「改革」という病~「改革クラブ」結成に寄せて

 民主党の渡辺秀央、大江康弘両氏が離党し、無所属の荒井広幸、松下新平両氏とともに新党「改革クラブ」を結成した件。

 新党の発足メンバーがいずれも参院議員であるというのは、自民党によるあまりにも露骨な切り崩しであることを如実に示しているが、民主党という政党は「政権交代」以外の求心力はなく、与党のエサにひかれるか、何らかの弱みを握られれば、容易に「渡り鳥」となる議員は少なくない。次期国会を前にまたしても民主党の腰の弱さを露呈したといえよう。

 民主党信者の中には、従来から「造反」を繰り返し右傾色の濃い渡辺、大江両氏がいなくなることで、かえってせいせいしたという楽観的な見方もあるようだが、実際は不満分子の「受け皿」ができたことで、今後党内の疑心暗鬼は深まり、ちょっとしたことで内紛が発生するリスクは増したと考えるべきである。また、参院の議事運営にあたって民主党は議席が減少した分、過半数を維持するためには他の野党との共同行動がより必要になるはずだが、他方で特に共産党や社民党に左右されるのを嫌って、むしろ自民・公明両党との事前協議を重視する傾向も強まるだろう。

 なお今回の新党劇で制度上問題となるのは、渡辺、大江両氏が比例代表選出の議員だという点である。やはり自民党から比例代表で当選し、郵政民営化問題以降「流浪」を続けている荒井氏もそうだが、比例代表は個人ではなく政党の得票である以上、離党するのならば本来議員を辞職するのが筋である。過去にも政党の離合集散が激しかった時分に少なからず見られたが、これは何らかの方法で規制する必要があるのではないか。

 ところで、私が注意したいのは、新党の党名が「改革クラブ」と「改革」を名乗っている点である。小泉流「構造改革」が民衆に不幸しかもたらさなかったにもかかわらず、いまだに「改革」という言葉にはある種の魔力があるようで、依然としてプラスの意味で使われる。今回の「改革クラブ」の中核メンバーは政治的には「古い保守」に分類するべき人々にもかかわらず、彼らをもってしても「改革」を名乗らずを得ないところに、この国を覆う「改革」病の深刻さが現れている。

 「改革」という言葉そのものは明治期までさかのぼるが、近年に限っても「行政改革」やら「医療制度改革」やら「特殊法人改革」やら「司法制度改革」やら何かというと「改革」のオンパレードである。これで本当に社会が良くなるのならば結構だが、現実にはむしろ悪くなる一方である。それは近年の「改革」は専ら市場化・民営化の方向一辺倒だったからであり、もはや政治用語としての「改革」は新自由主義のイデオロギーを体現しているとさえ言えよう。

 「改革」と類似する用語としては、「変革」「革新」「革命」などが考えられるが、「改革」よりもラディカルなイメージを含有し、表層的な中庸を好む大衆は歴史的経緯からこれらの用語にマイナスのイメージも抱えている。「改革」もこれだけ裏切られ続ければ、もうノーサンキューといい加減見切りをつけてしかるべきだが、今も「改革」を提示すれば何となく「現状よりはましだろう」という根拠のない期待感が醸成される。

 以前、当ブログでは、「改革」よりも「新法」よりも、目の前にある「悪法」を廃止する「復旧」こそが必要だと主張したことがある。「構造改革」のせいで生活が破壊される一方なのだから、それを「復旧」するのは決して後退ではないという趣旨だが、今もその考えに変わりはない。この国では一度決まってしまうと、それを所与の条件として受け入れてしまい、「元に戻す」ことを諦めてしまいがちであるが、「復旧」を現実に行うことで「一度決まったことは覆らない」という意識を変え、「一度決まっても諦めない」主権者を形成する契機ともなる。教育基本法や労働者派遣法や個人情報保護法などなど「元に戻す」べき法令は山ほどある。

 どう見ても「改革」からは縁遠い人々が「改革クラブ」を名乗る滑稽さから、「改革」という言葉の空虚さにそろそろ気づかなくてはならない。表層的な「改革」「守旧」という言葉に惑わされることなく、何が自己の属する階級の利益を反映しているのか、その中身を見抜く力を身につけない限り、いつまでたっても身勝手な権力者にいいように振り回されるだけである。

【関連記事】
「改革」よりも「新法」よりも「悪法廃止」が先だ


《追記》

 当初、新党への参加が伝えられていた姫井由美子参院議員は、結局民主党への離党を撤回したという。本稿の主旨には影響しないが、文中姫井氏に言及した部分は削除・訂正した。
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by mahounofuefuki | 2008-08-29 12:21


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