊を推薦する。
林博史 『沖縄戦と民衆』 大月書店、2001年
藤原彰 『沖縄戦 国土が戦場になったとき 新装版』 青木書店、2001年

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by mahounofuefuki | 2007-09-30 16:09

ブログ開設1か月

ブログを始めて1か月がたった。

特に確たる目的もなく、普段ニュースを読んでいて思ったことを書こうということで始めたのだが、読み返してみるとテーマも主張もずいぶんバラバラである。「難民世代」が読み解くと銘打っていながら、あまり「難民世代」的じゃないのも問題だ。「次はこれを書こう」というようなプランやストックがなく、その場その時の感覚で書いているので、一貫性がないのは仕方がない。

とりあえず今日まで毎日更新することができた。特に毎日更新を目標にしたわけでもないのだが、質の高いことを書く能力がないので、開設当初はとにかく「質より量」と思ったのも事実。さすがにブログを始める前よりも睡眠時間が減ったが、ボーっとネットサーフィンしているよりは、指を動かす分だけ健康的だろう。

トラバもコメントも認めていないことについて、他のユーザーのブログで名指しではないが、批判めいたことが書かれていたが、それについては私の力不足です、としか言いようがない。
インターネットを始めたのが普通の人よりもずいぶん遅れたので、何より文字を打つ速度が遅く、記事を更新するだけで精いっぱいなのだ。
ほかのブログを見ると、トラバはスパムがかなり多いようだし、コメントは放置すれば時間はとられないが、せっかく書いてくれたものを無視はしたくない。アクセス数(それも水増しされているような気がする)から想定して、そんなにコメントが来るとも思えないが、後から処理できなくて「やっぱりやめます」というのはかえって不誠実だと思うのである。
どうしても何か言いたかったら、掲示板なり自分のブログなりで、引用して煮るなり焼くなりして結構なので、どうかご了承を。ミクシィとかでなければ、いつかは私の目に留まるはず。
もう少しパソコンに慣れたら、解禁するかもしれないけど。

今後はもう少し賞味期限の長い記事を書けるようにしたいと思っているが、あくまでもマイペースで続けるつもりである。
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by mahounofuefuki | 2007-09-29 13:09

橋下発言はツッコミどころ満載

以前も書いたが、私は光市母子殺害事件の訴訟そのものにはもはや関心がない。
たくさんある殺人事件の中でこの事件に特別な興味を抱く理由が私にはない。
極端な話、被告が死刑になろうとそうでなかろうとも私の生活には関係ない。彼が処刑されてもされなくても、私には何のメリットもない(関係者以外のほかの人々にもあるとは思えないが)。コンコルド広場にて国王や王妃をギロチンで斬首する光景に熱狂したパリ市民のようなグロテスクな趣味も持ち合わせていない。
だから、もう結果が決まったようなものである光市事件の訴訟については語る言葉はない。
しかし、光市事件に異様に熱狂し、拘置所ですでに自由を奪われている被告や、自らの職務に忠実な弁護士をバッシングする人々の動きには関心をもたざるをえない。それは、この騒動が司法権の独立や訴訟の公平な進行を損ねているからで、1度でもこんな前例ができると、今後の刑事訴訟全体に悪影響を及ぼすことを危惧している。
仮に将来、誰かが(私やあなたかも)無実の罪で逮捕・起訴された時、検察側の誘導でバッシングが行われ、被害者が無実の人を犯人と思い込み、弁護人の活動が阻害され、罪をなすりつけられるのを心配している。日本はただでさえ冤罪が多い。特に「痴漢」の冤罪は後をたたない。「それでも僕はやっていない」なんて映画が売れるくらいだ。
光市事件は冤罪ではない。しかし、味をしめた検察が被害者を利用する可能性は否めない。それに何よりも、世論の関心度によって量刑が左右されることなどあってはならない。世論の関心の高い事件は刑が重いとなると、そうでない事案との不公平性が問題になる。
それゆえ、光市事件そのものは私の関知するところではないが、バッシング現象の方は私の(そして多くの人々の)利害にかかわるのである。だから、面倒でも発言せざるをえないのだ。

