犯罪報道は本当に変わったのか

 今日の朝日新聞電子版に「事件報道、扇情・過熱減る 『ロス疑惑』四半世紀」と題する記事が載っていた(朝日新聞2008/04/06 03:02)。1980年代と現在の「ロス疑惑」報道を比較し、センセーショナルな見出しが躍った四半世紀前から、容疑者を「犯人視」せず関係者のプライバシーに配慮するようになった現在への変容を取材する側が「自画自賛」した内容だ。以下、同記事より。
(前略) 「ロス疑惑」以降も大きな事件が起きるたびに、報道と人権の問題がクローズアップされる。
 ロス事件当時、既に容疑者呼称を始めていたNHKを除き、朝日を含む多くの報道機関は逮捕された人を呼び捨てにしていた。
 転機は89年。都内で起きた女子高校生コンクリート詰め殺人事件や、首都圏で4人の女児が殺害された連続幼女誘拐殺人事件を巡り、「過剰報道」批判が再び巻き起こった。東京都足立区の母子強盗殺人事件では、逮捕された3少年の「非行ぶり」がしきりに報道されたが、東京家裁は結局不処分の決定を言い渡す。
 この年に死刑囚の再審無罪もあり、朝日新聞の警視庁クラブサブキャップだった清水建宇さん(60)は「容疑者呼称は不要だと主張していたのが根拠を失った」と振り返る。この年から多くのメディアが容疑者呼称に踏み切る。容疑者を「犯人視」しない報道への取り組みも本格化した。
 しかし94年、松本サリン事件では、各社が被害者の河野義行さんを容疑者のように報じる問題が生じた。98年の和歌山カレー事件では逮捕前の容疑者の自宅を報道陣が40日間も取り囲んだ。
 メディア側では00年以降、報道検証の第三者機関を設ける試みが広がった。日本新聞協会は01年、集団的過熱取材(メディアスクラム)対策の見解を出した。
 三浦元社長の今回の逮捕報道は、四半世紀にわたる報道の変化を反映している。(後略)
 記事中で弁護士の喜田村洋一氏が指摘するように、容疑者だった三浦和義氏がマスメディア各社を名誉棄損で提訴し、多くの勝訴を勝ち取ったことで、事件報道の質がこの四半世紀である程度変化したのは確かだろう。
 しかし、推定無罪原則の無視関係者(被害者や容疑者やそれらの家族など)の戯画化集団的過熱取材(メディアスクラム)捜査当局発表への無批判など事件報道の問題の根幹は、「ロス疑惑」の頃から何も変わっていないように思う。光市母子殺害事件などの報道に至っては「ロス疑惑」よりも悪質になってさえいる。
 冷めた見方をすれば、今回の「ロス疑惑」再燃報道がかつてほど過熱していないのは、もはや三浦氏のキャラクターとしての賞味期限が切れる一方、新たな「エサ」もなく(何しろ今さらジミー佐古田氏のような「老兵」が引っ張り出される始末だ)、数字が取れる要素に不足しているからにすぎないのではないか。

 朝日の記事は触れていないが、この四半世紀で変わったのはむしろインターネットのような「報道の受け手」側が発信できる手段が存在するようになったことで、それらに露出した大衆のナマの欲求がマスメディアのセンセーショナリズムと共鳴していることである。 
 不特定多数が共時性を持ってコミュニケーションしうるインターネットは、一種の「祝祭」空間である。そこで大衆がメディアに求めるのは、「みんな」が「楽しめる」あるいは「泣ける」ような「ネタ」を提供してくれることである。そして単純な犯罪報道ほど「祝祭」的な「ネタ」はない。被害者でも加害者でもない「絶対的な第三者」として安心して楽しめるからだ。
 このような構造の下では、客観的な報道や冷静な報道は「祝祭」に水を差す「空気の読めない」行為としか映らない。マスメディアが大衆の要求に応えようとすれば、容易に過熱報道は激化する。

 容疑者の呼び捨てをやめたとか、自主規制機関が作られたといった形式的な事象の水面下では、むしろ事件報道を単なる「ネタ」として消費する社会状況が進行しているのである。「何のために事件報道があるのか、根本的に議論すべき」(青山学院大学教授の大石泰彦氏、前記記事より)であるなら、このことを見落としてはなるまい。
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by mahounofuefuki | 2008-04-06 13:22


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