「ロスト・ジェネレーション」という呼称は無神経か

 1990年代半ばから2000年代初頭のいわゆる「就職氷河期」に学卒期が当たった、1970年代から80年代初頭生まれの世代を何と呼ぶか、今も呼称は一定していない。ある人は「氷河期世代」と呼び、ある人は「難民世代」と呼び、ある人は「貧乏くじ世代」と呼ぶ。
 そんな呼称の1つに「ロスト・ジェネレーション」というのがある。一昨年あたりから特に朝日新聞がこの「ロスト・ジェネレーション」という言葉を多用しはじめ、「ロスジェネ」という略称もしばしば用いられるようになっている。
 この「ロスト・ジェネレーション」に、メディア研究者の桂敬一氏が「『ロスト・ジェネレーション』というな!ひとりよがりで無神経な朝日の言葉の使い方」というコラムでかみついている。
 NPJ通信 メディアは今 何を問われているか 桂敬一

 桂氏の主張の要点をまとめると次のようになる。
①「ロスト・ジェネレーション」とは元々、第1次世界大戦により伝統的価値観が崩壊した1920年代のヨーロッパで青年期を迎えた世代による文学的潮流を指す。
②ヘミングウェイ、スタインベック、フォークナーらこれらの世代は「伝統から断ち切られ、不安に投げ込まれはしたけれど、自力でなにかが選び取れる、大きな自由に飛び込んでいった若者たち」だった。
③朝日新聞が「就職難、派遣・請負などの非正規雇用、オタク、引きこもり、ニート、加速する格差社会のなかの差別など」を総括するために「ロスト・ジェネレーション」と呼ぶのは、「安直な風俗的世代論」への「援用」であり「悪用」「不見識」である。
④当該世代に対する不当な扱いは「単なる差別というより、不公正な社会的排除というべきもの」だ。「後期高齢者」への社会的排除のように、現在の社会問題は「世代論ごときものの対応では間に合わなくなっている」。
⑤「貧乏人たちのジャンヌ・ダルク」雨宮処凛さんが提唱している「プレカリアート」の方が、「ロスト・ジェネレーション」より実態に合っていて「安易な世代論がつけ込む隙もない」。
 結論から言えば「この人は何もわかっていない」と言わざるをえない。要するに桂氏は現代日本の氷河期世代に、反体制のエネルギーに溢れていた「ロスト・ジェネレーション」の呼び名は相応しくない、「世代」で切り取るのはやめろと言っているのだが、そうした発想は我々の世代の苦しみを全く理解していないから出てくるのである。

 桂氏が「本来の『ロスト・ジェネレーション』には、もっと大きな歴史の混沌のなかに進んで身を投じていくエネルギーや、そこで不正に立ち向かっていく勇気」があったと強調する時、明らかに今の氷河期世代にはそれがないという非難を含んでいる。「お前らは本当の『ロスト・ジェネレーション』じゃない、なぜなら不正と闘う勇気がないからだ!」という意味を含んでいる。
 彼のような恵まれたインテリゲンチャ(「左翼」をやっていても生活できる職業知識人)には、なぜ氷河期世代の、それも社会的弱者の多くが「自己責任」論を受容させられ、堀江貴文を「革命家」とみなし、郵政選挙でコイズミを支持したかは全く理解できないのだろう。「エネルギー」も「勇気」もないのは、そんなものを持てばますます社会から排除されるからだということが全くわかっていない。
 学生運動の闘士が大蔵官僚や商社の経営者になれる時代はとっくに過ぎ去った。日本社会をそんな息の詰まったものにしてしまったのは誰か。少なくとも我々の世代ではない。

 桂氏は「ロスト」には「迷子」「行き場がない」という含意もあると指摘するが、それならばまさに今の氷河期世代にぴったりの表現である。
 終身雇用でない非正社員には中高年になる時に仕事に就いている保障は全くない。正社員は正社員で過労のために生きているかどうかの保障がない。「ニート」や「引きこもり」(いずれも差別用語だと私は考えているので「」つきで用いる)はなおさらだ。いつ社会との関係を断ち切られるか皆が不安を抱えている。まさに私たちの世代はよほどの特権的エリートでもない限り「迷子」なのである。
 後期高齢者医療保険制度は高齢の年金生活者に保険料を負担させるというとんでもない制度だが、75歳まで生きられただけ氷河期世代よりはましである。我々の世代の非正規労働者は大半が社会保障制度から排除されている。国民年金や国民健康保険は低賃金のため払えず、雇用保険も機能していない。今のままでは75歳どころか、パラサイトしている親世代が死ねば氷河期世代もジ・エンドである。

 旧来の左翼は「階級内階級」が存在する事実を認めたくないのか「世代」で区切るのを嫌う。中高年の雇用を守るために氷河期世代が犠牲になったと言われるのを避けるためもあろう。しかし、そんな机上の理論とは別に、現実に「安定」や「希望」や「生きがい」を「ロスト」させられ「迷子」であるのを余儀なくされている「世代」が存在するのである。まずはそれを認めて欲しい。
 昔から貧困はあった、辛いのは氷河期世代だけでないというかもしれない。近代日本には一貫して貧困が存在したのは事実である。しかし貧困がミニマムであった時代と、現在のように大学を出てもまともな職に就けなかったり、「家族」「親族」「地域」「会社」のような社会的紐帯(さまざまな矛盾を抱えてはいても)が崩壊した時代とでは、やはり大きく異なる。我々は無防備にジャングルに投げ出されたようなものなのだ。

 確かに我々の世代にはヘミングウェイやスタインベックがいない(さすがに佐藤友哉や乙一を彼らと同列にはできん)。そこで問われるべきは「なぜヘミングウェイがいないか」であって、「ヘミングウェイに比べてお前らは甘い」ということではない。
 ヘミングウェイやフィッツジェラルドにはガートルード・スタインという庇護者がいた。しかし、今の氷河期世代にはスタインがいない。スタインたるべき人たちは、一介のコンビニ店員が「こんなみじめな人生を強要させられるくらいなら戦争でも起きないかな」と言っただけで袋たたき。これでは我々は本当に「行き場」がない。民衆の「分裂」を避け「統一」を目指すならば、氷河期世代の悲鳴を真摯に聞かねばならない。

 私は「ロスト・ジェネレーション」という呼称自体は、好き嫌いは別として悪くはないと思っている。「プレカリアート」という造語も巧いが、これだと終身雇用を得られた層は含まれない。元の意味はどうあれ、桂氏のように忌み嫌う必要を全く感じない。
 むしろ朝日新聞が批判されるべきは、そんな言葉の使い方ではなく、当の朝日新聞社が非正規労働を用い、不当な処遇を与えていることだろう。朝日に限らず新聞社は非正規労働の不安定性を問題にするのならば、まずは足元の問題に誠実に対応してもらいたいものだ。特に販売店の労働環境は相当ひどい状態にあるのは周知の事実である。

 なお揚げ足とりになるが、雨宮さんを「貧乏人たちのジャンヌ・ダルク」と呼ぶ方がよほど無神経に感じる。ジャンヌ・ダルクはフランスの「救国のヒロイン」と目され、いわば「体制」を救ったということを讃美される人である。国家の犠牲者の側に立つ彼女に、国家側の象徴の名を与えるのはおかしい。朝日を批判する前に自分の言葉の使い方を反省して欲しい。
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by mahounofuefuki | 2008-03-13 21:21


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