さて、光市事件の被告弁護団に対する懲戒請求を扇動した(しかし自分は請求していない)橋下徹弁護士を提訴した民事訴訟の第1回口頭弁論が広島地裁で行われた。
何よりも驚いたのは、橋下氏がこの弁論に出廷せず、書面提出による擬制陳述で済ませたことである。しかも、今後の弁論も電話会議で行い、被告尋問までは出廷しないという。 
彼の言い分は次の通り(以下、引用はすべて橋下徹のLawyer’s EYEより)。

あのね、民事の裁判で傍聴人を呼んでも、
争点が整理されるまでは事務的なやり取りなんだから、
傍聴人も何をやってるんだかさっぱりわからない。
わざわざ足を運んでもらって、あの民事の手続きだけを見せたら、
その方が傍聴人に怒られるんだよ。分からないのかね。
原告らは公開の法廷で、何か大弁論を展開したいのか知りませんが、
僕は、そんな原告らの趣味に付き合うほど暇ではありません。

「事務的なやり取り」を軽視しているとしか思えない暴言だ。
どうやら彼は、テレビカメラが入り味方の群衆が大勢いるところでなら「大弁論」をやりたいが、野次馬がわざわざ足を運ぶことのない地方の法廷ではやりたくないようだ。
ついでに言っておくが、ブログでの彼の言葉遣いはとても社会人とは思えないほど汚い

彼の弁明は続く。

原告らは、今回の裁判が社会にとって必要不可欠な裁判で、自分たちはその正義のために闘っているとまたもや勘違い。
今回の裁判は、光市母子殺害事件の被害者遺族に対して、非常に迷惑のかかる、
もし違う方法があるのであれば、本当は避けなければならない裁判だったんだ。
世間だって、こんな裁判があろうとなかろうと、全く影響ない。
たまたまメディアが取り上げてくれているけど、本質的には、弁護士間の大人げないくだらない痴話げんかなんだよ!!
分からないのか!!
もっと謙虚になれよ。俺たちは刑事弁護人の在り方を論じる重要な裁判をやってるんだって堂々と胸を張るんじゃねーよ。
ほんとしょうもないことやってすみませんっていうのが、今回の、
俺たち弁護士がとらなきゃならない態度だろ!!

「大人げないくだらない痴話げんか」を仕掛けたのはほかでもない橋下氏だったはずだ。大人げないと自覚しているなら、懲戒請求の扇動なんかしなければいいのである。自分の播いた種でありながら、他人のせいにするのは全く許しがたい。
「もっと謙虚に」なるべきなのは、こんな横柄な口の利き方をする橋下氏の方だろう。

重要な裁判なのかどうかは世間が決めること、俺たちが決めることではない。
俺たちが自分で重要な裁判だと言った時点で、もう周囲が見えなくなる。
自分が絶対的な正義だと勘違いする。

「世間」!? そんなあいまいなものによりかからないでほしい。多数派がいつも正しいのか? 「世間」に丸投げするなど、思考停止でしかない。
「自分が絶対的正義だと勘違い」しているのは橋下氏の方であろう

このような感覚だから、日弁連の模擬裁判のリハーサルなんて、くだらない鼻くそイベントに出席するために、
光市母子殺害事件最高裁の弁論期日を欠席しちゃうんだよね。

自分が被告になっている訴訟の口頭弁論に出ない者が言っていい言葉ではない。出席の可否は彼の判断基準が絶対だという独善以外の何物でもない。橋下氏は自分を「神」だとでも思っているのだろうか

彼の発言はまだまだツッコミどころ満載なのだが(この程度の論述力でよく弁護士ができるものだ)、「場外乱闘」のさらに「場外乱闘」なんて自慢できることでもないし、これ以上自分のブログを汚したくないのでもうやめておく。
(しかし、本当に彼の言葉遣いはひどい。この横暴さが支持されるなんて世も末だ。)
いいかげん、この下品な男をまるで「英雄」扱いするのをやめてほしい。
「テレビに出ている=正義」なんて今どき思っていたら、ちょっと恥ずかしい。
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by mahounofuefuki | 2007-09-28 23:52

