2008年 09月 29日 ( 1 )

「中山騒動」と「劇場」型政治

 政治が「劇場」化する必要条件は何か、ということを今年の大阪府知事選以来考えているのだが、今のところ①衆目を集めるエキセントリックなキャラクター、②大衆の敵意を喚起する「既得権益」、③筋書きのない展開へのライヴ感覚の3点に集約しうるのではないかと仮定している。「郵政選挙」や「橋下劇場」はこれらすべてを備えていた。一方、先の自民党総裁選は「出来レース」になったために③が決定的に欠如していたことが「劇場」化失敗の最大の要因であろう。

 昨日国土交通大臣を辞任に追い込まれた中山成彬氏をめぐる「騒動」は、自民党内では「失策」と受け取られ、「いい迷惑」という「空気」が大勢を占め、報道が伝える一般の世論の声も「ネット右翼」のヒステリックな中山擁護の論調とは裏腹に、中山発言への不快感と批判がほとんどである。中山氏は少なくとも27日の宮崎での日教組に対する中傷は、世論の喚起を狙った「確信犯」だったと自認し、いわばこの問題の「劇場」化を図っていたことを認めたが(橋下徹知事を引き合いに出したにもそのための戦術だろう)、現時点では「劇場」化そのものは「失敗」に終わったと言えるだろう。

 「中山劇場」が不発だったのは、先の3条件のうち①と③が不足していたからだと推定しうる。①に関しては、中山氏の発言自体はエキセントリックであったが、中山氏本人はラ・サール→東大→大蔵省という絵に描いたような「古いタイプのエリート」で、キャラクターとしてはむしろ「元高級官僚」という「大衆の敵」になりうる素質をもっているほどである。③に関しては、問題表面化直後から「地位にしがみつくつもりはない」という趣旨の発言をして、既定の「更迭」路線を自ら追認しており、「辞任による決着」は目に見えていた。

 逆に言えば、これが大衆受けするキャラクターの持ち主であったり、あくまで辞任しないとゴネて、「罷免されるか否か」という「ドラマ」が成立していたなら、「劇場」化していた可能性は十分にあっただろう。また当初から日教組だけを標的にしていたならば、異なる展開になっていたことも考えられる。民族問題と成田問題は政府や自民党の公式の立場と矛盾するが故に、支持者からも疑問がもたれたわけでだが、日教組への敵視は自民党・保守層の共有認識である。大衆世論にあっても公務員バッシングや学校不信の煽りもあって日教組への敵意は根強い。ちょっとした歯車のかみ合わせの違いで、日教組バッシング→解散・総選挙の一大争点化という展開になっていたかもしれない。

 現実問題として、「劇場」としては不発であったとは言え「中山騒動」がさまざまな問題を隠蔽する役割を果たしたことも否定できない。麻生太郎首相による国連総会でのインド洋給油継続公約や集団的自衛権行使を容認する発言は、「中山騒動」のせいで吹き飛んでしまった。「汚染米」転売問題や厚生年金記録改ざん問題も相対的に弱まってしまった。「敵失」がないと何もできない民主党は「中山問題」で内閣を追及すると息巻いているが、あまりこの問題に囚われて重要な社会問題が置き去りにあれるのはおもしろくない。

 麻生内閣は発足当初から「末期症状」にあるのは確かだが、「末期」ならではの道化的なパフォーマンスに気をとられて、肝心な問題が見過ごされることのないよう注意しなければなるまい。「劇場」化の罠はどこにでも転がっていることも念頭に置かねばなるまい。以上、自戒をこめて。

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by mahounofuefuki | 2008-09-29 12:42