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「自白偏重主義」の危険性

最近の日本の世論はとにかく「犯罪者」に厳しい。
犯罪の社会的・経済的背景を考える余裕もなく、被害者でもないくせに、憎悪の炎を燃やし、復讐を扇動し、時には本当の被害者に「悲劇のヒーロー」の役割を強要する。それも犯罪を憎み、正義感をもってやっているのではなく、単に優越した立場からバッシングして自尊心を満たすために、「安心して攻撃できる絶対悪」を求めているにすぎないから始末に終えない。そういう人々に限って、同じ犯罪でも経済犯罪とか不当労働行為には寛容で、「騙されるほうが悪い」「仕方がない」と逆に被害者を攻撃する。彼らの「好み」は殺人や暴行や強姦といった事件で、難しいことを考えずに済む「勧善懲悪」物語を要求しているのである。

しかし、その「犯罪者」が本当は「犯罪者」ではなかったら? 警察の誤認逮捕だったら? あるいは自白を強要されていたら? 証拠が捏造されていたら? もしかすれば事件そのものが架空のでっち上げだったら? 
まさにそういう事例が、今日再審の判決が出た富山での冤罪事件である。

2002年に富山県で起きた強姦と強姦未遂事件で、タクシー運転手が逮捕・起訴され、「自白」により懲役3年の実刑判決が確定、刑務所に服役した。ところが、その後別の事件で逮捕された人が富山の事件の犯行を自供し「真犯人」であることがわかった。服役までした人はまったくの無実だったのである。
検察が無罪を求刑するという異例の再審となり、今日ようやく富山地裁から無罪判決が出た。判決は犯行現場の足跡やDNA鑑定などの物証から「自白」の信用性を否定したが、逆に言えばそこまで物証がありながら、最初の裁判で有罪だったのは、日本の刑事訴訟が依然として「自白」を偏重していることを示している。しかも「真犯人」がわかったのも「自白」である。もし「真犯人」が「自白」していなければ真相は闇に葬られていた可能性が極めて高い。地道な捜査を行わず、「自白」に頼るやり方がいかに危険であるかが明白だ。
それにもかかわらず、今日の判決は「自白」を誘導した検察の取調手法について不問にしたのが残念だ。以下、毎日新聞より一部引用しよう。
「納得いかない」。富山地裁高岡支部で10日あった富山冤罪事件の判決公判。逮捕から5年半ぶりに無罪判決を手にした柳原浩さん(40)は、ぶぜんとした表情を浮かべた。再審には、自らが「容疑者」「犯人」とされた理由の解明こそを望んだ。この日の法廷で得たものは、わずか10分で読み上げられた判決と、心に響かない藤田敏裁判長の付言だけ。柳原さんの声は、またも司法に届かなかった。
 午後3時。紺のスーツ姿で入廷した柳原さんは被告席に着き、緊張をほぐすように肩を1度回した。裁判長が読み上げる判決を、じっと座って聴き入った。判決は、不適切な捜査には触れず、誤審への謝罪もなかった。
 判決後、柳原さんと弁護団は、富山市の県弁護士会館で記者会見した。裁判長が「無実であるのに服役し誠にお気の毒に思う」などと、人ごとのように付け加えた言葉に対し、柳原さんは「当時、いいかげんな裁判をしなければ、こういうことにはならなかった」と、怒りをあらわにした。
 ただ、取調官の証人申請が2度にわたり却下されていたことから「裁判官には期待していなかった」との本音も漏らした。
 弁護団は「検察が請求して行われる現行の再審では、事実上、冤罪の原因究明のための活動が何もできなかった」と、悔しさをにじませた。
あくまでも自らの誤りを認めない裁判所の姿は実に醜い。日本の刑事訴訟では1度証拠採用された供述調書はなかなか覆らない。たとえ矛盾する物証があっても、「自白」が優先される傾向がいまだに続いている。しかし、裁判所も検察も警察も「自白偏重主義」をやめるつもりは当分ないらしい。
日弁連は取り調べの完全録音・録画を要求しているが、何としても実現する必要があるだろう(それも問題がないわけではないが、その件はまた別の機会に)。

こういうことは他にもきっとあるのだろう。
安易に逮捕=「犯人」と決めつけバッシングする行為がいかに危険であるか、深く自省を促す事件である。
by mahounofuefuki | 2007-10-10 23:10


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