民間給与実態統計調査

国税庁が2006年分の民間給与実態統計調査を発表した。
民間企業の給与の実態を知る上で有効な調査である。

まず注目したいのは、全民間企業が支払った給与総額と源泉徴収された所得税額の推移である。
(A=給与総額 B=所得税総額 単位:A、B=億円 B/A=%)

1996年 A=2,161,631  B=107,269  B/A=4.96
1997年 A=2,206,165  B=121,401  B/A=5.50
1998年 A=2,228,375  B=100,501  B/A=4.51
1999年 A=2,174,867  B= 95,923  B/A=4.41
2000年 A=2,164,558  B= 96,400  B/A=4.45
2001年 A=2,147,215  B= 94,898  B/A=4.42
2002年 A=2,079,134  B= 90,177  B/A=4.34
2003年 A=2,036,827  B= 85,919  B/A=4.22
2004年 A=2,017,742  B= 88,979  B/A=4.41
2005年 A=2,015,802  B= 90,364  B/A=4.48
2006年 A=2,000,346  B= 99,321  B/A=4.97

給与総額は1999年以降毎年減少を続けているのが一目瞭然である。
それなのに税負担は2004年以降増加しており、特に2006年に急増したことがわかる。
この目に見える負担増が、先の参院選に影響したのだ。

次に、年間の平均給与の推移である。(単位:千円)

1996年 4,608
1997年 4,673
1998年 4,648
1999年 4,613
2000年 4,610
2001年 4,540
2002年 4,478
2003年 4,439
2004年 4,388
2005年 4,368
2006年 4,349

平均給与も1998年以降毎年減少し続けているのがわかる。

そして、給与階級別の構成比の推移である。
(単位:% 2002年→2003年→2004年→2005年→2006年)

100万円以下       7.0→ 7.4→ 7.7→ 7.9→ 8.0
100~200万円    12.1→12.8→14.0→13.9→14.8
200~300万円    15.8→15.8→15.8→15.8→16.0
300~400万円    17.9→17.5→17.0→17.2→16.9
400~500万円    14.5→14.5→14.4→14.2→13.9
500~600万円    10.6→10.3→10.1→10.1→ 9.6
600~700万円     6.9→ 6.6→ 6.4→ 6.4→ 6.4
700~800万円     5.0→ 4.9→ 4.7→ 4.6→ 4.5
800~900万円     3.2→ 3.2→ 3.1→ 3.0→ 3.0
900~1,000万円    2.2→ 2.0→ 2.0→ 2.1→ 2.0
1,000~1,500万円  3.7→ 3.8→ 3.7→ 3.6→ 3.7
1,500~2,000万円  0.8→ 0.7→ 0.8→ 0.7→ 0.8
2,000万円超       0.4→ 0.4→ 0.4→ 0.5→ 0.5

この5年間で年収300万円以下の層が増大しているのがわかる。
他方、年収1000万円以上の比較的富裕な層に増減がなく、金持ちが固定化しているのもわかる。

ちなみに年収100万円以下の男性は、2002年で 1.9 %だったのが、2006年には 2.7 %に、年収100~200万円の男性は、5.0 %から 6.9 %に増えている。
この調査は日雇いを含んでいないので、低所得者の実数はもっと多いはずだ。
2006年時点で、男性の実に10人に1人が年収200万円以下なのである。
もはや「格差」ではなく、完全に「貧困」である。

税制を通した国家の所得再配分の強化が必要なことを痛感させられる統計だ。
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by mahounofuefuki | 2007-09-28 21:44

「心の病」の本当の原因

先日、あなたの「うつ度」を判定という自己診断をやってみた。
結果は50ポイント。「神経が過敏になっていて休めない状態で、すでに病気の範疇に入りつつあります。早めの受診をお勧めしますが精神科的な病院に行きたくないという方は一日10時間の休養を取って下さい。自力で元気になれる可能性がまだあるレベルです」だそうだ。
普通の人よりはストレスが少ない環境で生活しているし、休養も十分にとっているので、「休めない状態」というのは疑問なのだが、未来への不安や人間関係への失望などが精神衛生を悪化させているという自覚はある。

