「ムダ・ゼロ政府」構想は行政の責任放棄

 この国では小泉政権で痛い目を見たはずなのに、相変わらず「小さな政府」「民営化万能」信仰が根強く、行政の「ムダ」をなくするという掛声には右も左も賛成する。
 すでにOECD加盟国中で公務員数が最低水準なのに、まだ公務員を減らそうとする。郵政民営化にはあれだけ反対した人々も、独立行政法人や公益法人の統廃合や民営化にはまるで新自由主義者と同じように賛成する。昨年の独法整理の時、その不当性を指摘した左翼ブロガーが私以外に何人いたか。国立病院も奨学金も公団住宅も消費生活相談も独法なのに。

 そんな「空気」を利用して、経済財政諮問会議は今年もさらなる「行革」という名の生活行政切り捨てを進めている。先週には「国民本位の『ムダ・ゼロ』政府を目指して」なるプログラムを提示している。副題は「民間経営ベストプラクティスの政府への導入」といういかにも新自由主義好みの「民尊官卑」の内容だ。利潤を生みだすことを目的とする企業経営を、利潤など発生しない住民の福利厚生を担う行政に導入するということは矛盾している。
 今日の毎日新聞の社説が不十分ながら、この「ムダ・ゼロ政府」構想の問題性を突いている。以下、毎日新聞2008/04/21朝刊社説より(太字強調は引用者による)。
(前略) 日本の政府は、国、地方を問わず、無駄が多過ぎるといわれてきた。そこで、中曽根康弘政権以来の行革では小さな政府の実現を目指してきた。その動きが加速したのが小泉純一郎政権時だった。「民間でできることは民間に」との掛け声で、行政サービスの民間開放や民営化が推進された。
(中略)
 ただ、政府は小さければ小さいほど望ましいという新自由主義に基づいた改革一本やりでは、適正な水準の公共サービスの確保や不公正や不平等のない供給に支障が生じることは明らかになっている。仕事の見直しでは、行政がやるべき業務を明確にし、国民に示さなければならない。行政が担ってきた各種サービスの中には民間が担当した場合、質の低下や供給の不公正が生まれかねないものも少なくない。コスト意識だけでは割り切れないのが公共サービスなのである。
 市場メカニズムを使った方が、質、量の両面で水準を維持でき、効率も高められる分野では、行政が責任を持ちつつ民間参入を進めていけばいい。ただ、市場化テストなどではその基準が必ずしも明確とはいえない。これまでは、ある程度サービスが低下しても行政の効率化を達成できればいいという発想が優勢だった。コスト削減第一ということだ。
 国民の安心を高めることは福田政権も掲げている。国民は国、地方いずれにもサービスの維持や向上を求めている。そのすべてに応えることは不可能だが、行政に固有の仕事は必ずやる。それが政府の信認を高めることにつながる。そうした仕事は無駄なのではない。必要なのだ。
 中曾根内閣が行った医師数抑制と国民健康保険への国庫負担削減が回り巡って、現在の医師不足や国保財政の悪化を招いたように、一度行政規模を縮小すると数十年は回復できない取り返しのつかない事態になるのである。
 我々はつい嫉みから「天下り」や「退職金」のようなわかりやすい攻撃対象に目を奪われがちで、行政の「市場化」「民営化」が住民生活にダメージを与えることをなかなか自覚できない。在日米軍への「思いやり予算」のような「本当の無駄」に比べれば、天下り官僚の退職金などたかだかしれている。「小さな無駄」に目を奪われて、「大きな給付」を失っては元も子もない。

 税金を国家に支払っている以上、主権者たる我々には国家から給付をうける権利がある。「小さな政府」とは税金だけとられて給付はもらえないというシステムである。税金も減らして給付も減らせばいいという人もいるだろうが、それは完全弱肉強食の無法なジャングルでいいという意味である。それでもいいという人は私の「敵」であって「さよなら」である。
 十分な教育、十分な医療、十分な福祉を受けたかったら、「小さな政府」を支持してはならない。「財政再建」「行政改革」「地方分権」という美名はだいたい公的な社会保障機能の切り捨てだと考えた方がよい。

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平成20年会議結果 第8回会議 配布資料:内閣府 経済財政諮問会議
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by mahounofuefuki | 2008-04-21 21:08


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