「官僚主犯説」が財界の政治介入を促進する

 ずいぶん前から「政治改革」議論となると「官僚支配」の打破ということが叫ばれ、現在の「政権交代」論でも官僚の政策決定過程からの排除や民間人の登用を求めるオピニオンは多い。「世間」における公務員バッシングと併せて、あたかも官僚制さえ潰せば全てうまくいくというわけだが、果たして本当にそうなのか?

 この「官僚バッシング」について、法政大学教授の杉田敦氏が今月の『世界』で次のように指摘していた。私には至極納得できる内容だ。
 いまおっしゃったこととも関係してくるのですが、日本では従来は官僚が政策立案の中心になって、よくも悪くも官僚がやってきた。これに対して、とくにいわゆる90年代からの政治改革等の議論では、官僚支配から政治家中心へということが叫ばれ、選挙制度改革とか、内閣機能の強化が行われ、政治家、なかでも総理大臣に権力を集中させることは正しくて、官僚と言う、選挙で選ばれたわけではない人たちに政策機能をもたせるのはおかしいという話になった。これ自体は、もちろんそういう側面はあるし、官僚が独走するようなことはたしかによくない。
 ただ、官僚を独走させないためには、政治家がそれだけの政策機能を高めていく、あるいは政党中心で政策立案していく、そういうシステムをつくることが必要なのに、そちらはほとんど進まないで、官僚批判ばかりやっていたわけです。
 とくにこの数年は、官僚とか公務員を叩くことが主要な政治的なテーマになってしまっている。もちろん腐敗した官僚は叩かなければいけないし、必要な批判はしなければいけないのですが、ポジティブなかたちで、では、官僚中心でないならばどうするのか、それにはやはり政党とか政治家とかそれを支える市民の意識も含めて、大きく変わらなければいけない。それにもかかわらず、たんに官僚を批判すればいいという非常に瑣末な議論に陥ってしまっている。 (杉田敦の発言より、石田英敬・杉田敦「『政治』をどう建て直すか――メディアポリティクスの果てに」『世界』2008年11月号、p.132、太字強調は引用者による)

 実際、薬害を放置した厚生官僚とか、汚染米転売を黙認した農林官僚などはっきりと個人責任を問うべき例も少なくないのだが、問題はただバッシングを繰り返してはそれだけで自己満足に終始し、結局官僚制に代わる政策立案機能を全く確立できていないのが実情だろう。高級官僚を排除して、国会議員が直接行政の執行を指揮すると言っても、現実問題として全部合わせて数百人しかいない与党議員が中央行政すべてを仕切れるはずもなく、それを支える政党のブレーン機能はどの党も不十分である。

 杉田発言に付け加えるならば、「官僚バッシング」の帰結が、無能な議員による「政治主導」「官邸主導」と財界による政策決定過程への介入でしかないという現実を見過ごしてはならないことだ。前者に関しては安倍内閣がその典型で、公務員制度「改革」に熱心な一方で、「チーム安倍」なる無能なボンボン集団が政治をかき回したことは記憶に新しい。後者に関しては特に中曾根内閣の「行革」以来、財界人が政府の審議会や有識者会議などを通して直接政治に介入するようになり、また現場レベルでは大銀行や大企業のシンクタンクとの人事交流や「天上がり」も増大した。その最悪例が小泉内閣時代の経済財政諮問会議であったことはもはや誰も否定しえないだろう。

 近代日本国家の基軸は確かに官僚制であり、諸外国と比較して官僚の無責任は際立ってはいる。とはいえ現状では政財官三者の権力バランスの中で極端に官だけが弱まるのは、結果として他の二者を強化するだけで決して民衆の利益にはならない。特に「官」から「民」へという美名の実態は財界の政治介入である。官僚嫌いの人々は「官僚主犯説」をとりがちだが、私は「財界主犯説」で、一方で政治献金を通して大政党をコントロールし、他方で行政機構と直接人的関係を結ぶことで、巨大資本は自らの利益に沿った政策を行わせていると考えている。本当に必要なのは財界を政治から切り離すことである。

 最近の金融危機への対応や不況に伴う財政政策の転換、さらには衆院選の先送りに至るまで、政府はいずれも財界の希望に忠実に従っている。企業献金にどっぷりつかっている自民党ならば当然だが、民主党も相変わらず官僚制の解体を公約に掲げ、景気対策や金融救済では財界の歓心を買うことを与党と競っている。だいたい小沢一郎氏のブレーンは財界人ばかりである。民主党は財界を政治から切り離すどころか、官僚たたきに乗じて財界の政治介入を促進しそうである。

 財界批判なき官僚批判は危険であることを改めて強調しておきたい。
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by mahounofuefuki | 2008-10-28 20:01


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