現在、うつ病を含む精神疾患が増えている。
労務行政研究所の2005年の調査では、調査に回答した企業の52%が、「心の病」に罹る社員が増加していると回答したという(熊沢誠 『若者が働くとき』 ミネルヴァ書房、2006年)。特に20代、30代に多いという。企業はこうした問題を過小評価するのが常だから、実際はもっと多いだろう。

精神疾患に対する偏見と差別は根強い。
いまだにうつ病患者に対して「怠けている」「やる気がない」という中傷は後を絶たない。この国の人々は、何か問題があると、とかく弱い個人の責任に帰してしまい、その個人を取り巻く環境や社会構造に目を向けようとしない。
凶悪犯罪が起きると、原因を「犯人が凶暴だから」で済ませてしまい、なぜ「犯人」が「凶暴」になったかは考えない。あるいは、なかなか成果を挙げられない者を、「愛のムチ」とうそぶいて暴力を振るう。あるいは、何かあるとすぐ自分を責める。それらと同じ構造である。

現在、「心の病」が増えているのは、長時間労働による疲弊と、能力主義・成果主義による際限のない競争のせいである。
特に20代、30代の男性の疲弊ぶりは凄まじい。実に3割以上の人々が週60時間以上働いている(熊沢、前掲書)。しかも徹底した競争原理の導入で、労働者の横の連帯も難しくなった。職場でのパワハラ、セクハラ、いじめはどんどんひどくなっている。
こんな労働環境では、誰もが病気になりうるし、むしろ病気にならない方が、劣悪な環境に慣れてしまって人間性を喪失しているとさえ言えるだろう。

これに精神治療体制の遅れが拍車をかけている。
精神科医の不足も深刻だが、日本の精神医療は薬物療法がもっぱらで、医師が単なる「クスリをくれる人」になっている場合が少なくない。精神薬が薬物依存を促進することすらある。
最近、問題になっている向精神薬「リタリン」も、安易に処方を拡大した結果、「合法覚醒剤」として乱用が進み、ついに製造元がうつ病への効能を取り下げようとする事態になっている。
一方で、本当にリタリンを必要とする患者から不安の声が出ている。
リタリンで生きられる患者がいる (オーマイニュース)
過剰なリタリン叩きに、うつ病患者が反論 (オーマイニュース)
安易に処方を繰り返すのも、安易に処方を中止するのも、実に身勝手である。

いずれにせよ、問題は単に「医師のモラル」というレベルの話ではない。私たちが精神病に追い込まれるような、非人間的な経済政策や労働体制を、人間的なものにしない限り、根本的な解決は難しいだろう。
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by mahounofuefuki | 2007-09-27 11:41

公認された暴力

6月に時津風部屋の17歳の力士が、親方や兄弟子たちの暴行により死亡した事件で、警察当局は時津風親方らを傷害致死で立件する方針を固めたという。
遺体の状況から死因はリンチだったのは明白なのに、3か月以上も立件できなかったのは、日本相撲協会に対する弱腰以外の何物でもない。今後は「国技」という壁に屈することなく、厳正な捜査を望む次第である。

死亡した力士は、死亡の前日、父親に助けを求める電話をしていたという。恒常的な暴力に苛まれていたのだろう。
父親はその時「逃げろ」と言えなかった自分を責めているという。しかし、問題は相撲界の構造にあって、この父親のせいではない。

相撲に限らず、格闘技とは、なんだかんだと美名を並びたてていても、所詮は「公認された暴力」である。
己の肉体を「武器」にし、時には殺人的な武力を獲得することが、究極の目標なのだ。その基本は「弱肉強食」であり、人間の尊厳を傷つけるものである。
それゆえ私には、格闘技に熱狂する人々の気持はまったく理解できない。
スポーツを通した暴力の容認が、「いじめ」やバッシングの遠因になっている気さえする。

指導と称して、指導者や先輩が暴力を加えることは、学校の部活動からプロスポーツまで広く行われている。
なかでも相撲は、各部屋は親方が絶対で、事実上治外法権である。しかも、相撲は「国技」とされているため、国家の厚い保護のもとで、相撲批判がタブーになっている。
日本相撲協会の北の海理事長が、相撲協会を批判した記者の取材証を取り上げようとしたことは記憶に新しい。
『週刊現代』が追及している「八百長」疑惑も、他のマスコミは黙殺している。

スポーツジャーナリストの二宮清純さんは、「しごき」は「愛のムチ」だが、時津風親方の行為は暴力だと区別しているが、私に言わせれば、「しごき」は完全な暴力である。暴力を限定的にしかとらえられないあたりが、「体育会系」が本質的には暴力を容認していることを示している。
また、前記で取材証を取られそうになった杉山邦博さんは、「まれに竹刀などを使って厳しく指導したことがあった」ことを容認しているが、彼は自分が竹刀で殴られても平気なのだろうか。
私は以前、テレビ番組で、親方が若い力士を竹刀で叩いているところを観たが、とても正視できなかった。その親方の薄ら笑いを浮かべた嗜虐的な表情は、今も記憶に残っている。

日本相撲協会は、関東大震災で壊滅的な打撃を受けた相撲界を再建するために、昭和天皇が「御手許金」からカネを出して優勝賜杯を作らせたのを機に、結成された団体である。天皇の権威が相撲を「国技」とし、相撲を他の競技とは別格の扱いをさせてきた。
しかし、相撲を「国技」とする法的根拠は何もない。いいかげん相撲をタブー視するのはやめるべきだ。
今回の事件を機に、相撲志望者がいなくなり、相撲ファンも減り、相撲そのものが存続できないようになってほしい。
「公認された暴力」はもうごめんだ。
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by mahounofuefuki | 2007-09-26 15:23

福田内閣発足

幕末の1860年、日米修好通商条約批准のため、徳川幕府はアメリカへ使節を送った。
いわゆる「万延元年遣米使節」である。
使節団の面々はアメリカの軍艦に乗艦して渡米したが、幕府はこれにオランダから購入した軍艦「咸臨丸」を随行させ、勝海舟ら日本人に操船させた。史上初の日本人の手による太平洋横断であった。
この咸臨丸に、若き日の福澤諭吉がいた。福澤はアメリカで、まず市民の大歓迎に驚き、次いで初めて見る馬車に驚き、そしてレディファーストの習慣に驚き、まるで「勝手のわからぬ家に」上がったばかりの新婚の「花嫁」のような心境を味わった。
そんな「驚き」の1つに、次のような出来事があった。

ところで私がふと胸に浮かんである人に聞いてみたのは外でない、今ワシントンの子孫はどうなっているかと尋ねたところが、その人の言うに、ワシントンの子孫には女があるはずだ、今どうしているか知らないが、何でも誰かの内室になっている様子だといかにも冷淡な答で、何とも思っておらぬ。これは不思議だ。もちろん私もアメリカは共和国、大統領は4年交代ということは百も承知のことながら、ワシントンの子孫といえば大変な者に違いないと思うたのは、こっちの脳中には、源頼朝、徳川家康というような考えがあって、ソレから割出して聞いたところが、今の通りの答に驚いて、これは不思議と思うたことは今でもよく覚えている。 (福澤諭吉『福翁自伝』岩波文庫、p.117より、一部漢字を仮名に改めた)

初代大統領ワシントンの子孫といえども、特別な社会的地位にいるわけではないという事実は、家柄を重視する封建社会への不満をもっていた福澤にはよほど新鮮に映ったようだ。
周知の通り、福澤は維新後、実力主義・能力主義による「立身出世」を奨励していく。欧米=世襲の否定という捉え方は、その後も長く日本人を縛っていくことになる。

実は、当時の福澤は知るよしもなかったが、第2代大統領ジョン・アダムズの息子ジョン・クインシー・アダムズは第6代大統領になっている。アメリカは独立後の早い時期に父子で大統領という例があったのである。
ちなみに、さらにその息子のチャールズ・アダムズは外交官、そのまた息子のヘンリー・ブルックス・アダムズは高名な歴史学者でハーバード大学の教師になっている。アダムズ家はアメリカ屈指の名門となっていた。
アメリカでは現代でもケネディ家やブッシュ家の例を挙げるまでもなく、家柄が大きくものを言う。
福澤の思いはまったくの「幻想」だったのである。

むしろ近代の日本の方こそ世襲が力をもたなかった。
伊藤博文から寺内正毅までの歴代首相はすべて爵位持ちの華族であったが、いずれも本人の「功績」による受爵で、「親の七光」は1人もいない(西園寺公望は旧公卿の出だが、彼の親は維新後むしろ失脚していた)。
明治憲法下の首相のうち、親も高官であったのは、皇族の東久邇宮稔彦を別とすれば、近衛文麿(父は貴族院議長の近衛篤麿)と東條英機(父は陸軍大将の東條英教)くらいである。
日本国憲法下では、鳩山一郎(父は衆議院議長の鳩山和夫)が例外で、1980年代までは、「家柄」よりも学歴や官歴の方が重要だった。

ところが1990年代になると様相が変わってくる。
その始まりは1991年に首相となった宮澤喜一(父は衆議院議員の宮澤裕)である。
宮澤退陣後、政権は自民党単独から連立へ変貌したが、以後の歴代首相は社会党出身の村山富市を除いて、すべて親も政治家だった「2世」や「3世」の議員である。
そして安倍晋三(祖父は岸信介)に至り、ついに「首相の孫」が首相となった。
さらにその安倍後継を争ったのは、やはり「首相の孫」の麻生太郎(祖父は吉田茂)と「首相の子」の福田康夫(父は福田赳夫)であった。

今日、福田康夫氏が第91代内閣総理大臣に指名された。憲政史上初の父子2代の首相就任である。
以上の経過からすれば、このことが近代日本の「美点」を失わせ、もはや特定の血縁グループからしか首相になれない時代へ向かわせる異常事態であることがわかるだろう。
現代日本は身分社会へと逆戻りしているように思える。

福田氏に対する疑念はそんな出自だけではない。
福田氏は小泉内閣の内閣官房長官在任中、アメリカのベーカー駐日大使(当時)と異常なほど頻繁に会い、アメリカ政府の小泉政権へのメッセンジャー役であった。小泉政権がアメリカ追従であったことは言うまでもない。さらに福田政権ではアメリカ共和党の傀儡政権になる危険性すらあるだろう。

一方、新内閣の陣容は、前政権の教育改悪を主導した山谷えり子氏や、拉致被害者支援にかこつけた右翼グループ言いなりの中山恭子氏ら首相補佐官を留任させ、防衛大臣には「軍事オタク」の石破茂氏を起用するなど、安倍政権と変わらないタカ派ぶりを示している。
また、竹中平蔵氏を継いで市場原理主義政策を推し進める太田弘子経済財政相も再任された。自民党3役には大蔵省出身の均衡財政論者の伊吹文明氏や消費税増税論者の谷垣禎一氏が起用されている。
これでは、歳出削減による社会福祉の切り捨てを続ける一方、消費税増税で庶民の負担を増やし、巨大企業に対する減税は拡大するという、今以上に最悪の財政政策を目指す可能性すらある。

福田政権は今後、年金不安を利用して、年金の財源にするという口実で、消費税増税を打ち出してくるだろう。基礎年金の税負担方式を公約にする民主党との連携の材料となるかもしれない。決して年金不安を煽る情報操作に惑わされないよう、注意しなければならない。
あくまでも、福田内閣は衆院解散までの「選挙管理内閣」でなければならない。
野党はどこまでも解散・総選挙の要求を貫いてほしい。
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by mahounofuefuki | 2007-09-25 22:10

抜け殻

もう顔を見るつもりはなかったが、見てしまった。

突然の辞意表明から12日。
ひとまわり老けたような覇気のない表情。
呂律が回らない。
用意した原稿を読むのにも何度もつかえていた。
かつて「カメラ目線」にこだわっていた男が、
今は人の目を見ることすらできない。
くたびれ、やつれ、衰弱しきった小さな男がそこにいた。

この12日間、首相は事実上不在だったことが、これではっきりした。
臨時代理を任命することを頑なに拒んだ。
しかし、あの病人がとても執務をできたとは思えない。
首相がいなくても、とりあえず日常の行政に支障がない国。
首相の不在が問題にならない国。
それはもしかすると、成熟した「くにのかたち」なのかもしれない。
彼は図らずも、首相の存在の「軽さ」を実証してしまった。

「美しい国」だの「再チャレンジ」だの、まるで新興宗教の教祖のような物言いをするこの男の顔を見るのが、ずっと苦痛だった。
「従軍慰安婦」の「狭義の強制はなかった」などと虚言を弄する彼の声を聴くのは、ただただ不快だった。
しかし、今日はもうその苦痛も不快感も消えていた。
同情や憐れみを感じたわけではない。
そこにいたのは、かつての彼の抜け殻で、もはや別人だったからだ。
「偉大な祖父」のようにならなければと、自己を追い込んでいた「憑きもの」が落ち、病気になってはじめて、彼の本当の姿が現れたような気がした。

自分の弱さ、情けなさを認めよう。
無理に強がっても、自分が壊れるだけだ。
今の彼の姿を見ていると、そんな言葉が出てくる。

「シンゾーさん、もうおじいさんの影におびえなくてもいいんだよ。」
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by mahounofuefuki | 2007-09-24 21:39

「難民世代」の恨み節

東京大学の研究グループの調査によれば、現在の大学生の5人に1人が、高校生の時にほとんど勉強しないで進学したという。さらに2人に1人が、勉強時間が1日2時間以下だったという。
話には聞いていたが、凄まじいまでの学習意欲の低下である。

1970~80年代前半生まれの「難民世代」とか「氷河期世代」とか呼ばれる私たちの世代は、だいたいが第1次ベビーブーム世代の子どもなので、前後の世代よりも人数が多く、しかも、長期の構造不況に遭遇したため、進学も就職も「狭き門」であった。
課外で勉強せずに大学へ入るなど、よほどの「三流」大学でもない限り、考えられなかった。

しかし、急速な少子化の進行で、「狭き門」は「広き門」になり、選ばなければ、大学にはどんな低学力者でも入れるようになったわけである。
「一流」大学こそ依然として高倍率ではあるが、定員が減ったわけではないので、以前に比べて相対的に学力が低くなっているはずだ。
さらに、この10年の所得格差の増大と学費の値上げで、進学には学力よりも財力がものを言うようになり、優秀でも貧しい者や地方在住者は進学が不利になった。
現在、将来の日本社会を背負う「一流」大学進学者の多くは、金持ちの「バカボン」ばかりとは過言だろうか。

もうひとつ見逃せないのは、インターネットが学習習慣の定着を妨げていることである。
地道に勉強せずとも、ネットの検索機能を駆使して、「お手軽」に物事を知ることができるようになってしまった(それが正確でないからタチが悪い)。
今や、大学のレポートをウィキペディアからの丸写しで提出する学生が「スタンダード」だし、小中学生でも平気で宿題の答えを「教えて!goo」や「Yahoo!知恵袋」で得ようとする。宿題代行業なるものも登場した。
私たちの世代でも、すでに「努力と根性」は過去の遺物であったが、今や何でもありである。

私たち「難民世代」は、たとえどんなに優秀でも、新卒一括採用からあぶれてしまうと、正規の職には就けなかった。しかし、今の若い人々は、こんなに「テキトー」でも、売り手市場のため就職できる。この不公平は何とかならないものか。
こんな状態が長く続けば、社会のあらゆる領域で実務能力がどんどん低下していく。すでにその兆候は表れている。早急な対処が必要だろう。

今回のブログは完全に「恨み節」になってしまったな・・・。
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by mahounofuefuki | 2007-09-23 05:43